第49話 夢④

 目を開くと、また、あの場所にいた。


 景色も、背景もない、虚ろのような空間。


 ぼやけた世界に、俺は、横たわっていた。




 俺は、今まで何をしていたのだろう。


 俺は、どこからここに来たのだろう。


 朦朧とする意識の中で、ぼんやりと曇る頭を使って考えた。


 俺は何を求め、何を望み、何を失ったんだろう。


 分からない。


 分からなかった。


 そもそも、自分という存在自体が曖昧だった。


 景色も、背景もない、虚ろのような空間。


 その世界に、自分はぴったりだったと思う。


 このまま、この何もない世界の一部となり、ぼやけた背景と共に消えてしまうのもいいかもしれないと思っていた。


 空っぽ。


 抜け殻の、人形。


 動く活力もなく、奮う魂もなく、脱力して空、いや、上を向いた。


 瞳に映る、一つの影。


 それは、全てがぼやけたこの世界にただ一つ、いや、一人だけそびえ立つ、凛とした人型のようなもの。


 何故か影が被っているように見えて、どんな顔なのか、どんな姿をしているのかは見出せないが、そのシルエットからして、髪が長いことや、全体的に小柄で丸み帯びているということが予測できるため、仮にあれが人だとしたら、おそらく女。


 そんな物、いや、者が、目に映った。


 あれは、なんだろう。


 首を傾げて、じっくりと観察する。


 凝視すると、影が、体を覆った黒いもやが少しだけ晴れたような気がした。


 見覚えのある後ろ姿。


 見覚えのある制服。


 見覚えのある黒い髪。


 あれは……あれは。








 そうして、全てを思い出した。


 勢いよく飛び起きて、辺りを見渡す。


 彼女は、俺は一体どうなったんだ!?


 死んだのか?


 それとも助かったのか?


 無数の疑問が頭の中に膨れ上がっていく。


 立ち上がって、自分の体を確認した。


 千切れたはずの腕が、足が、縫いつけられたように元通りになっていた。


 でも、そんなことは、自分のことはどうでもよかった。


 彼女だ。


 凪先輩だ。


 凪先輩の安否だけが頭の中を占めていた。


 彼女を庇おうとして道路に飛び出した。


 彼女もろとも鉄の塊に引き飛ばされた。


 自分の体が飛び散り、二人の生暖かい体液を浴びた。


 それから、どうなった。


 記憶を手繰り、脳に焼き付いているはずの瞬間を思い出す。


 赤く染まるアスファルト。


 伸ばした手、というよりは、視線。




 その先で、彼女は……




 全てを思い出し、その瞬間を思い出し、膝をついた。


 口に手を当てて我慢しようとしたけれど、やっぱり我慢できなくて胃液を吐き出した。


 そうして、知った。


 今回も失敗してしまったということを。


 二度目の夏の“あの日”も、彼女を救えなかったということを。




 ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    




 ぼんやりと、どこかを眺めながら考えていた。


 ここはどこなのか。


 どこからやってきたのか。


 俺たちは死んでしまったのか。


 そもそも、これは何なのか。



 胃液を吐き出した後に襲ってきた、うねるような頭痛に耐えながら考えていた。


 この世界は何なのか。


 死後の世界なのか。


 ……いや、違う。


 俺は、ずっとこの世界を、この夢を見ていた。


 幼い頃から、ずっと、この変わり映えしない、何もない世界の夢を見続けてきた。


 それじゃあ、この世界、この夢は一体何なんだ?


