怒り
琵琶湖を見下ろす空に咲いた花火の、窓越しに伝わるくぐもった音が、耳の中で鳴っている。
あれも、嘘。花火なんて、ほんとうは咲かなかった。
わたしをびっくりさせようとして、子供みたいにワクワクしていた顔も。
「ねえ、
ユウが、中小路さんに向かってなにか言っている。
そうか、ユウの前では小田だったんだ。だとすれば、中小路という姓も、はじめからなかったことになる。
「いや、太田さん。協力していただいて、感謝しますよ。これで、ようやくうるさい犬とお別れできる」
中小路さんの声。嘘であるはずなのに、でも、中小路さんの声だ。
「興嬰会も、さっさとハブをどうにかせえ言うてうるさいとこやったんやろ。ま、こういうときはお互い様や」
太田刑事と中小路さんは勝ち誇り、満足げに笑っている。
こんなに酷薄な笑顔を、わたしは知らない。どうして、いつもみたいに目尻に皺をよせて、顔をくしゃくしゃにて笑わないのか。
「ほら、先生。ちゃんと、警察の言うこと聞かないと」
中小路さんが先生を促す。それに応じて、先生の眼が上がる。
「——
先生の薄い唇が開く。いつも血色が悪いはずのそれは、枝に付いた雪を振り払って咲く北野天満宮の梅の花みたいに薄紅く色づいていた。
——高揚している?
先生が。どうしてかは、わからない。
「——ああ、もしかして。古い話だな」
記憶を辿るような素振りを見せ、中小路さんがまた口の端を歪めた。
太田刑事は構わず立ち上がって先生に歩み寄り、懐から手錠を取り出している。
先生は拒むことなく、それを受け入れた。
テレビドラマでしか聞いたことのない音が先生の手首を包み、そのあと、中小路さんがまた笑う。
先生は、そのまま、中小路さんにまっすぐに向き直った。
「——平成二十五年七月二十二日午前。久世清絵は、かねてより交流があり、起業の計画を共にしていた
両手にそんなものを付けながら、何を言っているのか。先生は投げつけるように、それでいて何か作業に熱中するように淡々と口を動かし続けている。
「結婚資金その他の目的で親が蓄えていた金だ。久世清絵は、それを中澤隆に、起業のための資金として手渡した」
誰もが、先生が何の話をしているのか分からない。先生自身と、鼻を鳴らしながらにやにやと笑う中小路さんを除いて。
「翌二十三日、中澤隆が音信不通になる。持ち逃げってやつだ」
「先生。それがどうしたっての」
「そして、同月二十八日。久世清絵死亡。自殺だ。詐欺被害にあったことを苦にして」
中小路さんは、答えない。ただ、さっきから浮かべている、人のものとは思えないほど邪な笑みを貼り付けたままだ。
「詐欺を行った奴を、俺はずっと追っていた。京都で興嬰会のお抱えになってるって話を聞いて、俺も京都に飛んできたさ」
「そして、ようやく辿り着いた、か。お疲れ様、先生」
まさか。
先生が言うことがほんとうなら。先生の恋人を自殺に追い込んだ中澤隆という人物が中小路さんなのだとしたら。
「だけどさ、先生。一足遅かったね。せっかく憎い相手を見つけてもさ、ほら、自分の手」
と笑いながら顎で先生の両手を縛めるものを指す。
「今さら、どうすることもできないね。あんたは、もう終わり」
「終わり、か——」
先生は天井を仰いだ。そうすると、ビーズ細工がこぼれるように、ひとつ涙が流れた。
「本名、
「へえ、俺の本名を。すげえな、さすがだよ、先生」
先生の涙声を楽しむかのように、中小路さんは声を上げた。
「もう、終わりか——」
悔しくて悔しくて仕方ないのだろう。仇敵と思い定めた中小路さんを目の前にして、先生はどうすることもできないのだ。
このさき、どうなるのか。
先生は、取り調べを受けるのか。容疑は薄いように思えるが、身柄さえ押さえておけば、あとは埃が出るまで叩けばいいという寸法なのだろうか。
わたしが追い求めていたものは、何だったのだろう。
