長篠の勇士
@wizard-T
序章 過程
序章-1 水杯と焦燥
天正二(1574)年、甲斐の虎と呼ばれた武田家第十九代当主信玄が死して一年。信玄の四男にして後継者である武田勝頼は信玄が果たし得なかった上洛を夢見、三河の大名・徳川家康が抑えている遠江高天神城へと出兵した。
そして一月以上に及ぶ戦いの末、城主小笠原信興を降伏させ、高天神城を陥落させた。
高天神城を物にした勝頼は当然の如く戦勝の宴を執り行った。陣内には歓声が鳴り響き、佳き酒が将兵に振る舞われた。
しかしそんな中、戦勝の宴であるとは到底思えない、暗澹とした空気が漂う一角が生まれた。そんな暗い空気の漂う一角に、わずかに顔を赤らめた一人の男が足を踏み入れて来た。
「どうなさったのです」
「大炊介殿、よければ一杯どうぞ」
その一角にたたずむ男の一人から大炊介と呼ばれた男は、その言葉に従い盃に口を付け、そして困惑を露わにした。その透き通った液体からは、酒の匂いも、酒の味も全くしなかった。
「なぜまた水杯など……」
水杯と言えば死を前にした人間が行う儀式である。戦勝の宴に全く似つかわしくないそんな液体をすすっている男たちに、困惑の気持ちをぶつけたくなるのは至極当然の話だった。
「これはこれは……どこかお悪いので?」
「うむ、武田家がですな……」
その一角の中でとりわけ目立つ背の低い男・山県昌景の言葉に、両隣に座する内藤昌豊・馬場信房も同調するようにうなずいた。
「はっ?」
「此度の勝利、信玄公が見ればお嘆きになる事は必定……」
「左様、この勝利が武田家にもたらすは栄光ではない……」
「……何故です?」
昌豊と信房の沈鬱な言葉に、大炊介こと跡部勝資は顔を歪めながらなんとか口から疑問の声を吐き出した。その勝資の言葉に対し、昌景は溜め息を吐きながら答えた。
「五、六分の勝ちを最上とし、七、八分の勝ちを中とし、十分の勝ちを下とする。信玄公は常々そうおっしゃられていた」
「此度の勝利は残念ながら十分の勝ち、すなわち下。そんな勝利を喜ぶことなど……」
七、八分の勝ちではこれでいいと満足してしまい、十分の勝ちだと俺は強いと言う驕りが生じてしまう。五、六分の勝ちならば満足することなく、次に向けて努力する事を怠らなくなる。信玄は常々、そう部下たちに言い聞かせていた。
「一ヶ月もかかったのです。十分でもありますまい」
「それで、このひと月の間、何か困難があったのか?」
困難と言う二文字を聞かされた勝資は言葉に詰まった。確かに、一月以上に及ぶ戦いの結果とは言うものの、武田軍は二万五千もの大兵を擁していたのに対し、徳川軍の兵力は一万に過ぎない。
しかも武田には三河を睨む別動隊もおり、そちらにも守りを割かねばならない徳川に高天神城を救援するなど無理だった。だから家康は同盟者である織田信長に援軍を仰いだのだが織田の援軍は大軍であった為か行軍が鈍く、高天神城の救援に間に合わなかった。
要するに武田軍は単に城を完全に封鎖して、ただ普通に攻めていただけであった。
「その通り。例えどれだけの時間がかかろうとも、大した困難もなかったこの戦は十分の勝ちと言わざるを得まい」
「ちょっと待ってください。御三方にそのような事をおっしゃられては……」
「おっしゃって悪いのか?」
「わ、悪うございます……」
「何が悪いのだ」
「その、折角の兵たちの士気が……」
「わかったわかった、我らが言った事を殿に伝えてくれ」
「そうだ、それがそなたの役目であろう」
「我らよりそなたの方が、話も通りやすいだろうからな」
昌景・昌豊・信房と高坂昌信の四人は、武田四天王とも呼ばれる武田家の中核を担う人物である。そんな武田四天王の四人の内三人がこんな陰鬱な空気を漂わせていては、戦勝による士気高揚効果は吹っ飛んでしまう。勝資はその三人の四天王に迫られながら必死にそれを訴えようとしたが、三人の反応は余りにも冷たいものだった。結局、勝資は三人の老臣に厄介払いのような形で追い払われたのである。
