第十六話 『もし関係性の認識というものが相手と自分で違っていたら、それはきっと苦しいものだ』

 ボクと幽妃ゆきちゃんが出会ったのは、二年前。

 高校受験を控えたボクが交通事故にあって、数日間の入院を余儀なくされた時のこと。

 当時、ボクより前から長期の入院生活を送っていた幽妃ちゃんがリハビリテーション室の近くで転倒したところをボクが助け起こしたことがきっかけだ。

 話によれば、水難事故が原因だったそう。


 白い髪と薄い肌色の体がなんとも病弱そうで、端正な顔立ちも相まって儚く思えたのが、第一印象だった。


「私、海へ行かなきゃならないんだ」


 会話を交わすうちに彼女が言っていたセリフ。

 水のせいで、体が一時的に動かなくなるほどの後遺症を負う被害に遭ったというのに、そんな事を言うのがずっと気になって、ボクは短い数日のうちに飲み物を買いに行くフリをして何度もリハビリ室の前を通りがかった。


 割れてしまいそうな体で頑張っている様子にどうしようもなく応援したくなったのもあると思う。


 思えばあの時から、ボクは彼女に踏み出せていなかった。

 だって、話す機会も何度かあったのに、数日の中でボクは彼女が海に行きたがっている理由を聞くことが出来なかったんだから。


 それから一年後、私立高校に入学したボクは幽妃ちゃんと再会し、同じクラスということもあって、すぐに友人になった。


 意識したのではなく、単なる偶然。

 でもボクは、どうしても運命的なものを感じてしまって、あの時に聞けなかった答えを知ることができると思っていた。


 ***


 きんこーん、かんこーん。


 幼少の頃から何度聴いたか分からない、お決まりの学校のチャイム。


 教室の中、小説を片手にぼうっとしていたボクは、スピーカーから響いた音にびっくりして黒板の上にかけられた時計を確認する。

 時計の針は十九時の最終下校時刻を指していた。


 高校一年目の夏休み前、期末テストまで残り三日。

 部活動も中止される期間中は、学校に最後まで残り続ける生徒の姿はほとんど見られなくなる。


 日も地平線に沈み始めて薄暗くなった教室の中には、ボクと幽妃ちゃんと担任の教師である師走風鈴しわすふうりん先生の三人だけが残っていた。


 ボク達が残っていた理由は、幽妃ちゃんが先生に入学当初から指名されて自習兼補習授業を受けさせられていたから。ボクはというと、ただの付き添い。


「もう、帰っていいぞ」


 チャイムが鳴り終わると、それまで幽妃ちゃんに数学の問題を教えていた先生が、億劫そうにボクたちに帰宅を促した。


「ありがとうございました」

「ん」


 幽妃ちゃんのお礼に短く反応だけ返すと、小柄な教師歴三年目の先生は、エアコンの電源を消して、足早に教室を後にする。

 一つ結びの黄緑色の髪をゆらゆらと揺らしながら廊下の扉の方まで歩いていった。噂によればアニメキャラクターみたいな奇抜な髪は地毛なのだとか。


「……ごめんね」


 先生がドアに手をかけたあたりのタイミングで、幽妃ちゃんがボクに向かって笑いかけた。


「私、あまり頭が良くないから歩くんのこと、いつも付き合わせちゃってるね」


 そう言って謝る彼女の表情は明るいが、声には暗いものが混じっている。

 狭い教室の中でもあまり響かない、消え入りそうな柔らかい声がボクの鼓膜をささやかに揺らし、溶けていく。


「だっ、大丈夫だよ! ボクは全然……」

「でも毎日は、歩くんも飽きちゃうよね」


 この会話も、これで何回目だろう。


 気にしなくていいのに。


「そんなことないよ。ほら、本だって持ってきてるし、帰ってもやることないしね」


 ボクは全く飽きてなどいない。帰ってやることがないのも本当だし、こうやって一緒の時間を共有するってことがなにより心地よくて、つい幽妃ちゃんがもっと課題に苦戦して欲しいなんて思ってしまう。


