第四章-3 火炎と別離

 砦が燃えていると言う兵の言葉に驚いた釣閑斎は慌てふためいて周囲を見回した。

 確かに幾条かの黒い煙が上がり、焦げくさい臭いが漂っている。





「おのれ、やはりこういう事だったか!」

「えっ、いや、その……」

「己が身を顧みずこの砦共々我らを焼こうなど、やはりそなたは勝頼の側近だわ!」

「そんな!誰だ、火の不始末をした奴は」

「うるさい!」


 やはり話がうますぎた、必死に平身低頭していた物だからついうっかり信じてしまった自分が馬鹿だったとばかりに、信盛は脇差を抜いてあたふたしている釣閑斎に斬りつけた。


「うわーっ、佐久間殿、拙者は」


 そこまで言った所で釣閑斎の首と胴は泣き別れになり、残された胴体から鮮血が噴き出し始めた。


「なっ……」

「貴様ら、よくもこの佐久間信盛と酒井殿をたばかったな!許さん、一人残らず殺してやる!」


 釣閑斎の兵たちが呆然とする中、釣閑斎の血が塗られた脇差を右手に持ちながら信盛は吠えかかった。


「落ち着いてくだされ!今はこの砦から脱出する方が先!」

「黙れ!ここまでしてやられて黙っていろと言うのか!」

「もう大将は討ち取ったのでは」

「どうせあの大将はこうなる事を承知の上でこの策を遂行したのだ!大将を討ち取ったぐらいでは何にもならん!」

「しかし火の回りが早くこのままでは!」


 見事なほど完璧な釣閑斎の芝居にはめられた信盛は自責の念を転化するように怒鳴り散らし、火に包まれた鳶ヶ巣砦からの脱出を促す部下の言葉に耳を貸さないで吠えかかる。



「お、お、おのれ釣閑斎様の仇!」

「そうだ、釣閑斎様の誠意を踏みにじった佐久間信盛め、許せん!!」


 そしてその結果、呆然としていた兵たちの中で突如主を殺した信盛への復讐を叫ぶ者が現れた。全くもって思考の範囲外だった釣閑斎殺害という事態に判断能力をなくしていた長坂軍の兵士たちは、その声に縋るように刀を抜き信盛に斬りかかった。

 旗本たちも先程投げ捨てた脇差を慌てて拾い上げている。


「いいだろう!一人残らず殺してやれ!」


 信盛も部下の諫言に耳を貸さず突撃を命じる。


「何をする!」

「殿!!あんな連中に構っている暇はありません!」


 佐久間軍の旗本が五人がかりで信盛を引き摺って退却させようとするが、怒り狂った信盛はそれでも脇差を振り回しながら暴れていた。


「そんな暇はないだと!?」

「このままでは、奴らの狙い通りこの砦共々灰になってしまいますぞ!」

「そんなに火の回りが早いはずなど……!」

「いいえ、これが策ならば火薬を用いているやも知れませぬ!」


 そこまで言われた所でようやく信盛の頭に登っていた血が降りた。はっと気が付いた信盛が周りを見渡すや、黒い煙を見て釣閑斎を斬ってからほんの数十秒しか経っていないにもかかわらず、真っ赤な火が信盛の眼前で踊っていた。


「ええい、忌々しい奴らだ!」

「もはや一刻の猶予もございますまい!」

「わかった、退け、退けーっ!!」


 信盛は歯噛みしながら退却を宣言した。

 だが、この時既に長坂軍三百の兵士たちの心は完全に信盛への復讐で一つになっていた。兵一人一人は決して精強ではなく、勇猛とはとても言えない主に仕えていたのだが、とてもそうとは思えない力で佐久間軍の兵たちに襲いかかっていた。


