産声のような

「ほな、先生。約束どおり、俺はこれで」

 川島が立ち去ろうとするのを先生が睨み付けると、川島は愛想笑いを浮かべて足をこの応接間に留めた。


「いや、先生には頭が上がらんわ。興嬰会に睨まれんで済むどころか、うちの税金のことまで——」

 秀一氏が、憑き物が取れたような顔をして言う。

「ちょっと待ってください。どういうことですか」

 思わず、心の声が口から出ていた。

「いや、今回、相続について先生に色々教えてもろたんやけどね。やっぱり、多くを求めすぎたら取られるもんも多くなる。俺の親父や爺さんらが頑張って増やしてきたもんを、自分の家族のために活かすならともかく、俺一人の欲のために失うつもりか、て怒られたんや。先生のおかげで目ぇが覚めたわ」

 先生は、秀一氏にそんなことを言っていたのか。

「得るもんをきっちり整理して、興嬰会への借金はチャラにさしてもらう。それと、うちは本家やからな、次の代やその次の代まで長く栄えるために必要なもんはもらう。そやけど、それでええ。自分のことは、二の次や。そうでもしな、金に押し潰されて死んでまうわ」

「おかげで、わたしは実家を失わずに済んだ。うちのお父さんも、これからは長谷川家の一員として、わたしたちを守るために頑張ってくれるはず」

 ユウが笑った。彼女がなぜ先生に加担したのか、そのことを聞かなければと思った。しかしその必要はなく、ユウの方から、ちょっとばつが悪そうな可愛い顔をして話しはじめた。


「睦美。ごめんね。ほとんど、嘘だったの」

「どうして——」

「睦美のためだと思ったの。羽布先生が、あの高梨って悪人にとどめを刺せるのは睦美しかいないって。そして、わたしが協力することで、騙されてるあんたを助けてあげられる、って」


 それが、ユウが先生の計画に加担した理由。

 利益のためでも、保身のためでもない。

 わたしのために。わたしの目を覚まし、守り、絶望から助けるために。そのために、ユウはわたしを欺いたのだ。

「ユウ——」

「悪かったわよ。だけどさ、あんた、見てられないんだもん。昔からそういうとこあるけどさ、思い込んだら真っしぐらなんだから」

 ユウだけは、誰のためでもなく、わたしのために。そのことが、ほんとうにわたしの魂を救った。

 わたしは、間違ってなどいない。人の心には善なる部分があり、そこにおいて人は他者のために自分の時間や力を使うことができる。見返りではなく、その他者の幸福のために。

 世界の何も信じることができなくなるようなこの一幕のあとで示された、わたしの信じるべき世界の全てを、ユウは端的にあらわした。

「あんたのためなら、そりゃ、鬼にでも詐欺師にでも弁護士にでもなるわよ。ほんと、ほっとけないんだから」

 きらきらと光る珠のようなものが急速に胸の内で育ち、堪えきれなくなり、目から溢れるのを感じた。あたらしいマスカラはそれに耐えてくれると思うが、ファンデーションの壁が無残な姿になるのは避けられないだろう。

 ユウは当たり前のような自然さで歩みより、自らの指でわたしの涙を掬い取ってくれた。

「泣かない、泣かない。あ、いや、いいよ、泣いても」

 涙を拭う人差し指はほんのりとあたたかく、そしてやわらかく、わたしの髪を撫でる掌は力強かった。


「万さん」

 先生が、冷たい声を放つ。

「あんたには、申し訳ないことをした」

 先生は、復讐を遂げた。高梨という悪は、今たしかに終わった。しかし、おじいちゃんが好きだった時代劇のような勧善懲悪ぶりはなく、ただ、やり切れなさと悲しさだけが残った。

「先生は、これで満足されましたか」

 それを訊いた。確かめるまでもないことだけれど、その権利がわたしにはあると思った。

「満足——」

 少し伏せた眼が、やっぱり悲しそうで、それをじっと見ていてはいけないような気がした。

「先生が高梨に近付くため詐欺師になったって、ほんとうですか」

 慰めの言葉の代わりに、そのことを訊いた。ほんとうだ、と先生はみじかく答えた。これで、先生は自分の詐欺行為を認めたことになる。もちろん、いつ、どこで、誰に対してどういう詐欺を働いたかということを述べたわけではないから、今わたしの鞄の中でレコーダーが録音を続けていることに何の意味もない。

 だが、先生は、たしかに認めた。

 それで、わたしは確信することができた。


「きっと、先生が今まで手にかけてきた相手は、人を騙して心が痛まなかったり、自分のために人を犠牲にできてしまう人ばかりなんでしょ?」

「それを決めるのは、俺じゃない」

 警察でもなく、裁判所でも法そのものでもない。だが、先生は、悪事でもって悪を裁き、それでもって自らの存在を、かつ、それが自分を追っていると高梨に知らしめた。

 この世には、裁かれざる悪が多すぎる。先生が高梨に自分を見つけてもらうために詐欺を働いていたのならば、きっと、その標的は高梨のような救いのないような悪人であったに違いない。