正義。
そうだ、正義。
正義とは、何なのだろう。
そんなもの、この世にほんとうに存在するのだろうか。
先生。中小路さん。太田刑事。この三人は、少なくとも正義を掲げることはできない。
ユウ。わたし。悪を行ってはいないが、では何かをもって正義であると断ずる術を持たない人間でしかない。
「最後に、認めてくれないか」
「何を」
「さっき俺が言ったこと。その件における中澤隆が、たしかにお前であったと」
「ああ——」
鷹揚に頷きながら、ちらりと太田刑事を横目で見る。太田刑事はぷいと目を背け、聞かなかったことにするから大丈夫というサインを見せた。
「認めてやるよ。俺が、その中澤隆だよ。久世はネットワークビジネスでいいカモだったな。俺に入れ込んでさ。何でも言いなりだった。起業しよう、金はあるかって言ったらすぐに出てきたもんさ」
中小路さんは、昔から、そうだったのだろう。先生の恋人であるはずの久世さんも、もしかすると、中小路さんに大きく気持ちを傾けていたのかもしれない。先生は、そうとも知らず。
「いや、お気楽だよな、先生も。あのときも自分の女が俺と一緒になりたいって言ってさ、お前のことなんか忘れてどうでも良くなってるのに」
いつまでも。長い時間が経っても、なお。
いや、先生にしてみれば、それは一瞬のことだったのかもしれない。ちょうど、花火が開いて消えるまでの間のように。
「ま、とりあえず、警察によくしてもらうんだな」
これで、終わり。
先生は、ついに追い求めてきたものを前にした。しかし、もう、どうすることもできない。
中小路さんは、いや、高梨は、また京都の闇に消える。
何もなかったことになる。
悪を悪だと指差すこともできず、何も。
先生の顔が、道端に転がる蝉の抜け殻のようになった。それがこの場においては浮き立つように思えて、わたしは無意識に注目した。
「川島」
先生が、鋭く言った。川島は身を一度凍らせ、心の準備をしているような様子を見せた。
中小路さん、いや、高梨は、状況が見えずにいるらしい。おい、なんだよ、と声を荒げて説明を求めるが、答えるのは窓の外の蝉だけ。
「川島。お前がこの件にどう関わったのか、このオッサンに説明してやれ」
太田刑事が眉をひそめたが、単にオッサン、という単語に対する反応でしかないように見えた。
「はあ。いやね、僕、先生から紹介受けてね、この長谷川秀一さんの不動産売却のお手伝いしてるんですけどね。そこにいる小田いう人が間から入ってきてね」
変名がありすぎてややこしいが、小田は中小路さん、いや、高梨のことだ。
「相場よりやっすい値で買え、言うんです。向こうは相続税払わんとあかんし、足元見たれて。せやけどね、あるべき価額から逸脱したような金額で取引するんは、あんまええことないでしょ。僕の儲けも減るし」
川島はちらちらと先生の顔色を確認しながら、舌を回し続ける。
「そやけどね、この人、買うた土地はすぐ自分が買うたる言うんです。そやし、長谷川さんには、近隣の工場の閉鎖やら何やらで取引相場が下がってるて適当なこと言うてこのまま売ってもらえ、言うんです」
「工場の閉鎖によって取引相場が下がってるって根拠はあるのか?」
先生の声には、力がある。全くわけが分からないけれど、背中に冷たい汗が流れている。
「いや、むしろ逆ですわ。工場の閉鎖が多いし、宅地としての需要が上がっとるんです」
「じゃあ、ここにいる、お前が小田と呼ぶ男は、自身が安価で購入する目的で虚偽を告げて土地を購入するよう持ちかけたわけだな」
「どういうつもりかは、分かりませんけど。とにかく、僕は止めたんです。ほんで、先生に相談したでしょ。先生も、やめとけ言わはったし」
どういうことなのだろう。先生から持ちかけ、秀一氏に安くで土地を売らせ、持つものを全て失わせてしまおうと仕組んでいたのではなかったのか。
