エピローグ

 わたしは、元気だ。

 長野の実家から京都に来て何度目だろうか。数え始めてから——この珍妙な事務所で働きはじめ、現実とは思えないほど凄まじい体験がスタートしたときから——二度目の春の今日、わたしは花と緑の香りに包まれている。


「これ、かわいい」

 なんという花なのか名前を覚えるのが苦手なわたしに、高木生花店のおばあさんはゆっくりとした口調で、やさしく教えてくれる。

「ゼラニウム、いうんや」

 なんだか甘い砂糖菓子みたいな名前だ。鼻を近付けると、その印象にぴったりな甘い香りが放たれていた。

「じゃあ、これにします」

 仏花などばかりでなく、観賞用の花の品揃えが増えた。やっぱり、買いにくる客は少ないようだけれど、それでも、おばあさんは嬉しそうだった。

「先生に、よろしゅう言うといて。確定申告の面倒まで見てもらえて、ほんまに助かったわ。あんなに税金が軽うなるなんてなあ、ほんま」

「個人事業の場合、所得をいかに経費で潰すかということも重要になりますから」


 高木さんは今、娘さんとお孫さんと一緒に過ごしている。娘さんは、なんでも離婚してしまったそうで、去年の夏、ちょうど例の一件が終わったあとすぐくらいのときに京都に戻ってきて、同じ西陣地区のアパートを借りて三人で暮らしている。おばあさんも安心だろう。


 先生のアドバイスにより、生花店の事業主を娘さんにし、娘さんからおばあさんに家賃を払うという形にして経費計上をした。このあたりの店舗家賃相場はけっこう高い——川島が色々と調べてくれた——から、いい経費になっている。店を一部改装して区切り、自宅部分であったスペースに専用通路を設け、ギャラリーを兼ねたカフェとして賃貸している——その借り手は川島が見つけてきてくれた——から、その家賃収入が増え、かつ、賃貸経営という名目において算入すべき経費も増えるわけだから、手取りが増えて税が減るという具合になり、たいへん喜ばれている。


「あんたらのおかげで、娘がどうしていくにしろ、孫が困ることはないわ」

 おばあさんにとって、それが一番の安息であり喜びのようだ。

 満ち足りた笑顔に見送られ、甘い香りのゼラニウムを抱えて事務所を目指す。あとは書類の整理などするうちに、退勤の時間になるだろう。


「あ、睦美さん」

 この西陣の細道を縫うようにこちらに向かって歩いてくる華奢な人影が、声をかけてくる。

「川合さん。こんにちは」

 あの川合商店の娘さんだ。あれから、先生が商店の廃業とそれに伴う税務のことを手伝い、こちらもたいへん助かったと喜んでもらっている。今、元社長は知り合いの染物屋で雇ってもらい、娘さんは学校に通いながらラーメン屋でアルバイトをしている。

「今からバイトですか?」

「そうなんです。また、食べにきてくださいね」

「わかりました。チャーシュー一枚、オマケよろしく」

「うーん、メンマ、かな」

 可愛く小首を傾げる姿に、思わず笑みがこぼれてくる。


 懸命に。誰もが、懸命に。個人差はあれど、日々に手を抜いて、あるいはほんとうに放棄して過ごしているような人はそうはいない。

 だけど、どれほど懸命でも、一分の落ち度もなくとも、人を蝕むものは次々と現れる。

 もちろん、自然人もしくは法人として社会的活動をするにあたり、自己責任において危険やリスクから能動的に身を遠ざける必要がある。

 しかし、完全なる自衛というものは、多くの人において実現はしない。

 誰にでも関係がありながら、それを遂行することのきわめて困難なことを、専門的知識によって補助する。それが士業の本質ならば、彼らこそ支えるべき人で、彼らがわたしたちを潤してくれる。

 これも、相互利益。

 だけど、たとえば高木さんの穏やかな笑顔や、川合さんの娘さんのこの明るい笑い声は、どの契約にも依らない、何の対価でもない、それでいてとても貴重で美しいものだ。


 それを、わたしは守りたい。それを守ることのできる人に、わたしはなりたい。


 川合さんの娘さんと別れ、細道をゆき、相変わらず建て付けの悪いドアを開こうとしたとき、スマホが震えた。


「あ、もしもし」

 ユウだ。このあと、会う約束をしている。

「ちょっと早く終わっちゃったからさ。適当に時間潰してるけど、早く来てよ」

「わかった。そんなに、わたしに会いたい?」

「どっちが」

 いつものやり取りだ。しかし、今夜は特別。あれから、実はユウは結婚が決まった。相手はユウが小学生と同居しているみたいと切り捨てたタカシ——じゃなくてケンジでもなくてハヤトじゃなく——そう、アキラ君。元鞘に納まったというわけだ。

 今夜は、そのお祝い。待ち合わせは、いつものカニの前。もちろんカラオケもセットだから、これ見よがしにお祝いソングを歌いまくってやる。


 ユウのおじいさんの相続は、綺麗に片付いた。ユウのお父さんはおじいさんの持ち物であった自宅とその敷地、そしてそれを維持していくための資金となるべく現金をいくらか相続した。

 秀一氏は結局多くのものを相続したが、借金を返済したあと、将来娘さんが維持に困るであろう場所は早々に処分し、その資金を京都駅近くの大きな駐車場に投入し、七階建のマンションの建築を決めたらしい。これで、娘さんが将来遠いところに嫁いでも自ら不動産管理業務を行う必要はなく、安心というわけだ。


