第11話 彼女が見る世界
「ちょっと、こっち来て」
言うが早いか、華奢に見える身体からは想像できないほどの力で僕を引きずるように運んだ少女は、階段を駆け上がって踊場の窓を開けるとぽんっと青い夜の中に飛び込んだ。
当然の様に、僕の身体も窓の外へと引っ張り込まれ。
「いいっ……!」
「ちょっ!? バカッ!」
バランスを崩した僕の体を支えるように、慌てた藤崎がもう一方の手で僕の胸倉を掴み上げた。
うっすらと赤く染まった眼が、息のかかるほどの至近距離で僕を見ていて。
「……死にたくなかったら、手を放さないで」
蒼白になった顔面で、僕は慌ててうなずいた。
やがて、波と風と心臓のドラムが奏でるおかしな音楽を聞きながら、僕達は巣の東側に作られた真っ白な扇状の大地に着地した。
黒い海の中に幻想的に浮かび上がったそこは、この島の名前の由来ともいえるかつてのファージとの戦いのための最前線。この舞台をまっすぐに飛んで行けば、闇よりも暗い魔海に着くはずだ。
足に自重を感じたと同時、藤崎マドカの手が離れた。
とくんと心臓が脈を打って、空っぽになった掌を生ぬるい風が通り抜けた。
昼間はあれだけ青く輝いていた海すら黒く染める闇の中に、人工の大地に砕ける波の音だけが響き渡る。蜘蛛の巣の東の果て、巨大な半円形の白い舞台に視界を遮る物は無く、満天の星空が水平線に乗っかっていて、銀色の髪が切なげになびいている。
とても。とても綺麗だと、僕は思った。
その夜は本当に美しくそこにあって、僕がぽつんとここにいる。
包み込まれるでも、胸に染み入るのでもなく、水と油の様に別々のまま。
あまりにも美しい風景。誰が見ても美しい景色。だから、僕がいなくても完璧な夜。
隣の彼女はじっと月を見つめた後、ためらいを振り切る様に瞬きをして。
「……その……さっきみたいのって、よくあるの?」
僕は少し笑った。言葉を選んでくれる彼女の優しさがくすぐったかったから。
「いや、多分初めてだよ。最近薬を飲んでなかったからかな?」
唐突に、極めて軽薄に切り出された話題に、藤崎は少し眉をひそめた。
「……えっと……ほんとにずっと薬で抑えてたの?」
「わからない。でも、確かに僕は小さいころから薬を飲んでた」
身体が、弱かったから。
言いながら、両手を握ったり開いたりしてみた。小さい頃は、こんなことも出来なかった。ただずっと病院の天井を見て一日を過ごしていた。仕事が終わった父親が来ることだけが楽しみだった。父親の来ない曜日はとても嫌だった。寂しかった。
退院して小学校に通える様になっても、体育は全部見学で。
教室で吐いたことも良くあった。
だから、薬を飲んでいた。
ずっと、そう、思ってた。
「……こんなこと、あたしが言うのもどうかと思うんだけど、きっとあなたのお父さんはどうしても、セイを失くしたくなかったんだと思う。でも、セイ位の魔力があるってばれちゃったら、間違いなくここに送られて、前線に駆り出されるから。そしたら……きっと死んじゃうから。だから――」
そこまで言って、藤崎は僕の方をちらりと窺う。
すがる様な目だった。
自分の頭の中の優しい真実を祈る様な、人は本来優しい物だと信じてやまない――そういう目だった。
だから、僕はそのガラスみたいな願望を支えられる言葉を選んで。
「そうかもね。でも今はもう、親父は死んで、僕はここに来たんだし、ここで生きるには僕も色々とやらなきゃならないことがあるわけだし……」
「闘いたいの?」
唐突に差し込まれた質問に反応した僕の視線が、藤崎の強い感情とぶつかった。
『魔法使いなのに、なぜ闘わなかったのか!?』
それは奇跡の生還者から一転し犯罪者の様な扱いを受けた少年に向けられたナイフに似ていて。
「アンチバイラスに入らなくても、この島にだって生活の方法はたくさんあるの。それに、多分、あなたのお父さんはセイがこの島に来ることなんて望んでなかった……それでも、セイは、闘いたいの?」
繰り返された問いかけが、僕の中に染みわたる。途端、月明かりに濡れたように光る彼女の不思議な色をした瞳や、真っ白な大地、一つとして同じ音を響かせない暗い海、風に揺れる銀髪……そこにあるあらゆる物が一辺に身体に入り込んで来て、僕は、それを吐き出すように笑いながら。
「そうかもね」
それはとても曖昧で、一番正確な言葉だった。
その力があるのなら、目の前の彼女の様な圧倒的な力があるのなら。彼女の様に、格好良く、あのファージ共を。
それでも僕は、闘う事等、出来ないのだから。せめて目の前の戦士の機嫌を損ねぬように、曖昧な可能性の話をした。
「……だったら、強くならなくちゃ。正直、本土出身の隊員はあまりいい目で見られないわ。だからそういうやっかむ奴らを黙らせるくらいの実力を着けなくちゃダメなのよ。まあ、それまではせいぜいしっかり私の後ろに隠れていることね」
「ああ、了解した。僕を危険にさらすなよ」
「うわ。だっさ」
力が抜けたように少し笑った藤崎は、舌を「んベー」と出して顔全体で僕を馬鹿にした。
われながらダサいセリフだとは思うけど、その顔が見られたからまあいいかと。首筋に手をやり苦笑する僕を見た彼女は優しく笑って俯いて、頷きながら溜息を吐き。
それから微かな勇気と強い心で、ゆっくりと言葉を押し出した。
「ごめんなさい」
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