「こうなったら武田の為に死ぬぞ!!」

「せっかくの好機を逃す様な馬鹿野郎はここで死ぬのがお似合いだ!」


 一方で、佐久間軍の兵士たちは広がる炎に慌てながら逃げている事もあり、まともに防戦の態勢が取れない。退き佐久間の異名を取る信盛の軍勢も、こうなってしまうとどうにもなった物ではない。中には長坂軍の攻撃を必死に受け止めようとする者もいたが、それはそれで炎に呑まれると言う悲惨な最期を迎えるのが目に見えていた。


「信盛様を逃がせ!」


 彼らの必死の働きで信盛は何とか鳶ヶ巣砦を脱出したが、それから三分もしない内に砦は完全に火に包まれてしまった。


「まだ兵が残っているのだぞ!なんとか消火できないのか、酒井殿!!」

「もはやここまで来ると……」


 無駄だとはわかりながらも、信盛は砦の外にいて無傷だった忠次に残された兵を助ける方法はないかと訴えずにはいられなかった。


「武田めぇ……!!」

 信盛には、もはや己が無念と怒りを凝縮したような唸り声を上げる事しかできなかった。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「いよいよだな……」


 一方、鳶ヶ巣砦が燃えているという報告を受けた信房はすぐさま馬上の人となった。


「いよいよだな」

「ああ兄上、信長めはどんな手で我らをもてなしてくれるでしょうかな」


 信綱と昌輝も信房に追従するように愛馬にまたがった。


「大将、それでは……」

「泣くな!その内会えるぞ。まあ、なるべく後にしてもらいたいが。では、我らは明日の武田の為に突撃してくる!そなたらは生き残れよ、明日の武田の為に!」

「お供いたします!」

「ありがたい。本音を言えば、一人で死出の旅路につくのは淋しいからな」

「信綱様と昌輝様がいるではございませぬか」

「駄目だ。兄弟は仲良く手を取り合うべき物だからな。そこに割り込むのは不粋と言う物だろう」


 陣に残された千五百の兵に別れを告げ、二千五百の兵たちと共に死地に赴かんとする信房であったが、その顔に悲壮感は微塵もなかった。


(高天神から一年、ついにあの盃が本物になる時が来たようだな。後は頼んだぞ、内藤殿・山県殿!)


 二人の戦友に心の中で別れを告げ、齢六十の猛将・不死身の馬場美濃は最後の戦いに赴いた。




※※※※※※※※※




 そして、内藤昌豊もまた鳶ヶ巣砦が燃えているという報を聞くや明日の武田のために動き始めていた。


「今さら反発する気などない……だがな、疑問ぐらいは言わせてくれても罰は当たるまい」

「勝頼様、武田軍の中で最も強い軍勢は誰だと思いますか?」

「お前は公平に見て誰だと思っているのだ?」

「大将自身が不死身と称される、馬場美濃の軍勢でございましょう」

「ああ……否定はせぬ。しかしなぜせっかく雑兵の装束で出て来たものを」


 織田など自分が出るまでもないと言う名目で事を進めて来た手前今さら姿を出す訳には行かない、と言う理由で雑兵の装束を着せて自分を寺から出したのに、今になって大将の装束を着せようとする昌豊の意図が勝頼には全くわからなかった。


「その馬場美濃の軍勢はこれから織田陣に向かって突撃を敢行し、そして誠に悲しき事ながら鎧袖一触で吹っ飛ばされる運命でしょう」

「嘘だ」

「認めたくはありませんし、どのような手を使ってくるか断定はできませんが、それだけは間違いございません」

「その現実を見ろと言うのだな、それは心得た。だが、それならば別に雑兵の装束でも」

「いいえ、その後勝頼様にはしていただかなくてはならない事がございます」


 昌豊は急ぎ用意された天幕の中で着替えている途中の勝頼の耳元で何かを囁いた。


「……それをやれというのか」

「新たなる武田の為でございます。どうか」

「………わかった」


 勝頼は思わず空を仰ぎ溜め息を吐いた後、首を下げながら昌豊の意に肯定の意を示した。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「狼煙か……それにしては妙に黒いがのう」