 虚無感と、頭を抱えて考えた。




 この夢は、この世界は、ずっと変わらないはずだった。


 数ヶ月に一度の頻度で発生し、何の影響も与えることなく忘れ去られていく。


 これはそんな夢で、そんな世界のはずだった。


 何の意味もなく、何の心配もない、そんな夢だった。


 けれど、いつの日からか変わってしまった。


 いつからだろう、この夢を見て不安を感じるようになったのは。


 いつからだろう、この世界に来て悩むようになったのは。


 ……そう、あの日だ。


 一度目の夏に、彼女と出会った日。


 七月の、初夏の風が吹くあの日に、この夢は変わってしまった。




 これまでの夢の変化を思い返してみる。


 最初の変化は、彼女と屋上でのイザコザを経た後の夜だ。


 たしか、夢を見る頻度とか、夢の内容とかが変わっていて戸惑ったのを覚えている。


 何より、いつもはテコでも動くことのなかったアイツが、俺に微笑みかけてきたのが衝撃だった。


 滅多に本なんか読まない俺が、学校の図書室で調べものをするくらいに動揺した。


 けれど、手に取った本の中に、ストレスによって夢の内容は変化するという項目を見つけて胸を撫で下ろした。


 なんだ、俺の杞憂だったのかと安心して、夢の変化を放置したのだ。




 次の変化は、彼女と電車で遠出をした、現実を共に乗り越えることを約束した日の夜だ。


 アイツを見た時に思うことが、感じる気持ちが、悲しみから安らぎへと変化しているのに気がついた。


 この時も、かなり動揺していたと思う。


 けれど、以前本を読んで調べた際に、ストレスによって夢の内容は変わるということを刷り込まれていたので、疲れているんだと、そう思い込んで悩まないようにした。




 そして、“あの日”。


 彼女が死んだ、七月三十一日。


 あの日、アイツが泣いている姿を目にしてから、現実までもが狂い始めた。


 その時は気がつかなかった。


 この世界の異常さに。


 アイツの正体に。


 多分、そんな余裕がなかったんだと思う。


 彼女を失った悲しみで、夢が、何もない世界が、自分のことがどうでもよくなったんだと思う。


 彼女を失ってからの一ヶ月は泣いてばかりだった。


 だから、夢について考えることもなかった。




 最後に、二学期の始業式の朝、屋上から飛び降りた後に見た夢、いや、訪れた世界。


 アイツが、彼女だという答えを知った。


 今まで分からなかったのがバカみたいだと思うくらいに、アイツは彼女だった。


 嬉しいような、悲しいような、そんな気持ちでアイツ、いや、彼女に触れた時、この夢で、この世界で、一番大きな、あり得ないような変化が起きた。


 夢から目が覚めた時、日にちが、時間が、九月一日から、彼女と出会った七月四日へと巻き戻っていたのだ。


 何故かは分からないけれど、他に原因と思われる要素もなく、何かしらでこの夢が、この世界が関わっていることを察した。


 はじめは恐怖を覚えた。


 一介の高校生にどうしろと、全てをあきらめ絶望した。


 けれど、これはチャンスだと、もしかしたら彼女を救えるかもしれないと、この怪奇現象を受け入れた。


 そうして、彼女の死の運命の回避と、時間遡行と夢の関係の解明を胸に誓い、俺は二度目の夏をやり直した。




 それらの変化を経て、今、この夢の世界に至る。


 二つの内、彼女を救うという誓いは果たせなかった。


 無様にも、また、彼女を死なせてしまった。


 自分の不甲斐なさに嫌気がさした。


 彼女じゃなく、自分だけが死ねば良かったのにと思っていた。


 劣等感に苛まれていた。


 だから、頭を捻った。


 もしも、この夢と、時間遡行の関係を解明できれば、もう一度やり直せるかもしれない。

 

 もう一度、彼女を救うチャンスを貰えるかもしれない。


 そんな、淡い、都合の良い期待を抱いて、記憶の中に解決の糸口を探した。




 ふと、図書室で読んだ夢に関する本を思い出した。


 その本の中には、様々な種類の夢が記述されていていたように思う。


 中でも、【予知夢、警告夢、魂の共鳴】という言葉が特に引っかかった。


 何かを予言する夢、何かを警告する夢、何かとの繋がりを示す夢。


 この夢は、何かを予言するための夢なのだろうか。


 この夢は、何かを警告するための夢なのだろうか。


 この夢は、誰かが何かを伝えるための夢なのだろうか。


 その何かとは、何か。


 俺はずっと、この夢は彼女が死ぬ未来を予言し、警告し、伝えるためのものだと思っていた。


 ご丁寧に時間を巻き戻してまで、彼女を救えと、彼女の運命を変えろと示しているのだと思っていた。


 けれど、現実はそうではなくて、予言も、警告も、共鳴も、何の役にも立たずに、何の役にも立たせることができずに終わりを、惨い結末を迎えてしまったわけで。


 この夢は、この世界は、俺に彼女を救わせるために存在しているものではなかったらしい。


 それじゃあ、これは一体何なんだ。


 また分からなくなって、一から記憶を辿ってみる。




 夏目隼人。


 九条凪。


 演技。


 家族。


 約束。


 死。

 

 時間遡行。


 夢。


 ぼやけた世界。


 アイツ。




 そうして記憶を辿っていくと、ある、一つの文章が脳裏を過った。


 また、図書室で読んだ夢の本の一部だ。




 “夢の中では、痛みを感じない”




 そんな常識的な言葉が、妙に気になった。


 漫画でも、映画でも、ゲームでも、ドラマでも、小説でも、本物の夢でも、夢の中にいる時に痛みを感じないのは当たり前で、“ほっぺをつねってみても痛くも痒くもない”というのが夢の中での通則だ。


 そんな当たり前のルールがどうして気になったんだろうと不思議に思う。


 身体的な痛みは、現実の世界でしか感じることのできない感覚だ。

 