 先生が多忙で補習授業を行えない時は、時間があっても幽妃ちゃんはすぐに帰宅してしまうから、先生には感謝の気持ちでいっぱいだ。


「そうなの? でも……」


 けれど、それだけでは幽妃ちゃんにとって満足のいく解答にはならなかったみたいで、彼女は何かを思い出すように目線を上げながらきょとんと首を傾げた。


「歩くんの持ってるその小説って一か月前に持ってきてたものだよね」

「うっ……」

「それにいつも私のほうを見て、悩みがありそうな顔してるよ?」

「それ、は……」


 純粋な気持ちに当てられて、思わずボクはたじろいだ。


「……?」

「う、ぅ……」


 そんなに長く、澄んだ瞳でじいっと見据えるのはずるいと思う。

 色んな意味の言葉にしにくい気持ちで、胸が高なってしまう。


 指摘は全部、正しかった。


 小説を片手にしていると言っても、それは付き添いの合間の暇つぶしという建前でしかなくて、頭の中に思い浮かぶのは彼女のことばかり。


 今日だって、幽妃ちゃんの床に着くくらいに伸びた白髪が、また少し地面と距離を縮めたことに気がついた。

 そんなことを言って嫌われたら怖いから聞けないで、言えないままでいるのけれど、幽妃ちゃんはどうしてそんなに髪を長く伸ばしているのだろう。

 確かに綺麗だし、白い肌と溶け合ってよく似合っているけれど、偶に足を取られそうになったりして毎日不便そう。


 今日の放課後は、そんなことばかりに時間と思考力を費やしていた。


 何も答えられないままでいることが奇妙に思えたらしい。

 疑問に答えあぐねるボクを見兼ねて、幽妃ちゃんの声だけでなく、表情までも暗いものになっていく。


「やっぱり、私なんかといても……」


 幽妃ちゃんの目線が地面に落ちかけた所で、教室のドアの方から「帰ってもやることないだぁ?」と投槍な態度の声が飛んできた。先生のものだ。


「手塚、もう三日でテストだぞ。お前、家でも勉強してないのかよ」

「……え、えーと」


 先生の方に視点を移せば、若干の批難の意志を込めた視線を送ってくる。


「せっかくこの教室にいるんだから、どうせならあたしに質問してもいいんだぜ」


 ぶっきらぼうな男口調はともかく、言葉は頼もしい教師のものだった。


「まあ、お前の場合、次の期末の点数は悪くないから効率的には構わないんだろうが……教師の立場としては勉強したらどうだ、と言うべきなんだよ」

「どっちなんですか、それ」


 とはいえ、大してボクの成績自体には興味がなさそうなので、恐らくボクがここに居る理由を作れるように気を利かせて助け舟を出してくれただけだろう。

 それと、まだ始まってすらない中間テストの結果を断言されても困る。


「勉強しろって意味だ」


 そう言うと、今度こそ言い忘れた事も消えたといった感じで先生は乱雑に引き戸をがららと開く。途中、古びたドアのレールが引っかかって止まってしまい、先生が「チッ、建付けゴミなんだよクソが」と小声ですごい暴言を吐いていた。


「……まあいい。文園には、どんな理由であれお前がついてないとな」

「はあ……」


 どういう意味ですか? それ。


 言葉の意味を尋ねる前に、先生は教室を後にする。

 軽い足音は一瞬のうちに、廊下の奥へと消えていってしまった。


 まるで何か知っているような言いぶりだった。


 先生が教室から去ると、残りはボクと幽妃ちゃんの二人だけになった。


 教室に残る理由も無くなったボクたちは、帰宅の用意を始めた。

 先程、幽妃ちゃんが落ち込んだ様子でいたことが気がかりになって、そっと横目に見やる。

 すると、視線に気づいた彼女がボクの方に顔を向け少しだけ目を細めて微笑んだ。


「勉強……がんばろうね」

「っ、そうだね」


 片手で小さくグッとガッツポーズを取る幽妃ちゃんが本当に可愛らしい。


 こうして彼女のなんでもない仕草に顔が熱くなってしまうのを自覚するに、実際のところ、一緒に居てもらわないとダメなのはボクな気がする。


 だって彼女はボクが居ない日でも、当たり前のように登校して授業を受け、帰宅している。

 対するボクはというと、幽妃ちゃんが居ない日はちょっと呆けてしまいがち。やる気がない訳では無いけれど、やっぱりあまり楽しくない。


 やっぱり、一緒に居ないとダメになってしまいそうなのはボクだ。


「よし、確認終わり。幽妃ちゃんは?」


 ノートや教科書類を鞄にしまい終えた位のところで、幽妃ちゃんに声を掛ける。


「……」


 返事が返ってこなかった。教科書が置かれたままの机の方に俯いたまま、何か悩みを抱えている様子で深刻な表情をしていた。


 もしかしたら、悩み事を抱えているというより辛いことを思い浮かべている時の顔だったのかもしれない。

 偶に、幽妃ちゃんはそういう顔をすることがある。

 先ほどまでこちらに笑っていたと思えば、次の瞬間には一人で顔を曇らせる。

 その理由を聞きたいと思うことはある。


 悩みがあるなら聞いてあげたいと思う。

 なにか彼女にとって大きな秘密を抱えていることは、数か月の間の付き合いで感づいていた。

 隠しているわけではなくて、それを誰かに言いだすのは憚られるから、言えないままでいるということも。


 でもボクはこういうとき、踏み出せない。


 どうしたの? そんな簡単な一言さえ声に出せない。

 ボクは結局のところ、勇気が足りない。


 いつも、沈黙を破るのはボクじゃなくて、色々な考えを巡らせた後の幽妃ちゃん本人だ。


 だから意図を隠した台詞しか、ボクは知ることが出来ない。

 運がいいのか悪いのか、ボクは人の真意を察するのは得意だったから、分かってしまう。

 ボクは文園幽妃の本心を、いつも知り得ずにいる。


「……偶には」


 誰に言うわけでもなく、幽妃ちゃんがおもむろに口を開いた。


「勉強じゃなくって、一緒に遊びに行けたらいいのになぁ」

「へっ?」


 驚いた。


 そんな事を幽妃ちゃんが考えてくれていたなんて、という意味もある。彼女は補習が無ければ早急に帰宅してしまうから、友達とも特別仲良くなろうとはしないタイプだと思っていた。

 でも、本当に驚いたのはそこではなくって。


 彼女が自らの希望を誰かに……ボクに話したのは、これが初めてだったような気がしたのだ。


「今、なんて……?」


 多分、心の底からの考えていた事を、彼女は初めてボクに吐露した。


 でもそのセリフは時期早々だったことをボクは自覚する。


 なぜならその後に続いた言葉は、幽妃ちゃんの声を聞いた事のない声と錯覚するほどに、今までのどんな言葉よりもな一言だったから。


「だって私達、お友達こと……一度もしたことないよね」


 冷房の電源も消えたはずの教室の温度が、一気に下がっていくような、そんな感覚がした。

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