あたしの寂しい気持ち
時機にもよるが、あたしは大体夕方の一八時になると店を閉める。それから原付二輪に乗り、一キロ離れた家に帰る。木造建築の二階建て、庭と立派なガレージ付き。ところどころにコケが乗っているこの家は、あたしの生家でもある。
「ただいま」
玄関をくぐり、土間でサンダルを脱ぐ。他に誰も住んでいない家を裸足で歩くと冷えた床板が気持ちいい。夕陽の差し込まない廊下を電気もつけずに歩いていると、暗い気持ちになった。電気を点けようとして、パチンとスイッチを叩くと、呼応するように用事を思い出した。
「あ、父さんの顔見に行くの忘れてた」
今年で七六になる父は養護施設で暮らしている。以前は父がこの家に住んでいたが、一昨年に母が亡くなってから、身体機能が落ちた。古い家なので、改築も難しく、生活が困難になったこともあって、渋々ながら施設に入所した。今年の初めごろから認知症の診断も下された。
今から行くと遅くなるだろうし、明日にしようかと一瞬考えた。しかし、昨晩、施設内で転倒した知らせを受けていたので、結局、様子を見に行くことにした。
原付ではなく、軽自動車に乗り、農道を走り、県道を辿る。道すがら、父の好きなチョコ菓子を薬局で買う。やがて稲橋の外れにある四階建ての大きな特別養護老人ホームに到着した頃には、一九時を三〇分も過ぎてしまっていた。ここの特養ではもう少しすると就寝の時間になる。面会の為の来所としては限界ギリギリの時間だった。
正面口は閉じてしまっているので、裏口から入る。裏口の暗証番号は以前に職員から内緒で教えてもらっていたので、問題なく扉を開けることができる。しかし、中は相当に暗くなっており、自宅とは違う陰鬱な気分にさせられてしまう。とはいえ、ここまで来たのだから、帰ってしまうわけにもいかない。面会者用の名札を首から下げ、戸をくぐる。普段は商店が休みである水曜日の昼間に来るので、人のいないロビーは奇妙な雰囲気だった。普段は職員しか見ないような光景の中を歩き進み、エレベーターに乗る。父の住まう四階の扉が開くと、忙しなく働く男性とすれ違った。
「こんばんわ」
挨拶を返そうとしたのだが、あたしが会釈をしている間にそそくさと立ち去って行った。この階だけでも、数十人の就寝介助が必要な時間帯なのだ。彼に対して不快感などは特別抱くことはなかった。
「父さん、元気?」
職員が行き交う中、彼は共用リビングのソファに大人しく腰を下ろしてテレビを眺めていた。あたしは近くで仕事をしていた女性に挨拶をして、父の隣に座る。
「おお、よう来たヒナ。茶でも飲むか?」
最初こそ入所を嫌がっていた父だが、住めば案外悪い物ではなかったらしい。まるで自宅にいるようなくつろぎ様に安心する。しかし、次々と眠そうにしている他の利用者を自室へ誘導する職員を呼び止めようとするので、あたしは焦って止めた。
「なんだ、茶くらい淹れてもらえばいいのに」
「すぐに帰るから、別にいいの。それよりも、痛くない?」
「何が? 俺はどこも怪我しとらんぞ」
「昨日、転んだって聞いたけど」
「誰が?」
「父さんが」
あたしの指摘に父は首をひねる。五秒ほど表情を固めてしまったが、思い当たる事はなかったようである。いやぁ知らんなぁ、と呟いた彼は嘘をついている様子はなかった。忘れてしまっているのだろう。あたしは、ほんのちょっぴりだけ寂しい気持ちになった。
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