 重たい相談事でお互い力になるのも悪くないし、特に用事なく雑談ばかりでもいい。だけど、やっぱり、ユウを祝福することができるということが嬉しくて、いつも決まらないメイクもバッチリに仕上げてきている——あとはそれが無惨に崩れ落ちているのをいかに直すか、だ——。


 たぶん、知らずのうちにほくそ笑んでしまっているだろう。その気持ち悪い表情のまま、ドアを開く。

 いつもと同じように、それはひどくきしんで鳴いた。まるで、なにごとかを訴えるように。誰かに、助けを呼ぶように。

 ドアの向こうの世界。古ぼけたアンティークの応接ソファ。そこに斜めに差し込む夕陽。オレンジに染まる窓のところに、ゼラニウムを飾るつもりだ。

 奥のデスクの人物も、同じ色に染まっている。

 先生。


「今日の残務は?」

「あとは、三笠商会さんの会計の書類と、月曜日にお返しする約束の浜田呉服店さんの決算書を——」

「じゃあ、それだけやって、上がるといい」

 先生が椅子を回し、こちらに声を飛ばした。

「今日は、長谷川さんの結婚祝いなんだろう。早く行くといい」

「もしよかったら」

 先生も、と口に出していた。ユウはびっくりするだろうが、二人でのお祝いはまた来週仕切り直すこともできる。

「いや、僕は遠慮しておく。おめでとう、と伝えておいて」

 先生の返答は、あっさりとしたものだった。そりゃそうか、と思い直し、残務の整理に取り掛かる。わたしにとって先生が来るかどうかということではなく、先生にも声をかけるという行為自体に意味があるのかもしれないと何となく思う。


「それじゃあ、これで」

 残務が終わり、定時より少し早いが帰り支度を始める。荷物を置いている奥のスペースに向かおうと先生のデスクの横を通り過ぎたとき、ちょうど先生はスマホを手に取った。

「あれ、先生——?」

 浮かび上がった待ち受け画面。先生は初期設定のままの、無味乾燥なものをずっと用いていたが、それが写真に変わっていた。


 画質が荒い。昔のデータを引っ張ってきて、無理やり待ち受けにしたような。

 そうでなくても、その写真に写っている人物が誰なのか、かんたんに分かる。

 白地に優しい花柄の浴衣の女性。驚いたような顔をして振り返っているが、その口元には静かな笑みがあった。

 先生がわたしの視線に気付き、スマホを暗転させる。

「べつに、隠すことないじゃないですか」

 きっと、あの日の。


 先生は困ったように笑い、窓の外に眼をやる。差し込む橙の光に染まる先生が、ふと、花火を見上げているように見えた。


 不意に、電話が鳴る。

「お電話ありがとうございます。羽布税理士事務所です」

「——ああ、僕や。太田や。実は、コの字がらみの案件でな。先生、いてはる?」

 電話の相手は、太田刑事。あれから、こうしてしばしば興嬰会の情報などを流してくるようになった。

 先生の方に眼をやると、先生は黙ってかぶりを振った。

「今日は、もう退勤なさいました。月曜日に先生からお電話を差し上げるよう、伝えておきます」

 そう答えると、太田刑事は、頼むわ、さいきん、先生つれないなぁ、携帯にも出えへんし、とぼやきながら通話を切った。


 先生の方を見て肩をすくめたとき、また電話が鳴る。

「お電話ありがとうございます。羽布税理士事務所です」

「——すみません」

 太田刑事がなにかいい忘れてかけ直してきたのかと思ったが、違う。女性の声だった。何かを言い澱むように、もごもごと受話器を鳴らしている。

「——そちらで、詐欺被害の相談を受け付けておられるという噂をある人から聞いたんですが」

 わたしの身がわずかに硬くなるのを機敏に見て取って、先生が椅子を鳴らして立ち上がる。

「——あ。合言葉、ですよね」

 その言葉を、電話の相手は口にした。


 住所。連絡先。氏名。それだけを聞いて書き留め、通話を終える。

 先生は、と見回したが、奥のスペースに引っ込んでいる。

 ドアを鳴かせてふたたび現れたとき、先生は全身黒のスーツを身につけていた。

「合言葉ありです。これ、連絡先」

 先生は無言でそれを受け取り、艶のある革靴を踏みしめる。さいきん買ったものだから、まだ馴染んでいないのかもしれない。

「行ってくる。戸締まり、よろしく」

「わたしも——」

「長谷川さんに、よろしく」


 かつてハブと呼ばれ、恐れられた男。それが正義なのか悪なのか、いまだに分からない。だけど、ダサい癖毛と汚れた丸眼鏡から浮いて見える黒スーツの男は、日の当たらぬところで助けを求める人の声に応じ、こうして現れる。

 背中を見送る。夕の橙に影を長く、ながく伸ばし、それを踏むようにして、先生は歩き去ってゆく。

 電気を消し、わたしも事務所を出、ふと振り返った。

 ——羽布税理士事務所。

 そう書かれた看板もまた電気が消え、すぐ近くまで来ている夜に備えるように、静かに眠っていた。


 それはそうとして、ユウが待っている。そのことが、わたしの足を軽くさせる。

 どうやっても、夜は来る。どうせなら、わたしの好きな人とともに過ごし、幸福を喜び、さらなる幸福を願い、眠る方がいい過ごし方だろう。



 完

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ハブとマングース 増黒 豊 @tag510

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