ハブが毒を持つ理由

「——そっか、辛かったね」

 中小路さんは、優しい。わたしを満たし、わたしの知らなかった別のわたしにしてくれる。

「でもさ、ユウちゃんだって、複雑なところだと思うから。睦美のことを思って、理解してるからこそだと俺は思うけどな」

 会ったこともない人だけど、そうだと思う、と付け加えて笑う白い歯はやっぱり星屑みたいで、とても特別なものなんだという風に思える。

「でも、わたしには」

 寄せたままの肩に、頭を埋めた。ファンデーションが付いてしまわないよう、頬などは触れないように気をつけている。

「中小路さんがいる」

「睦美ちゃん」

 こうしているときに中小路さんが声を発すると、厚い胸板ぜんぶが振動してわたしの鼓膜にその温度が伝わって、とても快い。

「そういう風に、捉えない方がいい。そのユウちゃんって子のこと、大事なんだろう?」

「うん——」

「じゃあ、俺は俺。ユウちゃんのことはユウちゃんのこと。ちゃんと勇気を出して向き合ったんだから、俺がいるからそれでいいなんてことは思うべきじゃない」

 わたしは、この人が好きだ。もう、魂までも所有してほしいと思っている。この人は、わたしをわたしにしてくれる人だ。


 鴨川、三条河原。ほかのカップルがそうするように、わたしと中小路さんもぴったりと寄り添い、真っ黒な水面に映る川端通りのきらきらとした光を眺めている。

 みんないるのに、わたしたちだけ。不思議な感覚だけれど、落ち着く。それでいて、隣にいるのが中小路さんだから、とても特別なことなのだという実感が、見下ろす鴨川のように静かな音だけを匂わせている。


 中小路さんに励まされ、弱気をたしなめられてしまったけれど、わたしの言ったことは、ほんとう。それだけ伝えたくて、唇を懸命に、羽をどうにか広げようと頑張る虫のように動かした。

「わたしには、あなたがいる」

 中小路さんはわたしがどうして同じことを言うのか察してくれたのか、街の光に塗られた闇の中でわたしの方に顔を向けてゆっくり笑い、やわらかく、あたたかい感触をわたしの唇に与えてくれた。


「しかし、羽布はなかなか尻尾を出さないな。睦美ちゃんに負担ばかりをかけている」

 会話が途切れ、それを埋めるように流れる川の音が、また中小路さんのものになった。

 たしかに、先生が税理士として秀一氏にしようとしていることは、詐欺でもなんでもない。誰が罪に問うこともできない。そんな情報では、駄目だ。


「ねえ」

 大した収穫もないまま日ばかりが過ぎてしまっているから、わたしは、どうにか先生についての有用な情報を得ようと焦っている。

 そのためには、先生のことを知る必要がある。それを、中小路さんに求めてみようと思った。

「先生は、どうして興嬰会をそんなに目の敵にするんだろう」

「そもそも、ってことかな?」

「うん」

 真面目な話のはずなのに、わたしの口調と声色はまだ甘えたままだ。中小路さんはそれを気にする様子を見せずに少し考え、薄い唇を開いた。


「昔、羽布が東京にいた頃、ある男が詐欺をはたらき、羽布の身内だったか恋人だったかが被害に合った」

「先生の」

「そう。被害に合い、自殺してしまったそうだ」

 じゃあ、やっぱり、先生は復讐のつもりで。

「それから、羽布も同じことをするようになった」

「どうして——?」

「おそらく、憎い相手と同じ世界で息をすることで、少しでもその足取りを追えると思ったんだろう」

 そして、あまりに深く法知識を求めるあまり、ついには司法試験に合格するほどのものになった。

「それで、その相手ってのが東京から消えて、次にあらわれたのが」

 京都。東京から逃げて、おそらく名前なんかも変えて、そして興嬰会に匿われている。興嬰会のために悪事を働くことと引き換えに。先生は、それを追ってこの街にやってきた。

「相当に、用心深い男だ。京都に来てからというもの、詐欺まがいのことはしても、詐欺行為にあたるようなことは全くしていない。正当きわまりない方法で、彼は興嬰会の下部組織やその構成員を再起不能にし、どうにか自分の求める敵に至る糸口を探そうとしているんだろう」