 逆に、現実の世界でヘマをしてしまうと痛みが、ヒリヒリとした、差し込むような感覚が伴ってしまう。


 痛みを感じないのはアドレナリンと呼ばれるホルモンが大量分泌された時、すなわち興奮して我を忘れてしまった時ぐらいだろう。


 二度目の夏の初め、彼女に突飛ばされて手首を捻った際も痛みを感じなかった。


 おそらく、彼女に再び会えて驚いていたからだろう。


 人間、無我夢中になるとたいていのことは気にならなくなる。


 だから、痛みも感じなかった。


 そんな状態、何もかもがどうでもよくなるだなんてことは滅多にないけれど、それでも、あの時は痛いだなんてちっとも思わなくて……




 ……いや、本当にそうだろうか。


 本当に、それだけだろうか。


 違う。


 ここ最近、そんな現象が、痛みを感じないような場面が多々あった。


 しかも、精神的に落ち着いているような時にもだ。


 普段だったら絶対に痛いと思うような衝撃を受けても、何も感じなかった。


 おかしいなとは思っていたけれど、スルーしていた。


 あれは何だったのだろうか。


 もし、あれがこの夢と、この何もない世界の発生と関係があるとするのなら、何を意味する。


 遡って、考えてみる。


 俺が、日常生活の中で痛みという感覚を失ったのはいつからだ。




 ……そうだ、あれは一度目の夏、屋上で彼女と初めて顔を合わせ、逃亡しようと走り、足を絡ませて転倒した時だ。


 あの時も、その後も、不思議と痛みを感じなかった。


 その事実は何を意味する。


 “夢の中では、痛みを感じない”というルールにどう関係する。


 シンプルに思考すれば、答えは一つだろう。


 つまり……つまりはなんだ。


 はじめから、俺は……





















 俺は、夢を見ていたのか?


 彼女と出会った時から、夢を見ていたのか?













 ……いや、違う、あり得ない、意味が分からない。


 そもそも、これが、俺と彼女が過ごした現実が夢であるという可能性は一度否定したはずだ。


 夢にしてはリアル過ぎるし、彼女と出会ってすらいないのに彼女の夢を見るはずがない。


 そう、結論づけたはずだった。


 しかし、これが、俺と彼女が過ごした二度の夏が全て夢であったというのなら、全ての異常な現象にも説明がついた。


 夢の中なら何でもありだ。


 時間が巻き戻っても、死んだはずの彼女が再び目の前に現れたとしても不思議じゃない。


 


 じゃあ仮に、今までの全てが夢だというのなら、この夢は何を意味するのだろうか。


 何を予言しているのだろうか。


 何を警告したいのだろうか。


 何を伝えたいのだろうか。


 彼女の夢、すなわち演技を続けたいという気持ちを叶えろと伝えたいのか?


 違う。


 そもそもが、彼女と彼女の母親の勘違いが問題の原因であるわけで、その解決に俺の存在が、同じことを二度繰り返す必要性が感じられない。


 なら、彼女を死の未来から救えと伝えたいのだろうか。


 それも違う。


 悩んで、もがいて、足掻いて、そうしてまでも結局、悲惨な結末を迎えてしまった。


 じゃあ、何だ。


 仮に、今までの全てが夢だというのなら。


 俺は、何のためにこの夢を見ている。


 俺は、何のためにこの世界にいる。


 彼女が関わっているのは明確だ。


 そして、彼女を死の淵から救いたいというのが俺自身の願いだ。




 そのために、どうすればいい。




 彼女が死んでしまった原因は何だ。


 彼女の未来が消えてしまったのはなぜだ。


 彼女を殺したの誰……














 …………まさか。














 二度目の夏の初めには知らなかった、誰が彼女を殺したのかという真実が、この難解なパズルを解く最後のピースになった。


 ある、一つの可能性に気がついた。


 けれど、それは、認めたくない、受け入れたくはない答えだった。


 それを否定してほしくて、見つけた答えを違うと、間違っていると言ってほしくてアイツを見た。


 ゆらゆらと、陽炎のように揺れる彼女の影。


 触れようとして、手を伸ばす。


 けれど、俺がアイツに、彼女に、触れることはできなかった。


 黒い影には、実態がない。


 空気を掴んだ掌を見つめた後、顔を上げてアイツを見る。


 黒い髪がなびくアイツの後姿は、心なしか、また、泣いているように見えた。




 ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×




 目を覚ますと、いや、正確に言えばぼやけた世界から自分の世界に戻ると、俺は硬いコンクリートの上で仰向けになっていた。


 照りつける太陽の光が眩しくて、右手で顔を隠す。


 白い半袖シャツ、夏用の制服のズボン、ポケットに入った黒のマッキーペン。


 むくりと、倦怠感のある体に鞭を打ち、起き上がる。


 右手の時計を確認した。


 七月四日の正午過ぎを示している。


 無機質な表情で腕時計を眺めていると、ぎぃぃと、古びた屋上のドアが開く音が聞こえてきた。


 その、数十秒後。


 聞きなれた、少し高いくらいの演技がかった声が耳を刺激する。






「好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」







 そうして、俺の三度目の夏が始まった。

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