西陽

 秀一氏からの連絡は、盆明けすぐだった。秀一氏のようなタイプであっても、緊急の用件でも盆休みの間は連絡を控えるものかと思うと、少しおかしかった。


 内容は、狙いどおりだった。事務所の固定電話越しの秀一氏は、話が違う、と怒鳴り声とも泣き声ともつかぬ声を上げていた。

 先生に受話器を渡すと、先生は淡々と話をし、面談の約束をした。


 その日、決まる。

 わたしはデスクの下でスマホを操作し、中小路さんに、

「二六日、十五時です」

 とメッセージで報せた。

 受話器を置いた先生は一呼吸置いてから振り返り、

「そういうことだ。一緒に、来てくれるね」

 と言った。先生一人で面談に出向くこともあれば、わたしが資料などを持って付き従うこともあるから、普段どおりのことである。


「前に、言ったと思うけれど」

 先生が腰を下ろし、閉じかけたノートパソコン越しにわたしと眼を合わせた。これは珍しいことである。

「会話は、全て録音しておくこと。無許可でいい」

 面談内容の確認のため会話を録音する場合、あらかじめ相手に断って、レコーダーを相手から見える位置に置いて行うが、今回は無許可、すなわち隠し録りをするということだ。

「——わかりました」

 物分かりのいいわたしに向かって、先生は苦笑を漏らす——なぜだろう、春に一連のことに巻き込まれる前はこれが苦笑だとは認識していなかったが、今ははっきりと先生が笑っていると思える——。

「飲み込みがいいね。僕が何をしようとしているのか、理解しているんだね」

 どきりとした。先生の行動を中小路さんにリークしていることを遠回しに言っているように感じたが、気のせいに違いない。


 わたしは、変わったのだ。中小路さんと出会って。

 相変わらず思考はすぐに青森のねぶた祭りか、あるいは岸和田のだんじり祭りのように賑やかになるし、北極にでもエジプトにでも飛んでいってしまう。だけど、その傍らで、世界のどこに自分がいるのかという座標をしっかりと定めることができている。

 思考が深くなった。そういうことだと思っている。それも、中小路さんが作ったわたしの姿。

 そうやって、わたしを加工して、研ぎ澄まして、わたしのなりたいわたしにしてくれて、わたしが欲しいわたしを教えてくれる。中小路さんとは、そういう人なのだ。


「二六日、十五時。僕は、長谷川秀一氏に裁きを下す。法では裁かれぬ悪だ。それを、明確に伝えておく」

 今までになかったことであるから、背骨が痙攣するようなので感覚に一瞬襲われた。先生は、今、毒を持つハブとして、そしてそれを隠すことなくわたしの眼を見ている。

 協力者だと、助手だと信じ込んでいる。馬鹿だな、と思う。


 犯罪の片棒を担ぐなんてまっぴら御免だし、不正義の行いを見過ごすつもりもない。白か黒かでは塗り分けられない世の中であることは分かっているけれど、それでも、中小路さんは正義を追求している。

