第36話 change the destiny①

【七月四日 水曜日】


 それから、俺は午後の授業をサボって屋上に居座った。


 本来なら何もなかったように努め、普段通りに授業を受けるべきだったのだろう。


 けれど、俺にはそれができなかったのだ。


 何故か。


 理由は二つある。


 一つに、先ほどの凪先輩や西野の反応を見るに、時間が巻き戻っているという認識を持っている人間が、この世界で俺一人だけなのではないかという点が挙げられる。

 

 いや、世界中をくまなく探し回れば、もしかしたらどこかには、万に一つの可能性で、この不思議な現象を俺と共に体験している人間が存在しているのかもしれない。


 100%存在しないとは言い切れないだろう、あり得ないなんてあり得ない。

 

 けれど、そうなってしまうと、あり得ないがあり得ないのを認めてしまうと、それは同時に、100%存在しないとも言い切れないのを認めてしまうことと同義になってしまう。


 存在しないとは断言できないが、存在するとも断言できない。


 矛盾。

 

 どちらか片方に絞ってもらえば、どれだけ気持ちが楽になるのかとこの世界を呪ってみる。


 存在すると信じて、目に付いた人物に片っ端から助けを求めるか。


 存在しないと信じて、自らの力で道を切り開くか。


 悩んだ末、俺は後者を選んだ。


 この差し迫った状況では、身近な人物がそうではない、認識していないというのはそれすなわち世界がそうでないのに等しい。


 俺が頼れる、信頼できる人物が知らないのなら、俺自身もそれに合わせるしかない。


 確証の持てない事実を追求するほど、時間の余裕はなかったのだ。


 あるかも分からない答え探しに時間を割くくらいなら、その時間を、彼女を救うための行動や思考に使ったほうが何倍も、何十倍も合理的だろう。


 だから、俺は教室に帰るのを渋った。


 西野に時間遡行の認識がないのなら、たとえ西野に相談したところで信じてもらえるはずはない。


 先ほど取ったおかしな行動について、根掘り葉掘り質問されるのも面倒だ。


 話がこじれるくらいなら、話さないほうがマシである。


 ほとぼりが冷めるまでは、西野とは距離を取ったほうがいいのかもしれない。




 腕時計の長針が八、短針が四を指し、そろそろホームルームが終わり、放課後が訪れるのを俺に伝えてくれる。 


 太陽が傾き始め、屋上が徐々に橙色に染め上げられていく。


 屋上の扉からは見えない位置にあるフェンスの裏に腰掛け、じっと、その扉が開くの待つ。




 理由の二つ目だ。


 何も、西野と話すのが嫌で授業をサボり、屋上で神経を研ぎ澄ましていたわけではない。


 西野との会話を避たいだなんて、はっきり言っておまけに過ぎない。


 この場所に居座っていたのは、もう一つの、ある大きな目的のためだった。


 彼女、すなわち凪先輩と、もう一度コンタクトを取りたい。


 時間が巻き戻る前、一度目の夏、彼女と初めて言葉を交わしたその日の放課後、俺はこの場所で彼女に遭遇した。


 スマホを回収しに来たところを、彼女に待ち伏せされていたのだ。


 あの時は、驚きと絶望で本当に死ぬかと思った……


 いや、そんなこと、今はどうでもいい。


 重要なのは、彼女がこの屋上に姿を現すかもしれないというその事実だ。


 先ほどの昼休み、俺は一度目の夏と同じく、寸分たがわない場所にスマホを落としていたのを確認した。


 それから推測される、一つの仮説。


 もしかしたら、この時間の巻き戻し、繰り返しの中で起きる全ての出来事は、限りなく一度目と同じ、もしくはそれに近しいものになるのではないだろうか。


 おかしな話ではないだろう。


 同じ場所、同じ時間、同じ状況、同じ人。


 それらの全てが重なり合って、まったく違う出来事が起こるほうがおかしな話だ。


 一度目の夏と同じ出来事が繰り返される可能性は限りなく高い。


 それが事実なら、彼女はもうまもなくこの場所に現れるはずだ。


 誰からの邪魔も入らないこの場所で、二人きりで話ができるのは都合がいい。


 信頼を得るのに必要なのは、言葉と時間だ。


 言葉を通じて相手を理解し、自分を理解してもらう。


 それを幾度となく繰り返し、信頼というものは深く、濃いものになっていく。


 そう、一つ年上の女の子に教えてもらった。


 女子を待ち伏せするのははっきり言って気持ちが悪いし、彼女を怖がらせてしまいそうで気分は乗らなかったけれど、手段を選んではいられなかった。


 それに、一度目の夏、彼女も俺を待ち伏せていたのだ。


 これに関してはお互い様で許してもらおう。




 先を見通す。


 それができるのは強い。


 問題をあらかじめ知っていれば、それに対して対策を立てられる。


 すなわち、それは真理に限りなく近づけるということ。


 彼女の思考、彼女の行動を知っているのは、彼女を救う上で絶大な武器になる。


 彼女が何を軽蔑し、何を好むかを知っているのは、信頼を築く上で有益な知恵になる。


 まさに、強くてニューゲーム。


 まぁ、あれほどの絶望を味わされたのだから、これくらいのハンデは許されてもいいだろう。


 


