第四章-2 覚悟と発動

「よくもまあ……」




 馬場信房は呆れかえった表情で前方を眺めていた。


「織田は何もかも速いと聞いてはいたが、ここまでとは思わなかったな」


 跡部勝資の投降を受け入れた信長は再び休むことなく前進を開始し、連吾川手前で停止するや、あれよあれよと言う間に馬防柵を初めとする野戦陣地を築き上げた。


「あの馬防柵の耐久力をどう見る?」

「時間稼ぎにはなるかと思いますが、二、三度突進すれば……」


 真田信綱の楽観的な言葉に、信房は意外にもうなずいた。


「そう、三回突進すれば破れる、その程度の耐久力だろう。だが、信長はそれを承知でああいう柵を作っていると言う事だ」

「時間稼ぎの効果としては多少はと言う程度かも知れません。ですが」

「ああ、その多少が重要なのだろうな」

「信長とて武田騎馬隊と正面から戦いたくはないはず。とすれば…」

「ああ、とすれば矢の雨を降らせる気だろうな」


 信綱は笑みを浮かべながら首を横に振った。


「まさかそんな手ぬるい真似を」

「戯れだ、気にするな。おそらくは鉄砲だろう」

「ですね。しかしいったい何丁ほどの鉄砲を織田は所持しているのでしょうか」

「わからん。だが三百や五百ではあるまい、おそらく安く見ても千は下らないだろう。個人的な見立てでは二千前後だな」

「二千ですか…我々の手勢のほぼ半分ですな」


 絶望的とも言える言葉を発言して、耳に入れてなお、信綱と信房は笑みを絶やすことなく言葉を紡ぐ。


「まあ、二千の銃口全てが我らに向く訳でもあるまい」

「敵はおそらく、我らが射程距離に達した所で一斉射撃を行い、そして我らが馬防柵でもたついている間にさらなる射撃を行うと言う形を取るでしょう」

「仮にあの馬防柵に我ら四千で突撃したとしてだ、馬防柵を破るまでに何人が残っていると思う?」

「三千行くか行かないかでしょう」

「それは甘いだろう。三千ならばまだ十分に暴れ回る事が可能。そうなれば織田の犠牲も無視できない数となる。信長がそんな事を許すほど甘いとは思えない」

「どうやってですか」

「さあな。だが、いずれにせよ我々の運命は知れている。明日が命日となろう」

「あの、それには異議はありませんが、一つ意見がございます」

「昌輝」

「ここにいる四千は武田家きっての精鋭たちです。それを全部殺すのはさすがに」

「昌輝、気持ちはわかるがそれでは少し弱いのではないか」

「いや、そう言われると確かに惜しいな」


 信綱の弟、昌輝の意見を聞いた信綱と信房の意見は分かれた。


「いくら高坂殿と山県殿が残るにしても、所詮勝敗を決める鍵となるは彼ら優れた兵。明日の武田の為にも、全滅はさすがにまずいな」

「しかし全滅してこそ殿に訴えかける事もできるのでは」

「その点は内藤殿が何とかしてくれている、わしはそう信じている。よしそれなら、我が配下三千の内千、貴公らの兵千の内五百を残す事としよう」


 信房の言葉に、昌輝の意見に難色を示していた信綱もうなずいた。

 ところが、いや予想通りと言うべきか信房の提案に対し馬場軍の兵士も真田軍の兵士も首を縦に振らなかった。


「どうしてですか!大将が自ら先頭に立たんとする中我々に残れとは!」

「死出の旅路だと言うのならば、ますますお供せぬ訳には参りませぬ!」


 覚悟していたとは言え頑固に反対する将兵に対し、信房は凄まじい声で怒鳴り付けた。


「黙れ!この一戦ですべてが終わる訳ではない!我らの死は、新たなる武田を築く礎となるための死なのだ!その時、必ずやおぬしらの力が必要となる!本当は千五百ではなく全軍を残したいぐらいだ!そこをおぬしらの心情をはばかって二千五百で突撃する事としたのだ!案ずるな、帰った所でおぬしらを臆病者呼ばわりするような短慮で浅薄な輩など、武田には一人も存在せぬ!」


 齢六十の闘将の一喝に、さすがの武田軍の兵士たちもおとなしくなった。


「申し訳ございません、軽率でございました。私は残らせていただきます」


 やがて一人の男が自発的に残ると言い出すや、次々に残ると言う声が上がった。そして折よくと言うべきか、残ると言った兵士の数はちょうど千五百ほどになった。


「よくぞ聞き分けてくれた。ではそなたらに一つ申し付けておく。我らが全滅するなと判断したらためらいなく後退してもらいたい。敵軍がかさにかかって攻めてくる場合、そなたらが殿軍となる事は確実。そういう意味でも、そなたらには武田の明日がかかっているのだ。よろしく頼むぞ」


 重たい内容にも関わらず奇妙なほど明るく話す信房に対し、感涙を流す者もいれば、信房と同じように明るい笑顔でうなずく者もいた。ちなみに残る者には前者、突撃する者には後者が多かった。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「まもなくでござろう」


 日が変わって五月十四日早朝、徳川の重臣酒井忠次と織田の重臣佐久間信盛率いる軍勢は鳶ヶ巣砦を目指して行軍していた。数は共に酒井軍が千、佐久間軍が二千で合わせて三千である。


「我らの攻撃と共に武田軍は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、これしかないとばかりに本陣へ突撃を開始、そして……と言うことでござろうか」