川島が、ほら、と取り出したスマホを操作すると、音声のやり取りが再生された。
「——嘘を言うて土地を安くで売らすて。やっぱり、あかんと思うんですよ」
「そうですね。たしかに、納税資金を確保するために土地売却を急ぐ意味で安く売り出すという話はよくあります。私も、長谷川氏にそうアドバイスをしました。ですが、その小田という人物が、自らがすぐに購入するから、と持ちかけたのであれば、詐欺の故意を疑われても仕方なのいことだと思います」
紛れもない、川島と先生の声。
「お前、川島——」
小田、いや、高梨の声が、上ずっている。
「ハメたのか。自分の身がどうなるか、分かってんのか」
川島が、笑顔を無理に作ろうとするような表情を高梨に向ける。
「いやね、小田さん。あんたが、いくら興嬰会に雇われた凄腕の詐欺師で、なおかつ金積まれたらどんな汚いことでもする、いう評判の人やったとしてもね——」
ちらりと先生に眼をやり、
「そんなんより、もっと怖いもんがあるんですわ」
要するに、川島と先生はグルだということだ。しかし、何のために。
「太田さん。もういい。さっさと、この詐欺師を連れて行って、尋問でも何でもすればいい」
高梨が何かから逃げ出すように言い放つが、太田刑事はまたゆっくりとソファに腰を下ろし、あたらしい煙草に火を点けた。
「なんだよ、どうしたんだよ。あんたが追ってた詐欺師が、ここにいるんだぞ」
「いやなあ、小田くん。——いや、高梨」
太田刑事の声の色が、変わった。それは今まで受けていた下品な印象とは少し違うものだった。
「正直、僕、詐欺案件やら何やらは専門外でな。ピンと
先生の手錠が息を吹き返した蝉のように鳴って、外れ落ちる。
「——オモチャや。すぐ取れるわ」
高梨に向かってひとつ笑い、煙を吹きかける。
「それよりもな、僕の専門はな、反社や、反社。暴力団がらみのこと追っかけて捜査してる、言うたやろ」
わたしにも、だんだん構図が見えてきた。ということは、太田刑事も。
「いや、マジかよ、先生」
高梨は尻をまくったのか、けらけらと笑い声を立てて大げさに両手を挙げた。アメリカのドラマみたいなリアクションだと思ったが、さすがに思考を遊ばせる余裕はない。
「あんたの助手、マジで優秀だったんだけどな」
わたしのことを言っている。
言われなくても、分かっている。高梨は興嬰会から邪魔者を潰せという依頼を受けて中小路さんとして先生に接近するうち、わたしに目を付けて先生の身辺や行動に関する情報を得ようとした。
その意味では、わたしは何より優秀だったろう。
中小路さん。優しくて、大人で、素敵な人。孤独に戦い、正義を求める人。そんな人、いるはずがなかった。いたとして、わたしみたいな世間知らずで短慮な子供に興味を持つはずがない。
だからこそわたしは舞い上がり、自分が何をしているのか知らずにこの詐欺師の片棒を担いでいた。
中小路さんも、毒蛇でしかなかった。甘い、甘い毒を流し込まれたことにも気付かず、わたしは彼の思うとおりに働いた。
「なかなか可愛いとこあったよ。花火、楽しかったね」
刹那、わたしの頭の中に、人生最高の夏の思い出が咲いた。
わたしを利用し、ユウを騙し。興嬰会だか何だか知らないけれど、その保全の必要があるなら直接先生とやり合えばいい。
先生の恋人だった人。高梨のために食い物にされ、道を誤り、そして亡くなってしまった。
そして、今この場において悪びれる様子もなく、川島の件での自分の落ち度を指摘されてもなお勝利を確信し、へらへらと笑っている目の前にあるこれを悪と呼ばずして、何と呼ぶ。
わたしを先ほどまで包んでいた絶望と虚無が、明らかに形のあるものとして息をしている。
それを怒りと呼ばずして、何と呼ぶ。
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