第6話
次の日、お店に行くと、
「ああ、理恵ちゃん。昨日はごめんねー」
少し困ったように笑いながら、マスターが言った。そのいつもどおりの姿に安心した。
したけれども。
「あら、友哉、もしかして、噂のバイトちゃん?」
カウンターにもたれかかるようにして、マスターと話している、その女性は誰ですかね?
手足の長い、すらりとした美女。
そんな今まで見たことのない女性が、親しげにマスターの下の名前を呼んでいる。
想定外の光景に、入り口で思わず足をとめた。
「そうだよ」
マスターは女の人に頷きかけると、私を見て首を傾げた。
「理恵ちゃん? そんなとこで止まってどうしたの?」
「あ、いえ。着替えて、来ます」
首を横に振ると、キッチンの中に入る。更衣室のある裏口には、キッチンを通り抜けて行くしかない。
「ほら、理恵ちゃん来たんだし、帰れよ。っていうか、なんか頼めよお前は」
「あらやだ、あたしと友哉の仲じゃない?」
背後からそんな会話が聞こえる。
一体なんだっていうの?
更衣室にはいると、くらくらする頭を片手で押さえて息を吐く。
昨日の英輔さんの言葉で受けた脳震盪が、まだおさまっていないのに。あの黒男のことも気になるのに。それに加えて、あの美女は一体なんだっていうの?
「……お似合いだったな」
自分の口から思わず溢れ出た言葉に、ぞっとした。
なんだか、どきどきする。顔が赤い気がする。
でも本当、お似合いだと思った。マスターと同じぐらいの年齢の、大人の女性。すらっとした体型は、マスターと並ぶと丁度いいバランスだった。
お似合いの、美男美女のカップルだ。そう思えた。
マスターに恋人なんていない。ずっとそう思っていたけれども、考えてみたら訊いてみたことなかった。
あの人が、恋人なんだろうか。
マスターのこと下の名前で呼んでいたし、私の話もしていたみたいだし。
心臓がどきどきしているのに、なんだかもの凄く冷たい。気持ちが悪い。
マスターに恋人がいる可能性なんて考えたことなかった。英輔さんの言うとおりだ。私は、マスターは私のことを憎からず思っていると信じていたし、その自信にあぐらをかいていた。
だから今、こんな裏切られた気持ちなんだ。勝手に。
涙がこぼれかけて、慌てて深呼吸した。
ペンダントを握る。
「ピラマ、パペポ、マタカフシャー」
小さな声で、それでもはっきり唱えると、少し心が落ち着いた。
セーラー服を脱ぎ、店の制服に手をかける。
今はともかく、気をとりなおさなくっちゃ。余計なこと考えないで。お仕事に来ているんだから。
こんな時でも、体に染み付いた習性で、制服への着替えはスムーズに行われる。最初は、これを着るのも手間取っていたのに。
制服に着替えると、少しだけ気持ちが切り替わった。まだ、完全には払拭されていないけれども。
姿見に自分をうつす。
可愛い海老茶式部の制服に身を包んだ私がそこにはいた。
「……がんばれ、私」
呟いて、営業スマイルを浮かべてみせる。
うん、大丈夫。もう一度ペンダントに触れる。
気合いを入れると、更衣室をでて、店に戻った。そこには、あの女の人の姿はなかった。
「理恵ちゃん」
マスターは私を見ると、いつもの笑顔を浮かべる。
「ほんっと、昨日はごめんね? びっくりしたよね」
軽く両手をあわせて言われた言葉に、
「いえ」
首を軽く横に振る。
びっくりしたのは事実だけれども。しかし、あの男はなんだったのか、尋ねてもいいものだろうか。ついでに、さっきの女の人のことも。
そう悩んでいるとマスターの方から、教えてくれた。
「ちょっとね、土地関係で揉めてるんだよねー」
「揉めてる?」
「明渡し的な」
「え、大丈夫なんですか」
「うん、状況はこっちに有利なんだけど、あいつ諦めが悪くって。さっき来てた女は大学の同期で、色々相談にのってもらってるんだけどさ。本当、ごめんねー」
そうしてマスターは柔らかく微笑んだ。
「この店を無くしたりしないからさ、嫌になるまでは働いていてよ」
その言葉に、じんわり心が温かくなる。
ああ、私ここに居てもいいんだ。マスターに必要とされているんだ。
ついでに、あの女はマスターのカノジョとかじゃないんだ。よかった、本当によかった。
「はい」
色々な感情がないまぜになりながらも、元気よく頷いた。今日もがんばろう。
なんて決意したのも束の間、
「遅くなりましたー」
まったく悪気なさそうに言いながら、はいってきたのは英輔さんだった。右手にコンビニの袋を握っている。あの中、きっとスィーツまみれなんだろうな。
それにしても、あれ? 英輔さん、今日はお休みじゃなかったっけ?