 柵の中にいる羽柴秀吉は鳶ヶ巣砦より立ち登る煙を見ながらそうつぶやいた。


「はっはっは、これはおそらく別働隊がやってくれたのでしょう、ですよね筑前守殿」

「別働隊……佐久間殿と酒井殿がのう」


 秀吉に調子よく話しかけるのは跡部勝資である。本来なら投降を受け入れた滝川一益か、配属先である徳川家の誰かに付けるべきだったろうが、ほんのつい最近まで勝頼の側近として肩で風を切っていながらのうのうと織田にやって来た勝資の頭を一発ぶん殴ってやりたくなった信長は、元々農民であった羽柴秀吉の下に勝資を配置した。


「こうなってしまえば本陣ももう風前の灯。打って出るしか道は残されておりますまい、ですがそれこそ織田様の待ち受ける所、と言う訳ですな。はははは」


(何なんじゃこいつは……上様の命じゃから監視役をやっておるが、本当に中身のない奴じゃ……これが勝頼側近のままだったならば、武田滅亡は時間の問題だったのにのう……)


 秀吉は内心呆れ返っていた。自分も多弁だとは思っているが、こんな軽薄に中身のない言葉を連発する事などとてもできない。

 投降したばかりで自分の印象を良くするためのお追従であるならばまだ許容範囲内だが、勝資という男の軽薄ぶりはそんな段階を越えていた。



「これで、終いになるかもしれんのう」

「そうですよ!当主である勝頼様を踏みにじった内藤昌豊めは、間もなく織田様が下す鉄槌により地獄へ旅立つ事となりましょう!一秒でも早くその時を見たいものです」

「いやわしが言ったのは武田家の事なんじゃが」

「武田に未練などございませぬ」

「勝頼殿は生きておるかもしれんぞ」

「それならばご心配なく。昌豊めの眷属を討てば武田家は再び勝頼殿の手に戻りましょう。そうなれば勝頼殿は逆臣を排除してくれた織田家に恩義を感じるはず。その際はそれがしと長坂殿の間で交渉いたす所存」


 かまをかけて武田への未練の度合いを探ろうとした秀吉だったが、勝資はわざととも思えない取り違いを行い、昌豊への憎悪をあからさまにした。さらに秀吉が直に武田の名を出すや未練などないとはっきり言い切り、挙句秀吉が勝頼生存の可能性を持ち出すやこの勝利が勝頼を救う事になるとまで言い放った。


(もし勝頼が昌豊によって虐げられていた訳ではない、という事になったらこいつは今後どうすればいいんじゃ……昌豊憎さで凝り固まって、その後の事が何にも見えておらん……)


 いくら逆臣とは言え、宿老の率いる精鋭部隊を打ち砕かれて喜ぶ大名が一体どこにいると言うのだろうか。実際問題精鋭部隊が失われれば待っているのは戦力低下による御家の衰退以外の何でもない。そんな事態を喜ぶ料簡の狭い当主の治める家を攻撃して滅ぼすのならばともかく、手を組んでもいい事はない。


「申し上げます!敵軍が滝川様の陣に向かって動き始めました!」

「数はいくらで、将は誰じゃ?」

「大将は馬場信房、数はおよそ二千五百!」


 そして、ついに武田軍動くの報が秀吉の陣にも入って来た。


「馬場信房か……昌豊の眷属め、滅べ、滅んでしまえ!」


 怪気炎を上げる勝資の隣で、秀吉は深い溜め息を吐いていた。


(この戦、上様の思う通りにはならんだろう……いや、ならんな……)


 この戦の結果そのものは「勝利」だろう事も、しかし信長の理想とは遠くかけ離れたそれになるだろう事も、秀吉は予感していた。そして、勝資という余りにも軽薄で矮小な人間に待っているであろう、絶望の二文字の到来も。

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