第20話 朝
次の日から、僕等は学校を休むことになった。魔海の中心にあるとされるファージの湧く穴の活動が活発になっている間、特隊生も含めた隊員は巣に張り付きっぱなしになるそうだ。
――いつ来るかもわからない闘いに備えるために。
それは、本土にいた時にはどこか違う世界のように思っていた憧れの物語であり、どうしようもない今の僕の生活だった。
そうして大手を振って学校をサボれることになったその日も食堂で
「あ、おはよ。遅ふぁったから迎えにきてふぁげたわよ」
口元を隠してあくびを噛み殺しながら喋る藤崎に『迎えに来たのはこれだろう』と、手に持っていた袋を差し出す。
「学校の時も、それぐらい早起きしてくれると助かるんだけど」
「うん、考えとくわ」
明らかにその気が無いとわかるような適当な返事をした藤崎は、保護者気取りの酔っ払いが気前よく押し付けてきたハムとレタスのサンドイッチをパクついて、ブルーベリー味の液状ヨーグルトを飲み干し始めた。
「……なあ、藤崎」
「ん?」
白濁した紫色が透けて見えるストローを咥えたまま、藤崎が視線を僕に向けた。
「こないだ、僕に聞いただろ? 『闘いたいのか』って」
「ああ、言ったかも知れないわね……で、何だっけ? 何か、だっさい台詞を聞いた気がするんだけど」
からかうような笑みを浮かべて、僕の顔を覗きこんでくる藤崎の軽口を
「藤崎は、どうなんだ?」
質問で遮った。
僕の目を見つめたまま――ぴたりと藤崎の笑みが止む。
「なに、それ?」
すうっと消えた表情とは裏腹に、身を乗り出すためにベンチの端に置いた手がギュッと強く結ばれていた。
僕らは、互いに、互いの質問に答えることはなく。
「嫌だとは、思わないのか?」
「何で?」
藤崎の灰色の目が、戸惑うように僅かに揺れた。
そこで「はあーっ」と声に出してため息を吐いた彼女は、肩の力を抜くようにしてベンチに座りなおし、気だるそうに足をぶらつかせ始めた。
「何でって……だって、あんな戦い方してたら、いくら君だって、いつか――」
死……と言いかけて口をつぐみ、足元に視線を落として横に座る藤崎を盗み見る。
「別に、嫌じゃないわ」
それは果たしてどちらの言葉への返事なのだろうかと、僕は戸惑う。
青すぎる位に青い風に吹かれた銀髪の隙間からのぞいた横顔は、どこか達観したような、妙に冷めた、まるで他人事のような、そういう――。そういう風に、僕には思えた。
「でも、僕は実際、この島や藤崎のことも興味本位でしか知らなくて、ずっと、ファージだなんてどこか遠い国の話だと思ってたんだ。多分、本土の連中は、みんな、そう思ってるはずでずで……そうやって、藤崎やカナが――いや、名前も知らない魔法使いが遠いどこかで闘うのが当たり前だと思ってて、武器すら寄越さないやつらなんて……そんな、そんな奴らなんて――」
そんな奴らなんて――。
魔法使いは正義のヒーローなんかじゃない。だから、あの飛行機はファージに襲われて、父を含む178人の人間が死んだのだ。これは魔法使いと人間の間で成立したそういうビジネス。
出すものさえ出さずにのうのうと生きていた人間達は、魔法使いの共犯者に襲われました。
そうなることは暗黙の契約の内でした。
僕はそこに人間として乗っていて。
他の人は、全員死んで。
死んでいないというだけで、奇跡の生還者だと持ち上げられ。
闘いもせずに一人だけ生き残った魔法使いだと吊し上げられて。
ここへ来たところで、ファージと闘う事すらできないのに。
そんな奴らなんて――何だ?
僕の最低のおしゃべりが途中で終わると、藤崎は小さく、本当に小さく『みんな……ね』と呟いた。
屋上から見える街に、僕らの背中からゆっくりと朝日が伸びていく。どこかからやってきた海鳥が二羽、白い建物の間をシューシューと追い抜き合うのを僕らはしばらく並んで眺めていた。
すると、ふいに、藤崎の妙に澄ました声が聞こえた。
「ねえ、セイ。出身は?」
風に流れる前髪をぎこちなく掻き上げて、灰色の瞳が僕を捉える。
「え? 本土だけど」
大げさな溜息。
「だーかーら。本土のどこかって聞いてんの」
「あ、そうか。埼玉……だよ」
口に出して、驚いた。たった一か月足らずだと言うのに、それはもうどこか遠い国の場所の様に感じられたから。
だけどそんな感傷などお構いなしに、藤崎は。
「……埼玉ぁ?」
目をくりくりと輝かせて、玩具を見つけた子猫の笑顔を浮かべやがった。
「あはは。何それ、すっごい似あう」
「……どういう意味だよ?」
言っておくが埼玉を馬鹿にすると痛い目を見ることになるぞ。特にそれが千葉県民なら。
「だって、あんたってなんかすごい土っぽいじゃない? あ! ねえ、埼玉の人ってネギ食べるんでしょ、ネギ」
「そりゃ食べるけど?」
「うえー、さすが。信じらんない」
いたずらっぽく笑った藤崎が鼻を摘んでパタパタと僕の顔を扇いでくる。別に今は食べてないぞ。臭くないぞ。美味しいんだぞ、深谷ネギ。というかきっと日本中ネギ食べてるから。
「確認するけど、それは単に藤崎がネギ嫌いなだけだよね? 埼玉が馬鹿にされるいわれはないと思うけど」
すると藤崎はちっちっち、と指を振り。
「知らないとは言わせないわ。向こうに住んでる頃はね、家の近くのスーパーのネギは埼玉が送り込んできてたのよ。だから埼玉なんてど田舎、あの頃の私にとっては今でいう魔海みたいなもんだったの」
憎き敵の味でも思い出したのか、藤崎は再びおえっと顔をしかめた。
「……そういう君は、どこなんだよ?」
いくら相手が藤崎とは言え、これで千葉なら闘わざるをえない。
「私? 私はね――」
すると、ニヤリと笑った藤崎が耳の上の髪を優雅に払い。
「――横浜よ」
「すみませんでした」
僕は内心ほっとしながら頭を下げた。なんなら『よこは』辺りで頭が下がった。
横浜さんにはかないません。もう、なんていうか、風が違うよね、風が。
「ふふ、わかればよろしい」
くすくすと笑った藤崎は、一度静かに瞬きをして、真っ直ぐに僕の目を覗き込んだ。
「ねえ。埼玉の事、好きだった?」
「え?」
「楽しかった? 本土にいて?」
「…………そんなの、考えたこと、なかったよ」
僕はそっと視線をそらす。
「そう。……そうよね」
色素の薄い瞳が、僅かに揺れる。
「……藤崎は? 好きじゃなかったのか? 横浜の事」
「好きだったわ。自分の生まれた街だもん。当たり前でしょ」
――そんなの、当たり前じゃない?
