鬼無双
韋駄天の辰はその時、
兵部に情報を授ける狗。
その一人が盗人共の手にかかり、無惨な最期を遂げたのだ。
「辰、定吉はなんと言っておった」
「『愛宕の荘助は巣鴨の外れ』と」
「分かった」
辰の目には、兵部から立ち上る湯気が見えた。
ここまでの怒りを発している兵部を見るのは、彼をもってしても初めてだった。
辰は努めて平静を保ったまま、次の言葉を発した。
「他の連中には」
「告げなくとも良い。巣鴨はおめえが見張れ。一人も逃がすな」
「承知」
辰は次の言葉を待たずに飛び去った。
あのまま兵部と対面していると、自分まで本分を見失いかねなかった。
定吉には、駆け出しの頃に散々世話になったのだ。
「無茶はいけねえ、本分を守れ」
「お前さんの武器はその足の速さだ。他はいらねえ、そいつを磨け」
「指示を守り、こまめに報告しろ。相談も欠かすな」
狗としてのイロハを教わり、時には厳しく鍛えられた。
最近になってようやく十回に一回は褒められるようになってきた。
背中を見て育ってきたつもりだった。
なのに自分は、その本分を守るために半ば見殺しにしてしまった。
定吉が行ったのは、相手の懐に入って情報を掴む役。
かつては盗人で、ほうぼうに顔が利く彼だからこそできる役だった。
***
巣鴨の外れ、愛宕の荘助の潜伏する小屋では、酒盛りが行われていた。
つとめの前に意気を上げているのか、それとも今宵は動かぬのか。
辰には見極める責務があった。
「……ぐっ!」
首を振り、歯を食いしばる。口の端を噛み切り、衝動に耐えた。
遠目でも辰には分かる。外に晒された定吉の死体が、野犬の餌となっていた。
盗人共の間では、狗は裏切り者として嫌われている。
野犬の餌になろうとも、文句は言えない話だった。
煮えくり返る怒りを、いかにして晴らすか。
一人無策で突っ込んでも犬死である。
少なくとも、兵部を待たねばならなかった。
そうして歯噛みしていると、遠吠えが響いた。
おおーおおおお……!
地の底から響くような声に、僅かな地面の揺れ。
辰はその意味を瞬時に理解した。
「嘘だろ。あの人、鬼の姿で向かってやがる!」
辰は急いで距離を取った。
荘助の潜むねぐらも、にわかに揺れ始めている。
隠れていても、見つかる恐れがあった。
おおおおおおおおおー!
今度ははっきりと聞こえた。
咆哮である。鬼の兵部が、鬼となっている。
慌てふためいた荘助の手下が、ねぐらを飛び出そうとする。
辰は一旦下がった森の陰から、クナイなどで牽制した。
「テメエら落ち着け! 鬼兵の狗がいるぞ!」
ねぐらから聞こえるだみ声。愛宕の荘助に相違なかった。
クナイを握る手に力がこもる。このまま殺してしまえれば、どれだけ楽だろう。
だが己の本分ではない。もっと怒っている男がいる。
おおおおおおおお……!
雄叫びが近付き、揺れが激しくなる。辰は更に飛び退く。
闇に映える赤い肌が、彼の目にもようやく見えた。
額から角を生やした赤肌が、巨体からは有り得ない速さで。
「愛宕の荘助、覚悟しろい!」
盗賊共のねぐらに、一撃を浴びせた。
隆々とした筋肉からの拳一つで、ねぐらは崩れ、盗賊共が這い出してくる。
身一つの輩の中に数人、武器を構えた骨のある者もいた。
「鬼かい。まさか鬼兵の野郎、鬼まで遣いよるとはな」
「悪いな、愛宕の。俺ァ正真正銘、長谷堂兵部信為だ」
すっかり白くなった髭面をしごくのは愛宕の荘助。
鬼を前にしてなお、畏れを見せる様子はない。
「大事な大事な狗を殺されて、おかんむりってか? たった一匹に情の厚いこった。あの定吉のほうが、よっぽど肝が据わってたぜ。最後まで強情こいてたから、つい殺っちまった」
「愛宕の。俺ぁなあ、思ってたんだ。おめぇは盗みは働くが非道はしねえ。そういう奴だとな。だがどうやら俺の買いかぶりだったらしい」
鬼は腰を落とし、荘助は長ドスを抜いた。
子分共が遠巻きに見ているが、おそらく誰一人として立ち入れないだろう。
辰でさえ、気迫を畏れて武器を握れずにいた。
「死ねやぁ!」
もはや人の良さをかなぐり捨てた男が叫ぶ。
「人の痛みを思い知れ!」
人の身を捨てた鬼が吠える。
刃と拳、その一瞬の交錯は。
「かはっ……!」
どこまでも冷徹に、人の限界を示していた。
「愛宕の。度胸に免じて急所は外してやった。動かなければ死にはせんから、おとなしく縄につけ」
殴り飛ばされ、右腕を折られた荘助に向けて。鬼兵は言う。
しかし荘助はハンと言い捨てて。
「冗談じゃねえや。盗人を何十年とやって来て、今更お情けで縄につけだ? いいだろう。アンタが殺せねえなら、俺が俺に落とし前をつけらぁ」
左手に持った長ドスを振り上げ。
「よぉく見とけ! これが愛宕の荘助の……」
「馬鹿野郎!」
振り上げたその手を、鬼の豪腕がへし折った。
鬼は身をかがめ、荘助と目を合わせた。
「俺の言いてえことが、わからんかったようだなぁ。悪かった。俺ァ、こう言いてえのさ。『てめえは楽に死なせてやらねえ。くたばるまで牢屋にいやがれ』ってな」
鬼化が解け、兵部のいかつい顔が姿を現す。
それを見て、荘助は言った。
「ハハッ……やっぱり鬼じゃねえか……」
荘助が血を吐き、目を閉じる。
辰の耳には、火盗の足音が聞こえていた。
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