第一章-2 軽視と決断

 農作業が終わり兵たちの態勢が整った四月中旬、武田勝頼はいよいよ上洛の軍を発する事となり、諸将を躑躅ヶ崎館の大広間に集めた。


「いよいよこれより、徳川を滅し織田を叩き上洛の足掛かりを築く!」

「えいえいおー!」

「みな、その意気やよし!」

「それで織田・徳川との決戦の策はいかに」

「長篠城は囲むだけにし、設楽ヶ原に連合軍を誘い込む!」


 眼前に控える武将たちは勝頼の勇ましい言葉に答えるように鬨の声を上げた。それに続くように馬場信房が家臣たちを代表するように問うと、勝頼は胸を張って答えた。

 設楽ヶ原は広い平野であり、武田騎馬隊の力を発揮するには絶好の地である。正直、そこで戦ができるのならばそれに越した事はないと、信房を含む誰もが思っていた。


「しかし長篠城を放置してよいのですか?」

「長篠城は堅城だ。今から攻めかかっても織田が来るまでに陥落させる事ができるかどうか怪しい。もちろん陥落できればそれに越した事はあるまいが」

「後方に敵を残すのは危険では?」

「長篠城は堅城だが小城だ。強引に攻めれば徳川・織田との対決の前に無視できない損害を出してしまう。だから包囲だけしておけばよい。我らが連合軍を打ち砕けば長篠城など熟柿が落ちるように武田の物となる。まあ、貞昌が頭を下げてきたら許してやらんこともないが」


 確かに正論ではあるが、昌豊の言っていた事を全く顧みていない理論でもある。昌豊は貞昌と交渉などするだけ無駄だと言っていたのに、勝頼はまだ交渉する気だった。また昌豊は信房と同じように長篠城を放置すべきではないと進言していたのに、それも勝頼は聞き入れていない。


「しかし」

「まだ気になる事があるのか」

「大賀弥四郎の事でございますが」


 大賀弥四郎の名前を聞かされた勝頼は思わず舌打ちした。

 武田に内通していた大賀弥四郎は、十日ほど前徳川家康により鋸挽きの刑に処されていた。内通者を殺すのは当然だが、それにしても鋸挽きとは残虐な刑であり、仮にも「侍」である人間に対してこれほどの刑を施した話はそうそうない。

 一昨年信長を狙撃した鉄砲の名手杉谷善住坊が信長により鋸挽きの刑を受けたが、いわゆる「武士」を鋸挽きで処刑しためぼしい例となると前九年の役の藤原経清まで、つまり五百年前までさかのぼらなければならない。近くでは細川晴元が反抗した家臣に対して鋸挽きの刑を行ったが、それとて三十年ほど前である。そんな刑を家康が内通者に対して行った事は、武田に付く者は絶対に許さんと言わんばかりの強い家康の意志を示すに十分であった。これにより内通者が一人いなくなり、また内通しようとする者の口も塞がれてしまい徳川の情報が武田に入りにくくなっていたのである。



「まさか徳川があそこまでやるとは思わなんだわ」

「あれを見せられれば内通しようとしていても二の足を踏みますな」

「我が武田はそんなことはせぬ」


 勝頼は誇らしげに言い放ったが、実際どうも説得力に欠けていた。勝頼はともかく、信玄はそこまでの処置をしない男とはとても言えなかったからだ。

 父親を追放して国を奪ったのは家臣たちに押された形だからともかくとしても、信濃攻略の際に討ち取った敵援軍全員の首を城の周りに並べて脅し、降参した者を金山で死ぬまで働かせ、さらに駿河侵攻に反対する長男を自殺に追い込んだ。そういう事をやって来た家が当主が代替わりしたからと言って、たかが二年でその悪い印象を払拭できるわけもない。



 人は城、人は石垣、人は堀。信玄はそう言い残していた、そして城ではなく躑躅ヶ崎館という館に住んでいた。どんなに堅固な城を作った所で、結局の所人同士の結束の方が頑強な城壁などよりよほど当てになる、それが信玄の信念であった。その結果武田家内部での結束は頑強になったが、逆に他者が入りにくい環境にもなってしまっている。


「武田の直轄領から五百石割いて貞昌にくれてやろう。長篠城と言う厄介な城を手土産に持ってきてくれるのだ、安くはあるまい」


 報酬を大量に弾む事により武田家は閉鎖的であると言う世の考えを払拭したい、その勝頼の考え方そのものは間違っていない。だが、信房にはどうしても納得が出来なかった。


「その条件で首を縦に振らねば?」

「攻め潰すまでだ。それで悪いのか」

「いや悪いとは言っておりませぬが」

「ではどう言いたいのだ?」

「こちらから出した優遇条件を拒否するという無礼を働いた相手を討ち取れねば、武田家の面目は潰れます」

「そんな事はわかっている」


 信房のしつこい言葉に、律儀に答えていた勝頼の口調が徐々に荒っぽくなって来た。


「当然、我らとしても苛烈に攻めねばならずその結果」

「だから囲むだけにしておけば熟柿が落ちるようにと!」

「それは叶いますまい。貞昌がどれだけ武田に反抗しようと貞昌の祖父と叔父がこちらにいる手前奥平家は安泰。例え我らが勝った所で家康の首でも持って来て徳川家はおしまいだと言う証拠を見せでもしない限り、徳川の信頼を得るために貞昌は死に物狂いで抵抗して来るはず。そして信長は家康に、貞昌に自らの長女を嫁がせるように依頼し家康も首を縦に振ったとか」

