あるはずのない青い薔薇
「先生。まあ、そういうこっちゃ」
不敵とも取れる姿勢でソファに体重を預ける先生に向かって煙の塊を吐き出しながら、太田刑事が何かを促すように言った。
その煙が顔にかかって、流れて溶けて部屋を薄く白くするだけのものになっても、先生は同じ姿勢のまま。
「——そうか。まだ分からんか。あんた、さすがやわ。心臓に毛ぇどころか、針金でも入っとんのやろな」
太田刑事は何が面白いのかまた笑い、秀一氏に目配せをした。秀一氏は重々しく頷き、目の前のお茶を一息に飲み干して、息を吐くかわりに言葉にした。
「興嬰会になんの恨みがあるんか知らんけどな、あんた、やりすぎたんや。姪っ子から話聞いてな、なんや姪っ子から警察の方にも相談したらしいわ。ほな、この太田さんがすぐ来てくれはった。興嬰会にもぶっといパイプのある人や」
秀一氏は黙っていると気が弱そうなのに、口を開くと途端に恫喝を受けているような印象になる。そういう類の人は、少なくないと思う。
「なんでも、あんた東京モンらしいし知らんのやろけどな、京都はな、むかしっからな、持ちつ持たれつの街なんや」
それは、反社会的組織と警察との間でも同じ。そういう意味のことを間伸びのする京都弁で言った。
「せやし、そもそも俺をコチョコチョいらっても一文の得にもならんかったんや。藪を突っついたら必ず蛇出るで。ええ勉強ちゃうか。なあ、太田さん」
先生が、ちらりとこちらを見た。なぜ、と考えて、太田刑事が興嬰会と繋がっているというくだりを録音しているか、という確認だとすぐに思い、大袈裟にならぬよう気をつけながら深く頷き返した。
反社会的組織が警察と繋がっているというドラマのような話は、太田刑事から受ける印象そのままである。捜査を進め、組織の構成員と接触するうち、それが良からぬ繋がりになってしまうということがほんとうにあるのだろう。
「そもそもな、あんた、自分がどんだけ目ぇ付けられてるか分かってへんのやろ。こっちはな、そらもう、早うからあんたとじっくりお話でもと思て、思春期の学生か言うくらい焦がれとったんやで」
勝ち誇ったような太田刑事。その存在を後ろ盾にしている秀一氏。先生はそれらを交互に見、鼻でひとつ笑った。
やっぱり、そうだ。先生は、このことも織り込み済みだったんだ。秀一を足がかりにして興嬰会への道筋を付けるだけでなく、自分を付け狙う太田刑事。ここで葬り去ろうとしているんだ。
そう思うと、なぜかほっとしたような気持ちになった。この悪人どうしの食い合いがどうなろうとわたしは構わないが、ここで先生が敗れては中小路さんは途方に暮れてしまうだろう。
まだ、携帯は震えない。ハンドバッグの外ポケットに入れてお尻を触れさせているから、返事があればすぐに分かるはずだ。
時間も、場所も伝えてあったのに、どうしたのだろう。
「なんや、この川島にも今日ここに来い言うとったらしいな。ヤバいと思て、売却価額の再設定でも申し出さすつもりやったんか?」
先生は、やはり答えない。太田刑事は煙草を揉み消し、その手をぱちんと叩いた。
「どうなんや。応じるんか応じひんのか」
先生の様子を数秒だけ観察し、鼻で笑った。
わたしは、全て録音している。太田刑事が興嬰会と繋がっているということについて、先生がいつ切り返すのか。横目で様子を窺っても、やはり眠そうな目を汚れた眼鏡の奥で光らせているだけだ。
何を待っているのか。先生が黙っている間にも、太田刑事はどんどん先生を詰めてゆく。
「何でそんなどっしりしてられんのか知らんけどな。ほな、あんたの希望通り、王手といこか」
声に応じるようにして、またドアが開く。話が進み、それに応じて人物が登場するあたり、まるで舞台演劇を見ているようだと思った。
いや、まったくもってその通りだろう。今日のこの日自体、舞台演劇と同じで、あらかじめ筋書きが定められ、そのとおりに演出されたものなのだから。
太田刑事も、先生も。互いのシナリオに沿って演者を踊らせている。見たところ太田刑事の方がシナリオに忠実であるようだが、それすらも先生のシナリオに書かれたことなのであれば。
舞台の場合、なにかの拍子に進行がシナリオから外れそうになった場合、役者のアドリブによって本来のシナリオに早急に戻されなければならない。
先生は全てにおいて緻密ではあるが、アドリブがきくタイプだとは思えない。
わたしが気にしているのは、中小路さんがやって来るまでの時間を稼ぐことができるかどうかだ。
ほんとうに、どうしたのだろう。
今日この日のチャンスを逃すはずがない。
もしかして、何かあったのだろうか。
太田刑事は、興嬰会と繋がっている。だとしたら、自分にとって邪魔になるかもしれない中小路さんのことをどうにかしようと考えても不思議ではない。
まだわたしたちが今ほどの関係になる前、木屋町三条の石畳のうえで中小路さんを囲んだ男たち。その光景が蘇り、ぞっとする。
そもそも、メッセージを見もしていないということ自体、異常なことだ。なにかあったのかもしれない。
ドアが開く間のわずかな瞬間、わたしの頭の中にはそのようなことが浮かんでいる。
開かれたドアから身を入れる人物の姿に、わたしの頭の中の舞台セットも不安も木屋町の柳の木も、すべて吹き飛んだ。
——え?