 先生がどんな理由で、どんな相手に詐欺を働いていたとしても、決して、不法行為は正当化されることはない。それは、先生自身が一番よく分かっているのだろう。


「あいつと俺とを隔てるものなんて、ない」

「高梨にとって久世清絵さんは、詐欺の標的の一人でしかなかった。先生にとっては、人生の全てだった。そうですよね」

 その差は、あまりにも大きい。

 そして、高梨にとって他者とは、己の利のための糧でしかなく、先生にとっての他者とは、善悪があり情状があり背景があり、心を持つもの。

 その差も、あまりにも大きい。

 民法にも刑法にも民事訴訟法にも載らない、決して起文されることのないもの。それを、わたしは見たような気がする。


「ほんで、先生。今度こそ、うちの相続税の上手いくぐり方、教えてくれるんやろな」

 秀一氏が、笑った。悪人ではないと思うと、こんな顔をして笑うのか、と驚いたりするものだ。

「もし売却の必要があるんなら、力になるで、長谷川さん」

 川島も、同じような顔をしている。

 二人とも、京都の暗い世界を知り、そこで息をしている類の人間だ。しかし、それと善悪とは必ずしも同じ物差しで測られはしないものらしい。

 盗人にも三分の理がある、とおじいちゃんが好きだった時代劇でよく言っていたが、当たらずとも遠からずといったところだろう。


「——先生?」

 先生は答えず、黙って眼鏡のずれを直した。

「まさか、先生」

 今、先生の胸の内にあるもの。その世界を包んでいるもの。それがどんなものなのか相続したとき、税理士羽布清四郎とこの世とを繋ぐものが全く無くなっているように感じた。

「税計算なら、誰でもできるさ」

「でも、先生」

 やっぱり、と思った。

 先生は、このまま消えてしまう。そう思うと、それがとても悲しいことだということがはっきりと分かった。

 高梨を見つけ、行動を起こさせるように仕向け、そしてそれを潰した。しかし、久世清絵さんが詐欺に合った事実や、自殺してしまった事実は消えない。

 先生は、もう二度と花火を見ることはないのだろう。それと定めた生の使い方を終えた羽布清四郎は、鳴くだけ泣いて死ぬ蝉のようなものに見える。


 それは、いけない。

 わたしが口を開こうとしたとき、ユウが先に言葉を発した。

「先生。これからは、弱い者の味方として頑張るんでしょ」

「俺は——」

「だって、先生、言ったじゃない。睦美に、僕はひどいことをしている、って。彼女を、助けられるか、って」

 わたしを高梨に夢中にさせたのは先生だと言うことができる。だが、先生が、自分のために利用したわたしを救うために睦美に声をかけたのだ。

「単に悪い奴をやっつける。自分の復讐を果たす。それだけのために生きてる人が、睦美の心がどうこうなんて気にするはずないもんね」

 先生は、やはり何も言わない。ただ曇った眼鏡の奥の眼を伏せているだけだ。


「わたしは」

 なにか言わなきゃ、と思った。なにを言えばいいのかは分からない。

「先生は悪い人だと思います」

 全員が咎めるような眼を向けてきたが、わたしのカサカサの唇は止まらない。

「でも、困っている人に寄り添い、助けることのできる人だと思います。その力があると」

 先生に、もっと分かりやすいように。言葉とは、文字が全ての意味ではない。そう意識し、言い換えた。

「あの高梨という毒蛇のような男にとどめを刺したのは、わたしだと思います。わたしをマングースにしたのは、先生です。先生は、わたしの意見を尊重すべきだと思います」

 なんだそれ、と思ったが、先生は眼を上げた。

「そやで、先生。相続税を軽くするアドバイスをホイホイしてくれる税理士て、うちには貴重なんや」

 秀一氏も、わたしに乗っかったようだ。

 先生がため息をつき、首を鳴らし、力なく笑う。

「まあ、そうだな。べつに、続けることに意味がないと思うのなら、辞める理由もまたない」

「ありがとうございます。今の発言、録音させていただきました」

 先生が伏せていた顔を上げると、そこには、癖毛のひどい、冴えない税理士の姿があった。

「わたしを、甘く見ないことです。辞める理由もまたない、という発言は、税理士業務継続の意思があることを示唆すると思いませんか」

「たしかに。じゃあ、念のため、今の発言は撤回——」

 言った瞬間、バッグに手を入れてレコーダーのスイッチをオフにしてやった。

「あれ。操作ミスで録音を停止してしまいました」

 先生の負け、とユウが笑った。それを、先生は否定はしなかった。


 わたしは、マングース。毒を持つ蛇にとどめを刺すいきもの。

 しかし、マングースとはもともとハブの生息地にいたものではなく、活動時間も異なる。

 人によって持ち込まれ、造られた天敵。

 その役割を果たしたわたしは、どうなるのだろう。

 どうなろうと、わたしは知った。

 先生の、心の痛みを。もう戻らぬものを求める悲しさを。

 正しきを求める人の姿を。

 利害を超え、他者のため嘘すらつくことのできる心のありようを。

 観光ガイドには決して乗らぬこの街の影を形作るものを。

 それにすら人生があり、笑顔があることを。

 同時に、同じ数だけ理不尽に虐げられ、人の犠牲になって苦しむ人がいることを。


 先生の後ろ姿。振り返った冴えない顔。汚れた眼鏡。ダサいスーツ。あるいは、高そうな黒のスーツ。わたしの前にあらわれた興嬰会の構成員。川合社長。高木さん。そして、ユウ。様々な人の姿が、顔が、琵琶湖に咲いた花火みたいに浮かんで、闇に溶け、また咲いた。

 その中に、中小路さんの姿は、ついに見つけられなかった。

 べつに、探そうとも思わなかった。

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