と、静かにもういちど呟いて。
身体の後ろに両手を置いて背中を反らした藤崎が、ふっと空に息を吐いた。
「でも、嫌われちゃった」
驚いて振り向いた僕に、彼女はおどけた様に肩をすくめて。
「だってそうでしょ? こんな髪で、こんな目で、見るからに異質な魔女と普通の人が、一緒にやってけるわけないじゃない」
ぐっと、胸に重たい物がのしかかる。
「最初はね、あたしだって全然魔法なんか使えなかったし、自分が魔法使いだなんて思わなくて、魔女だって言われるのがすっごい嫌だった。肌が弱いから白い服ばっか来てて、たまに体育なんかすると目が赤くなるもんだから学校じゃ超苛められてさ。行くのもすっごい嫌だったわ。教科書の代わりにランドセル一杯に石ころ入れられたときとか『あいつら死ね』って本当に思ってた。……でもね、マドカちゃんは魔女なんかじゃないよって言ってくれる友達もいて、嬉しかったな。それが、ある日ね。四年生だったかな。私、二個下の弟がいるんだけど……その弟がね、私のクラスの奴に苛められてる――ていうか、寄ってたかってボコられてるのを見ちゃって、それで――ボンッて」
つぼみの様にすぼめた左手を、ぱっと広げて。
「私の願っていた事はホントどうしようもなくて、魔法は思ってたより万能じゃなかった。……そいつらは一生痕に残る位の火傷と骨折。当然、弟も大怪我。その日の内にフロンティアの人が家に来て――本当は、ずっと前から来てたらしいんだけどね」
銀髪の中に埋もれた顔が見えなくても、彼女がどんな顔をしてるのか、どんな気持ちで話してくれているのか、その声だけで、傍にいるだけで、胸の奥にまで伝わってきて。
「両親がね、追い返してたらしいのよ。家の娘は魔女なんかじゃないって、本土できちんと暮らしていけるって……。知ってる? あたしの名前ね、『
はあっと湿った溜息を吐いた藤崎が、少し笑って僕を見る。
「だからね、セイ。私は一人でここへ来たの。ママが弟のお見舞いに行ってる間に、パパの鞄にこっそり大事な物を全部詰めて……もうね、一世一代の決心って感じで、フロンティアの人の車に乗ったのよ。だって、ウチの家族はみんな、普通の人なんだから。こんなとこ来たら、逆に苛められちゃうじゃない? さっきのセイみたいな感じで、人間のためになんか闘えるか、お前等なんか出て行けーって」
ピシッと、藤崎の拳が肩に当たって。
魔力とは違う赤みを帯びた彼女の目が、いたずらっぽく僕を睨んだ。
「だからね、ださお君。私は闘うのだ。闘えるのだよ。魔法使いがどうであっても、人間のために戦えるし、人間とは闘わない。私の家族は向こうにいて、友達だった子も向こうにいて、今では大事な友達と大切な仲間と、その人達の大事な物がここにはあるんだから。私には、その力があるんだから。……うん。私は決めたのだよ、ださお君。いっぱいいっぱい考えて、何度も何度も自分で決めて生きて来たの。だから、戦うことも、その中に危険があることも、全くもって嫌じゃないわ。むしろこんな力がみんなの役に立って嬉しいくらいよ。望むところよ。掛かって来なさいってのよ、馬鹿野郎」
ズドンと、さっきよりも力強く、藤崎の拳が肩にめり込む。
びっくりするほど痛くて、寂しく、強くて、優しい、そういう彼女の気持ちがそこから僕に流れ込んだ。
「……ださおってなんだよ、ださおって」
「ださおはださおよ、あんたのこと。私が知ってる生まれも育ちも顔も根性もダサダサな小田島セイのことよ。確かに本土は遥か向こうだけど、私にとっては遠い国じゃないし、私が守る人は名前も知らないどうでもいい誰かなんかじゃないわ。だからね、セイ。私は――藤崎マドカは、このフロンティアで闘ってるの。文句ある?」
えへんと偉そうに顎をしゃくった藤崎に、僕は深々と頭を下げた。
「ははあ。このださおめ、まったく文句等ございません」
「うむ。くるしゅうない」
――あはは、懐かしい、本土ネタだ。
そう言って足をばたつかせて笑った彼女の笑顔が青空に溶け込んだその一瞬に、僕が生きて来たそれまでがあっという間に追い抜かれて行くのを、確かにこの時僕は見た。
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