「何だと……?」


 家康が貞昌に自らの娘を嫁がせんとしている、と言う信房の話を聞いた勝頼の声と右手が震え出した。


「なぜこんな時まで言わなかったのだ?」

「昨日確認が取れた話ゆえ」

「こんな時に急に言われても困るのだ!」


 信房にしてみればそれはこっちのセリフだと言いたかった。

 実は今日この日まで武田の筆頭家老と言ってよい立場である信房が、勝頼の方針を全く知らなかったのである。もちろんそうするであろうという予測はついていなかった訳ではないにせよ、筆頭家老に全く相談することなく今後の方針を、しかも家全体の運命を左右するような重大な遠征についての方針を決めてしまうのはかなり問題である。


「要するにどうせよと言うのだ!」

「貞昌はもう絶対徳川の旗を降ろそうと致しますまい。多少の犠牲を覚悟で長篠城を陥としてしまった方がよろしいかと」

「攻略が長引いて織田・徳川が間に合ったらどうする!」

「どうせこの辺り一帯に設楽ヶ原以外に決戦に適した場所はなし。設楽ヶ原で戦う事になるのならばどっちでも同じです」


「温うございますな」






 信房と勝頼が口論を繰り広げ、他の将が気まずそうにその口論を見つめる中、一人口を挟んで来た男がいた。跡部勝資である。


「美濃守(馬場信房)殿は武田を甘く見ているのでは?」

「は?」


 信房は勝資の言葉の意味が一瞬本気でわからず、思わず呆けたようにつぶやいてしまった。


「長篠城を陥落させれば武田の強さをさらに喧伝する事となり、その結果織田・徳川の連中が怯んでしまい設楽ヶ原に出てきてくれないかもしれないではありませんか」

「なんと……」






 信房は開いた口が塞がらなくなった。

 いくら武田の兵が強いと言えど兵力は一万五千なのに対し、織田・徳川連合軍はおよそ四万である。半分以下の数しかない敵に怯んで籠城を決め込むなど、余りにも臆病すぎる。

 しかも昨年の高天神城攻めの時は農民が中心の武田軍は遅かれ早かれ本国への期間を強いられる晩夏から初秋だったから籠城の道もあっただろうが、今度は農作業を終えた直後で武田にも城攻めの時間はたっぷりある。

 それに、信長にしてみれば昨年高天神城を救い損ね、今回また長篠城も救援できないとあっては徳川家、ひいては世間に対して面目を失ってしまう。要するに、徳川にも織田にも籠城などと言う選択肢は存在しないはずなのだ。


「そうだ大炊介、長篠城を囮に織田と徳川を引っ張り出してやらねばな」

「いくら長篠城が堅城と言えど武田が本気を出せば容易い事」


 犠牲を出したくなかったとは言え、長篠城より与しやすかった高天神城を陥落させるのに延々一ヶ月かかっているのだ。なのに犠牲覚悟で本気で攻めかかったからと言って、織田が到着できるまで長篠城を難なく陥とせるものだろうか。

 それに、高天神城を陥落させたのも城将を討ち取ったからではなく内通者を出して城将を降伏に追い込んだという物であり、今回はまずその展開は期待できない。損害覚悟で攻めかかるのと楽勝気分で攻めかかるのでは大きな差ができてしまう。

 それに武田軍は確かに強いのだが、信房には相手が徳川だという事が抜け落ちているように思えてならなかった。三方ヶ原の戦いで信玄は徳川軍を誘き出し大勝したものの、家康の首を挙げる事はできなかった。徳川の兵が予想外の強さを見せたからである。

 前哨戦と言うべき一言坂の戦いでは当時二十四歳の猛将・本多忠勝の強さを見せつけられ、三方ヶ原本戦では己が命を捨てて武田軍に立ち向かった勇将たちのせいで家康を取り逃がしてしまったのである。

 奥平家は徳川では新参だが、武田と互角に戦った徳川軍と日の本最大の勢力である織田軍がやって来るとあらばそれだけで心強いだろうし、これまで信房が言ったように貞昌には降伏の可能性などないに等しく、そういう軍勢を相手に城攻めを仕掛けて簡単に落とせるはずがない。

 信房はそこから生まれる犠牲を承知の上で強引に攻めて陥落させるべきだと言っているのだが、勝資は我らが本気を出せば長篠城など小指一本で吹っ飛ばせてしまうのだからここで本気を見せ過ぎない方がいいとのたまっているのだ。


(ご機嫌取りのおべんちゃらを…)


 信房は勝資の本心を読み切っていた。勝資が本心としては勝頼の意見に賛同しているのか信房の意見に賛同しているのかはわからないが、言葉としては明らかに勝頼の気分をよくさせるような事を言っている。要するに、勝頼のご機嫌を取りたいのである。


「美濃守、まだ何かあるか」

「いえ……」

「ならば決定だ、解散とする。出陣は明朝だ!」


 勝頼は信房が沈黙するや、もう話す事はないと言わんばかりに話を切り上げてしまった。そして勝資以下諸将が勝頼に追従するように大広間を後にしていく中、信房は一人大広間に残っていた。



「…………」


 しばしの沈黙の後信房は懐に手を突っ込み何らかの書状を取り出し、心の中で深くため息をつきながら書状を開き、まじまじと見つめて今度は本当にため息をついた。


(自らの命なんぞもう惜しくないが…だからと言ってここまで…)


 その書状には、とても勝頼には見せられない文面が書き連ねられていた。勝頼の悪口が書いてあるわけではない。


(確かに自らの命はもう惜しくはないが、もう一人犠牲者が必要なのか……?だが、考えてみれば他に方法もあるまい……)


 信房は書状を再び懐にしまうと、意を決したように大広間を後にした。

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