 目の前のハブは、たしかにわたしの眼を見てはいるけれど、わたしの心の正しさまでは見えていない。


「ところで」

 先生がデスクの上で両手を組んだ。面談のとき本題が終わって雑談に移る際に見せる行動だ。

「花火大会、どうだった。行ってきたんだろう」

 口から肺が出そうになった。まさか、中小路さんと行ったことを悟られているのではないだろうが、分からない。

「ええ、行ってきました。すっごく綺麗でした」

 動揺を気取られぬよう、つとめて声を弾ませた。

「先生も行けばよかったのに。目の前の空と、うっすら浮かぶ対岸一面を埋め尽くすような花火で、本当に凄かったんですから」

「君の友達である、秀一氏の姪と?」

 やはり、なにか探っているのかもしれない。わたしは、一層身を固くして注意を深めた。

「いいえ、別の友達とです」

「そうか」

「いいじゃないですか。プライベートですよ。誰と花火を見たかなんて、申告義務はありません」

 冗談の色をできるだけ濃くして、胸を張って見せた。先生は、そうだね、とひとつまた苦笑し、それをすぐに収め、

「さぞいい眺めだったろう。——高いところから見ていたんだね」

 と呟くように言ったから、肺どころか心臓が鼻から飛び出すところだった。

「——空は目の前にはない。地面から見ているなら、花火が埋め尽くすべきは湖面であって対岸ではない」

 言葉尻、とよく言うが、その恐ろしさを知った。べつに高いところから見ていたって、それが中小路さんとわたしを繋ぐ要素にはなり得ないと思い、曖昧に感心しておいた。


「しかし、思いのほか食ってかかってくるのが早かったな。誰か、情報をあちらに流した者が——」

 先生は独り言などまず言わないタイプだけれど、なぜか今日にかぎってやたらと呟く。肺、心臓に続いて、胃がねじり切れそうになるのを辛うじてこらえた。

「まあいいさ。どちらにしろ、好都合だ。川島に連絡をしておこう」

 いつもならスマホを手に事務所を出て行くのに、先生はデスクに座ったまま通話を始めた。


「早まった。二六日、十五時。——先約なんて、知ったこっちゃない。いいから空けとけ。場所はまた連絡する」

 この口ぶり。普段の先生からは想像もできない。紛れもないハブが、姿をあらわした。やはり、あの川島で間違いないらしい。おそらく、先生は、高木生花店のことを弱みとして握り、取引、いや、強請ゆするような形で川島を引き入れているのだろう。


「わたしは、なにをすれば」

 録音をするだけなら、先生のジャケットのポケットにレコーダーを忍ばせておけば事は足る。わざわざわたしを連れ、かつ、先生のしようとしていることについての核心を明かす理由が分からず、不気味である。

 それについての回答は、

「万さんには重要な役割がある。その場で、明らかになるだろう」

 というものでしかなかった。


 スマホが震えた。中小路さんからの返信だろう。先生の視線があるから、盗み見ることすらできない。

 しばらくして時計の針が一直線に並んで、先生が帰り支度を始めてやっと、それを見た。

 ——ありがとう。もう少しだね。

 安堵。それが、わたしを包んだ。文字ですら愛おしく、頼もしい。

 わたしも帰り支度をしようと思って立ち上がったとき、ドアが鳴きながら開いた。


 いらっしゃいませ、と条件反射によって口を開こうとしたが、止まった。

 太田刑事。にやにやと下品に笑いながら、遠慮という言葉を知らないような様子で事務所に足を踏み入れてくる。

「なんや、先生。もう帰りかいな」

「ええ。なにか、御用でしょうか」

「いやいや、なんや騒がしいような気がしてな。変わったことでもあったんか?」

 ぞっとした。太田刑事は、なにごとかを察している。冗談のような口調だが、その奥に凄味をしっかりと覗かせている。

「そうですね、色々と」

 向かい合う先生は、平然としている。

「さよか。どっこも忙しいなあ。コの字の方では、人探しで大変らしいわ」

「人探し?」

「せや。なんでも、東京から来た詐欺師がコの字の関係者をつけ狙うとるらしいわ。あっちはあっちで返り討ちにするつもりで、ごそごそやっとるで」

「そうですか」

「なあ、先生。あんた、なんか知らんか?」


 沈黙。

 二人は、ただ立って向かい合っている。

 先生の手には、あの黒いジャケット。

「——まあ、また来るわ。なんか言うときたいことあったら、いつでも言うてや」

「ありがとうございます。その際には、よろしくお願いします」

 脅威は去った。それはわたしの目の前からという話であり、消えて無くなったわけではない。


 事務所の外は、西陽が支配する世界だった。昼間はあれほどうるさい蝉が、くちびるに指をあてて声を発するように静かに鳴いている。

 先生は、自分を睨みつける陽射しに汚れた眼鏡を少し光らせ、お疲れ様、と言って歩き出した。

 その影は、先生を追いかけて取り込もうとするかのように長く後ろに伸びていた。

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