「あー、悪い、英輔」
「全然。暇だし」
言いながら英輔さんは、エプロンをつける。英輔さんには特に決まった制服はなく、エプロンだけが支給されている。そのエプロンも、大体レジの脇に放置されている。
って、あれ、英輔さんが働くの? 今日はマスターと二人だと思って、わくわくしていたところ、あったのに。
思って見ていると、
「ごめん、理恵ちゃん。そういうわけで、俺今日ちょっと出てくるから、英輔と二人でお願いできる?」
マスターが申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
ああ、そういうことか。揉めているって、言っているもんな。
「はい、わかりました」
いつも頼りないマスターが、珍しくがんばっているのだから、私もできるだけサポートしなくっちゃ。安心させるように微笑むと、頷く。
「いつもマスターがいても一人で働いているようなものですから、英輔さんがいるだけマシですね。任せてください」
ついでに、いつもみたいに、ちょっと悪戯っぽく言葉を続けた。ちょっとした意地悪。
「はは、言うと思った」
マスターが苦笑いする。
いつものやりとりに、安心する。大丈夫、いつもと何にも変わらない。
軽く笑いながらマスターを送り出そうとしたら、
「友哉、まだぁ?」
ドアが開いて、さっきの女性が顔をだした。
……待って、あの女と一緒なの?
「三恵子、ちょっと待って」
「はやくしてよね」
軽く唇を尖らせてそういうと、ドアが再び閉まる。
マスター、あの人のこと、下の名前で呼び捨てなんだ? 下の名前で呼び捨てし合う仲なんだ?
「じゃあ、二人とも悪い。ごめん。なんかあったら連絡して」
マスターは早口でそう言うと、黒いサロンをレジ脇の棚に放って、店を出て行った。
「いってらー」
英輔さんが、つまらなさそうに言いながら、軽く右手を振る。
そして、私の方を見ると、
「……ひっどい顔してますが、お仕事ですけど、平気ですかー?」
揶揄するような口調で尋ねてくる。
「大丈夫です!」
きっと睨みつけながら言葉を返すと、
「私、今日フロアやるんで。英輔さん、キッチンやってくださいね」
フロアとキッチンを隔てる入り口でぼーっと立っている英輔さんを押しのけてフロアにでる。
一人でキッチンにいるときっと余計なことを考えてしまう。だったらフロアでお客様と話をしていた方がよっぽどいい。
「えー、俺まだ、キッチンの仕事全部覚えてないんだけど」
「がんばってください。いつかは覚えなくっちゃいけないんですから。何事も練習練習!」
泣き言いう英輔さんを、わからなかったら訊いてください、と続けてキッチンに押し込んだ。
胸元に手を伸ばすと、
「ピラマ、パペポ、マタカフシャー」
小さな声で呟く。
すこぅしだけ、気持ちが落ち着く。
ドアが開く音。
「いらっしゃいませ」
間髪入れず、とびっきりの笑顔を作ると、お客様をお迎えした。
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