「五、六分の勝ちを最上とすべし、此度の勝利にゆめゆめ驕るなかれと」
「確かにそう言っておったのか?」
「ええ」
「そうか」
勝資は三人が思っていたよりはずっと誠実に勝頼に三人の言葉を伝えた。それに対し勝頼の反応は極めて素っ気ない物だった。
「そういえば、お前はどう思っているのだ?」
「は?御三方のお言葉についてですか?」
「そうだ」
「えーと」
「構わん。素直に思う所を申せ」
「正直、時期的にどうかと言わざるを得ないような」
「大炊介もそう思うか!わしもおぬしの話を聞いていてそう思ったのだ。さすが大炊介、わしの心をよくわかっておる」
「このような戦勝時にそんな湿っぽい話をした事がわかってはまずいのだ…おぬしの言う通り兵たちに知られたらこちらの士気は萎えてしまうであろうし、敵に漏れでもしたらこちらの内情に不安ありと取られ呑んでかかられてしまうぞ」
「ええ……」
勝頼は高笑いしながら勝資の杯に酒を注いだ。別に勝資は勝頼に媚びようとした訳ではない。だが、勝頼がせっかく得意満面になっていた所に冷や水をかけられて腹を立てたのだけはすぐにわかった。
「この勝頼は父が陥とせなかった高天神城を陥としたのだ。それなりの褒め言葉があってもいいはずでないか。それを何だ、祝いの言葉一つもなく、この勝利が災いの始まりであるかのように言いおって」
そして、勝資は勝頼の目が据わったのをはっきりと感じた。勝頼はまだ顔全体では笑っていたが、目は全く笑っていなくなった。
「……おや、その顔からするとそう言われたようだな」
「いや、その」
「真偽いずれか、はっきり答えてくれ、おぬしならできよう?」
「は、はい……真でございます」
真でございますという言葉を耳に入れた勝頼は、両方の口角を高く上げた笑顔を勝資に向けた。本人にしてみれば先程以上の満面の笑みを浮かべたつもりだったが、他人から見ると恐怖を感じざるを得ない顔になっていた。
「わしは武田勝頼だぞ?おぬしはわかっておるのだろう?」
「それは無論」
「そうよ。わしは武田勝頼であって武田信玄ではないのだ。わしは父の代わりか?」
「い、いえ、れっきとした甲斐源氏の末裔たる武田家の当主であり……」
「そうだそうだ。わしは当主なのだ」
わしが武田家の当主なのだ。わしが武田家で一番偉いのであり、武田家の方針を決めるのはこのわしなのだ。それなのに老臣たちは父の事ばかり持ち出してくる。勝頼にとってそんな老臣たちはただ鬱陶しいだけの存在だった。
「世代交代……かもしれんな。その時は頼むぞ」
「はい……」
時に信房は五十九歳、昌豊は五十二歳、昌景は四十五歳。決してすぐ隠居と言う年齢でもないにせよ信房の長男昌房は三十路、昌景の長男昌次は二十七歳、昌豊の長男昌月は二十四歳と、既に一人前と言って差し支えない年齢であった。
一方で勝頼は二十八歳、勝資は二十七歳。これからは自分たちの時代なのだ、そういう自負が勝頼にはあった。だからこそ、父がついぞ陥とせなかった高天神城を陥として至福の喜びに浸っていたのに。これで信玄の息子ではない、武田勝頼と言う人間として成果を上げる事ができたのに。そこに冷や水をぶっかけて来た三人が勝頼は許せなかった。
「勝資、武田の次世代をよろしく頼むぞ」
「はっ」
躊躇っていた勝資もここまで言われてはさすがに嬉しさを抑えられない。楽しげに返事をした勝資の頭から、三人の言葉は消えていた。
この時、三人の老臣が一人の、勝頼と一歳しか違わない男を呼んでいた事を勝頼と勝資は知る由もなかったのである。そして、その男と三人の老臣が、何をしようとしていたのかも。
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