「正直な話、幾度も我が領国を蹂躙して来た武田めが織田様のお力により木っ端微塵に打ち砕かれる姿、思い浮かべるだけで楽しゅうございます」

「そうですか……」


 信長の深慮遠謀に感服し、また深い恨みを持っていた武田に対し今日こそ目に物見せてやれると思っている忠次は上機嫌だったのに対し、信盛は淡々と言葉を返した。

 代々織田家の中核を担ってきた佐久間家の当主であり、個人的にも退き佐久間と称された信盛であったが、近年は羽柴秀吉や明智光秀と言った新参の者たちに押されており、そしてその事を不満に思っていた。自然、やる気のなさにも現れて来る。


「武田勝頼めは何がなんでも己が力を誇示しようとし、絶対全軍で突撃して来るはず。おそらく我らが布陣を見て脅え切っていると思い込むだろうしな」


 二人とも、跡部勝資が織田に寝返った事を知らなかった、いや信長から知らされていなかった。当然、内藤昌豊が武田軍の采配を握り込んでいる事も知らない。

 無論これは二人に信頼がないからではない。二人に武田の内情の混乱を知られて楽観されるのを嫌ったからである。


「鳶ヶ巣砦には何人の武田軍がいるのでしょう?」

「間者の報告によればおよそ三百との事。四半刻(三十分)も攻めれば落ちるだろうと考えております」

「鳶ヶ巣砦の守将は?」

「わかりません、武田菱の旗しかなかったとの事で。とにかく、この数で攻めれば問題はないはず。我らの働きにより戦の趨勢が決するのです、張り切って参りましょう」


 高揚する忠次に対し、信盛は淡々と頷くだけであった。


「まもなくやってくるか」

「はい」



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 その鳶ヶ巣砦の守将、長坂釣閑斎は黒く濁った笑みを浮かべていた。


(もう許さぬぞ、内藤昌豊。貴様のような老いぼれに支配された武田家になどもう何の未練もない。跡部殿と同じように、織田の将として目に物を見せてやろう)


 昌豊に一撃を喰らわしてやるためなら、織田も徳川もない。いかなる手段を使おうとも構わない、そこまで釣閑斎の思考は達していた。


(この砦が抜かれれば武田本陣はいっぺんに危機にさらされる…その通りだな昌豊。わかっているのならばそうしてやろうではないか)


 そして佐久間・酒井軍の先鋒が鳶ヶ巣砦に近付くや、釣閑斎の怨念が爆発した。




「えっ?」


 さあこれからと言う所で大きな音を立てながら鳶ヶ巣砦の門が開かれて行く光景を目の当たりにした信盛は、思わず言葉を失いそうになった。


「我らは貴公らに投降いたします」


 釣閑斎は投降の意思を示すように脇差を投げ捨て、周囲にいた旗本たちもそれに追従した。


「投降……だと?」

「はい、何とぞお認め下さい」

「わかった……」


 予想外の事態に戸惑った信盛だったが、この砦を犠牲なしで抜けるとあれば言う事はないとばかりに、結局はあっさり受け入れた。


「そなたは」

「拙者は長坂釣閑斎光堅と言う者でござる」

「ええっ」


 だがさらなる予想外の事態に、信盛は思わず間抜けな声を上げてしまった。


「そなたは確か武田勝頼の側近では」

「その勝頼様は内藤昌豊めに手籠めにされ、今の武田は昌豊に乗っ取られたも同然の状態でござる」

「おやまあ」

「おやまあ?跡部大炊介殿から何も聞いてないのですか?」

「跡部大炊介?」

「既に大炊介殿は武田にいられなくなって織田に投降したはずでは?」

「はぁ!?」


 そして釣閑斎と並ぶ武田の側近であるはずの跡部勝資までが織田に投降してきた事も、信盛はここで初めて知った。


「そんな……武田がそんなことになっていたとは全く知らなかったぞ!」


 佐久間信盛は信長より六つ上の四十七歳である。信秀が死んだ時には二十三歳と既に成人であり、それから尾張の内戦・桶狭間の戦い・美濃攻略・姉川の戦いなど織田家の危機に幾度となく直面し、乗り越えて来た歴戦の雄である。

 こういう辛い事苦しい事を乗り越えて来た歴戦の雄には、都合のいい話は容易に信じず、都合の悪い話は事実と受け止めると言う傾向がある。この場合も、武田の中核にいた二人の将が相次いで自分たちに寝返ると言う、極めて都合のいい話など到底信じる気になれなかった。ましてや佐久間信盛の通称は退き佐久間と言う、退却戦の達人であることを示すそれである。今まで何度も何度も苦難の戦いを繰り広げて来た。その分だけ、物の見方が他の歴戦の雄以上に塩辛くなっていた。


「これは紛う事なき事実でございます!」

「まあ、そうであろうが……」


 もし信長が信盛に勝資寝返りの報を伝えていたら、信盛はこの投降をあっさり受け入れていただろう。だが信長自身勝資を全く信用しておらず、自分の前で調子よく並べ立てた寝返りの理由も要約すれば武田家の主導権を握れなくなったのが悔しくてぐらいの事だと思っていた。そんな人間の言葉を真に受ける気など、信長には全くなかった。そしてそんな人物が持ち込んで来た情報のせいで、信盛や忠次に油断などして欲しくはなかったのである。


「お願いでございます!」

「ま、まあ……それならばさっそくこの砦を突き抜け武田本陣へと迫りたいのだが、先鋒をやってくれるか」

「喜んで」


 ようやく釣閑斎が信盛に投降を納得させた頃には、佐久間軍二千のほぼ全てが鳶ヶ巣砦に入っていた。


「それでは早速……」


 昌豊の鼻っ柱をへし折ってやるとばかりに鳶ヶ巣砦から出陣しようとした矢先、一人の兵が泡を喰った顔で釣閑斎と信盛の元へ駆け込んで来た。




「大変です!砦が燃えています!!」


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