 中小路さんは、なんでも知っている。それは長年の捜査の中で得たことで、それほどまでに先生の逮捕を求めているからこそなのだろう。

「俺は、ずっと一人で彼を追ってきた。ここにきて睦美ちゃんに協力を依頼せざるを得なかったのは、興嬰会の方から彼を煙たがり、消そうとする動きがあらわれたからだ」

 そうすれば先生は永遠の闇の中に消え、逮捕も断罪もできなくなり、かつて先生によって被害を受けたあらゆる人は救いを失ってしまう。そういうことを、分かりやすく説明してくれた。

「興嬰会よりも先に彼を逮捕し、その悪事を暴かなければならないんだ」

 聞けば聞くほど、中小路さんが先生のそばにいて、かつ、わたしと接触を求めた理由が分かる。


「任せて。わたしには先生の様子を伝えることしかできないけど、中小路さんが正しいって信じてる」

「睦美ちゃんがそう言ってくれるなら、こんなに心強いことはない」

 孤独なのだ。一人でその痛みと焦りに耐えてきた中小路さんは、傷つきすぎている。わたしにそれを肩代わりすることができないなら、せめて、ともにありたい。寄り添っていたい。それは、わたしもまた孤独だから。

 今さら言うまでもないことだけれど、あらためてそう強く思った。


「行こっか」

 中小路さんが促したので、わたしも立ち上がる。

 河原から通りに出ると、別世界のように騒がしくなる。二人で並んで歩いていれば、このまま三条の闇に溶けて消えてしまうとしても怖くはない。

「じゃあ、ここで」

 中小路さんは優しく笑い、手近なタクシーに向かって手を挙げた。今夜はここでお別れか、と少し残念に思い、何を期待しているんだと一人で慌て、この前の夜のことを思い出して赤面する。

 タクシーに乗り込みながら、わたしの様子を見てきょとんとする中小路さんだが、何事かに気付いたのかくすくすと笑い、タクシーから降りてきた。


「まだ、どっか行きたい?」

「ううん、大丈夫」

「じゃあ、送ろうか」

「いい。駅まで、歩くから」

 タクシーの運転手さんの粘っこい視線が中小路さんの背中に刺さっている。わたしはつとめて明るい声を出すことで中小路さんをタクシーの中の人にした。

「じゃあ、また連絡する」

 笑って手を振る中小路さんと同じ顔、同じ動作を返し、見送った。

 タクシーがテールランプを見せても、まだそれを続けていた。


 さて、と声にならない声を発し、地下鉄市役所前駅を目指すため、三条通りを河原町の方に向かって歩きだす。

 その途中、木屋町の高瀬川を越えたあたりで、わたしは足を止めた。


 ——先生。

 あの、黒いスーツ。今日は休日だけど、先生は私服もスーツなのだろうか。というか、いつものくたびれたダサいスーツが仕事着で、時折見るこのバッチリ決まった高そうなスーツが私服ということなのだろうか。

 季節感もなにもないその姿と鬱陶しい天然パーマの後ろ頭は、見間違えようがない。

 そして、隣にいる男性の後ろ姿にも、見覚えがある。

 ——長谷川秀一氏。


 春の夜、先生がハブである姿を偶然に見たときのことを思い出す。

 わたしは、ごく自然に、それでいて清水の舞台から転落死するように、二人のあとに続いて歩を進めた。


 東京にいた頃、知り人が詐欺の被害に合って、それを苦に自殺した。その復讐のため、加害者を追い、京都にやってきた。

 相手を見つけたら、先生はどうするのだろう。

 その答えはないかもしれないけれど、黒いスーツの先生がこれから何をするのか、わたしは見届けなければならない。

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