見てはならぬもの
電信柱を縫い、影そのものになって。雑踏に溶け、二人の後ろをついてゆく。
なにか、会話をしているらしい。内容までは分からない。分割協議書の打ち合わせか、それが完成したことの報告か何かだろうか。秀一氏は、先生が何をしようとしているのかしらず、喜んでいるのかもしれない。
わたしに言わせれば、自分の、自分たちの資産にかかわることなのに、それを人任せにしきってしまえる人の気が知れない。
もちろん、税計算や申告などはとても複雑だから、専門家に依頼する方がよい。だけど、誰が何をどうするのか、少なくともその考えや思いを相続人間で話し合っておくくらいのことをしておくものではないのか。
かつ、秀一氏は、あまりに無知である。
資産家の長男といえば、だいたいは親の代からその運用を手伝い、自身もまた自分たちに課せられた重要な使命——受け継いだものを守り、継承してゆくこと——を受け入れ、自らに連なる者に資する技を磨いてゆく人が多いが、ごく稀に、秀一氏のように、資産の何たるかを知らず、あたかもそれが自分の所有物であるかのように誤信し、他者にそれを分け与えることを、なにか損——もともと自分のものではないにもかかわらず——でもするかのように捉え、頑なにそれを抱きしめて離そうとしない人がいる。
そういうタイプの人に限って、得れば得るほど税負担も大きくなることを考慮しない。
先生の助手をしながら、そういうことをなんとなく感じる機会はあったけれど、秀一氏ほど極端な例はめずらしいだろう。
いや、もしかすると、先生が。先生が、秀一氏のそういう傾向を助長するよう仕向けたのかもしれない。
事実だけれどその裏にもう一段の秘密が隠されているような事柄を、甘く、その気になるような熱量のある言葉で包んで。詐欺師ならば、それくらい朝飯前だろう。
ふと思った。
先生は、詐欺師なんだ。わたしは、先生を先生ではなく、詐欺師だと思っているんだ。
これまで見てきた世界は、そこで平和に暮らしていたわたしは、どこにいったんだろう。
わたしの知らなかった世界。それを象徴するかのような、胡散臭い夜の空気。そこを我が物顔で歩く人。その中心にいる、羽布清四郎。わたしが、先生と呼ぶ人。
それは、秀一氏を連れて、木屋町と河原町を繋ぐ通り抜けの一本に口を閉ざして居座っている、古びたバーの扉を開いた。
「——いや、先生。ありがとうな。あんたのおかげや」
「ご要望の基礎となる、個人のお考えや理想。それがあってはじめて、我々は仕事ができます」
「ストイックやな。そういうとこ、ほんま好きやわ」
「恐れ入ります」
一人で店内に入ったらさすがにバレてしまうと思い、先生たちのあとに入店した三人連れのあとに続き、グループ客かのような顔をして入店した。それほど広い店ではないから、先生たちの会話はかろうじて聞き取れる。
わたしからは先生の背中が見えているから、気付かれることはないはず。そう思い、さらに神経を澄ませる。
中小路さんなら、こんなとき、どうするのだろう。たぶん、こういう風に対象に接近したり情報収集をしたりするのはお手のものだろう。
わたしは、駄目だ。オレンジジュースを注文する声は掠れ——それがかえってわたしの存在を隠してくれるようで安堵した——、出てきたグラスを握る手は震えてしまっている。冷たいグラスを覆う水滴がそれを誤魔化しているけれど、手汗もびっしょりだ。幼稚園のお遊戯会のとき、わたしの手が濡れていると言って手を繋いでくれなかった男子の顔が明滅する。
「弟さんの同意と押印を得た協議書は、すでに司法書士に手渡しました。電話でお伝えしたとおり、申告書もすでに完成しております」
「いや、仕事が早すぎるな。ふつう、そんなん、三ヶ月ほどはかかるもんちゃうんか。さすが先生。神業やな」
「相続というのはその家、個人によって都度かたちを変えるもの。しかし、計算の方法はいつも同じです」