思わず、声を出していた。裏返りかけた変な声だったが、それをコントロールすることはできなかった。
全く飲み込めない。何が起きているのか、どういうことなのか、まるではじめて聞く外国の言葉のように、たしかにそれを認識してはいるが頭の中に意味あるものとして像を結ぶことなくそのまま通り過ぎていってしまうような。
とりあえず、わたしが目にしているものについて、ひとつだけ知っている単語があるので、それが必然性をもって口からこぼれ出た。
「中小路さん——」
この二間ぶち抜きの広い応接室にある全てのものが色を、温度を、音を失い、モノクロの無声映画のようになる。
その中で唯一、色を持つ中小路さんは、たしかに中小路さんだった。だって、わたしの思考がどれだけ遊び、その結果迷子になったとしても、中小路さんは世界のどこにわたしがいるのかを教えてくれるから。
わたしが分からないのは、中小路さんが今ここで、このタイミングであらわれたということだ。わたしが世界のどこにいるのか分かったとしても、中小路さんがどこにいるのかが分からず、そのことにひどく混乱しているのだろう。
「往生際が悪いなあ、先生」
顔も、声も、全てが中小路さん。だけど、違う。そう感じるような何かを、目の前にいるものは確かに放っている。
「まあ、何でもいいけどさ。もう、あんた終わりだよ。だから、とっととパクられちまいな」
やっぱり、違う。これが中小路さんだったら、こんなこと言うはずがない。だって、中小路さんは、自分の正義のために先生を追って、それを完遂しようとしているんだから。
「全て、お前が裏で糸を引いてたってことか——中小路」
先生が皮肉っぽく笑い、ずれている眼鏡を直した。
「ほんとうの敵は、案外近くにいる。昔の偉い人が言ってなかったっけ」
「俺に協力する風を装い、その実、太田、いや、興嬰会のために働いてたってか」
「そういうこと。いや、苦労したよ。太田さんがどうするのか知らないけどさ、俺としてはとりあえずあんたがパクられてくれれば御の字なわけ。そしたら、もう、あんたは税理士として京都にはいられない」
何を言っているのだろう。中小路さんは、何の話をしているのだろう。
「——皆、繋がってる。この街の常識か。どうやって、長谷川をけしかけた」
「先生。あんた、自分だけが賢いと思ってるだろ。そういう奴の目を欺くのって、すごい簡単なんだよ」
そうだろ、と中小路さんは閉め切らないままのドアの向こうに声をかけた。
わたしの頭の中で、大きな歯車が停止した。そう喩えざるを得ないくらい衝撃的なものを、わたしは目にしている。
「——ユウ」
口に出ていた。この人口密度の高い応接間を見渡して、戸惑った表情を浮かべているのは、紛れもなくわたしの唯一の親友だ。
もう、考えるのをやめてしまいたい。何も知覚せず、ただそこに存在するだけのものに、なってしまいたい。わたしは、心からそう思った。
そうだ、花がいい。花なら、ただ咲いていればそれでいい。雨と日差しを喜び、風に震えているだけでいい。
そうでなければ、わたしは知覚してしまう。
中小路さんが、なぜわたしと共にいたのかを。
ユウの言っていたイケてる刑事というのが、何者であったのかを。
中小路さんがわたしに見せてくれていた世界の全てが、嘘であったと。
言葉。
くしゃっとして少年みたいになる笑顔。
落ち着いた声。聞いていると安心する。
大きな手。少しざらざらしている。
体温。息づかい。
その清く、美しい心。
その全てが、わたしを利用して先生を陥れるために。今目の前で起きていることから結び付く現実が何であるのか、子供でも分かる。
それを知覚してしまうことを、わたしの全身がありったけの力で拒んでいる。わたしの魂が、血を流して塗り潰してでも隠そうとしている。
消えてしまいたい。
いや、違う。その必要すらない。中小路さんによってはじめて、わたしはわたしになることができた。
わたしは、すでにこの世界のどこにもいない。
だって、中小路さんという人なんて、はじめからどこにもいなかったのだから。
花になりたい。
花。
わたしが見ていたものは、あるはずのない青い薔薇。
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