先生は、いつもの物言いで、税理士らしいことを口にしている。それがもたらす安心感というのはやっぱりあって、裏面で、わたしがあの恐ろしい毒を持ったハブを心底恐れているんだということを明らかにする。
「それに、本件は、私としても緊急性が高かった」
何かから手を離し、それが自然落下するような言い方。先生の肩越しに、秀一氏が眼を上げるのがちらりと見えている。
「さて、納税の準備を。お急ぎにならなければ、大変なことになります」
「分かってる。しかし、億を超えるような額になってくるとはな。もともとうちのもんやのに、国もえげつないことするで」
「納税資金は、すでにお手元に?」
やはり、先生は、探っている。これでほんとうに秀一氏が破滅するのかどうかを。
「ああ、手元にはちょびっとしか備えがないもんでな。土地をなんぼか売ったらそれでええやろと思てるねん。そやし、早よ売れんとえらいことになる。先生、ええ不動産屋知らんか」
「お付き合いの不動産業者などは?」
「あかん、あかん。先代から世話なってるとこに頼んだら、俺の代でもおんなしように頭上がらんまんま、食いもんにされて仕舞いや。京都は、そういう街や」
長谷川家で付き合いのある業者を使わないというのは、そもそも先生のところに税計算を依頼してきたのと同じ理由があるのだろう。それを、京都の街は、と言い換えているように聞こえた。
「なるほど。では、心当たりの業者があります。声をかけてもよろしいでしょうか」
「ああ、頼む、頼む。紹介してくれ」
「分かりました」
先生は内ポケットからおそらく名刺入れのようなものを取り出し、少し手元を遊ばせたあと、テーブルの上に名刺のようなものを提示した。
「この男から連絡が入るようにします。川島という男なのですがね。独立して個人で宅建業を営んでいる。それだけに、小回りがききます」
川島。その名に、高木生花店の店先で大声を上げていたあの男の姿が浮かぶ。
まさか。まさか、先生は。
川島を悪として裁いただけでなく、あのあと、何らかの方法で懐柔をし、自分の意のままに働く飼い犬にしていたのだろうか。
それをこれから秀一氏に向かって放つ。
先生が口にした川島というのがあの川島なら、そのやり口はおそらく真っ当なものではないだろう。粗野な雰囲気がして、我が身のみ尊しと思い込んでいるような秀一氏をわたしはどうしても好きになれないが、資産家の長男としてしか世の中を見ずに年を取った秀一氏は、確実に食い物にされるだろう。
見てはならないものを見た。まだあの川島をけしかけるつもりだと決まったわけではないが、しかし、わたしは、人の内にあって最も忌むべきものを見たような気がした。
こんなの、正義でも何でもない。そう確信した。
連れ立って店を出る二人から少しだけ遅れて、わたしもびっくりするような金額のオレンジジュース代を払い、昔ながらの立て付けの悪い扉を開いた。
外は、また京都の街の夜。楽しげに酔った声や、女が男に甘えるような声が保津川下りのようになってわたしを叩く。
それに押し流されてしまわぬよう、先生たちがどちらに向かったのか確認する。
「——何か、探し物かな」
明日から一週間くらいは筋肉痛確定といわんばかりにわたしの背中はのけ反り、すぐ脇の電信柱が作る暗がりからかかる声に反応した。
「以前にも、こんなことがあったね」
先生。影がそのまま形になったように姿をあらわした。その踏むアスファルトと同じ色のスーツの後ろに転がっているポリバケツの蓋の青が、不思議と夏休みの空みたいに見えて救われる心地だった。
「熱心だね、万さん」
ゆっくり、わずか数歩の距離を詰めてくる。
頼りない外灯が作る輪郭が、夜の店ならではの色彩で満たされて、それが先生を形作っていた。
「な、なにも、見てません」
昭和の漫画のような台詞を吐くわたしの声は、震えていないはずなどなかった。
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