 彼女が現れたら、まずは何て声をかければよいのだろうか。


 そうだ、まずはさっき、いきなり掴みかかってしまった非礼を詫びよう。


 今の彼女にとって、俺は未知の存在。


 名前も顔も知らない赤の他人に突然絡まれたのだから、相当怖い思いをさせてしまったに違いない。


 第一印象は最悪だ。


 これから、どうにか巻き返していかなければならない。




 人は先入観で他者を見るという。


 初見の印象を他者にラベル付けし、そのラベルに記入された印象通りに他者との人間関係を構築していくのだ。


 なので、第一印象が悪いと、おのずとその後の関係もいい方向には進みにくくなってしまう。


 信頼を築くのには時間がかかるのに、信頼が壊れるのは一瞬であるのと同じように、初めから信頼を失っていては、そこから好かれるのには相当な難易度が付加されるのだろう。


 ましてや、出会ったばかりのいたいけな女子高生にいきなり抱き着くような素振りを見せ、「俺だよ? 覚えてない?」などと今時のナンパ師ですら使わない常套句を吐き出そうものなら、その者は一瞬で「変態」のレッテルを貼られ、一生、いや死ぬまで信頼を勝ち取るのが不可能になったとしてもおかしなことではないだろう。




 ………………あれ? これ、俺詰んでね?


 信頼、取り戻すとか無理じゃね?




 盲点だった。


 強くてニューゲームどころか、これでは電源を入れた瞬間にゲームオーバーだ。


 RPGの冒険が、始まりの村ではなく魔王城の地下から始まるほどの鬼畜な難易度。


 木の枝と鍋の蓋を持ったレベル1のポンコツが、魔界ではエリートに分類されるであろう、休日は近隣の村を焼き払い、子供を生きたまま食らうのを趣味にし、隣に回復魔法を扱う魔物を配置するような極めて邪悪な魔物達に挑まされるのだ。


 キッズだったらギャン泣き必須。


 親御さんもびっくりである。




 まずい、どうしよう。


 このままでは、彼女が現れたところでまた新たな確執を生み出してしまうだけだ。


 何か、彼女の俺に対する悪いイメージを取り壊す策を講じなければ。


 そう、脳みその詰まってない頭で必死に考えた。




 けれど、その必死の抵抗と思考は結局は無駄になってしまう。


 なぜなら、その日、その放課後、その場所に訪れるはずの彼女は、二度目の夏には、姿どころか気配すらも、屋上には匂わせなかったのだから。




 ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×  




【七月五日 木曜日】




「はぁ……」


 


 不安と不満を含んだ溜息を吐きながら、下駄箱で靴を履き替える。


 昨日の放課後、結局彼女は屋上に現れず、俺は貴重な一ヶ月間の猶予の一日分を無駄に消費してしまったのだ。


 おまけに、彼女を死の未来から救う上でかなり強力なアドバンテージになるはずだった“これから起こる出来事は、全て一度目の夏の焼き増し”という仮説も完膚なきまでに潰されてしまい、完全に意気消沈。


 自分の中に不安と不満、そして焦燥感が芽生え始めているのをひしひしと感じていた。


 どうしてだ、かなり筋が通った仮説を立てたつもりなのに。


 もしかしたら、そう簡単に、一筋縄では解決できないように、見えないところで誰かがそう仕向けたのだろうか。


 今日も世界は理不尽で残酷である。




 ……実際問題、やっぱり、いきなり掴みかかったのがいけなかったのだろうか。


 昨日の昼、突然彼女が目の前に現れ、驚き、咄嗟に彼女に掴みかかってしまった。


 やはり、それがいけなかったのだろうか。


 あの行動が彼女に警戒心を抱かせ、本来起こるはずだった出来事、すなわち、昨日の放課後に彼女が屋上に現れるという事実を消滅させてしまったのだろうか。


 ……あ、あり得る。


 というか、まともな思考回路を持った女性であれば普通はそう考えるはずだ。


 ましてや、彼女は年頃の女の子。


 おまけに賢い。


 どこぞのパワハラ脱法大学とは違い、あらゆる物事に細心の注意を払い、危機管理を徹底しているに違いない。


 そんな彼女が、突然タックルをしてくるような男が待ち伏せている屋上に現れるはずもないだろう。


 どうやら、この二度目の世界では必ずしも一度目と同じ出来事が繰り返されるというわけではないらしい。


 俺の行動次第で、これから起こるはずの出来事がいかようにも変化してしまうのだ。


 同じなのは、屋上であのワンシーンを見てしまったことだけ。


 翌々考えてみれば、当たり前である。


 一度目の七月四日の昼休み、俺は彼女の演技練習を意図せず目撃してしまい、口封じのために彼女は屋上で俺を待ち伏せしていた。


 けれど、二度目の七月四日の昼休みには、俺はそもそも彼女の演技練習を目撃していない。


 いや、厳密に言えば目撃したと言えるのだろうけど、彼女はそれを認識していない。


 その事実を上回る衝撃を、彼女が当分屋上には近寄りたくないと思ってしまう理由を、俺が作ってしまったのだ。


 行動は、原因があって初めて発生するものだ。


 原因が消えてしまったのなら、おのずとそれに続く行動がなくなってしまうのは必然。


 あのワンシーンを目撃したその後のアクションは、一度目と二度目では全くの別物。

 

 それに続くシナリオも、変化するのは当然なのだろう。




 はぁ、と二度目の溜息を吐く。


 頑張れば頑張るほど、間違いないと、自分は正しいと自惚れるほど、失敗した時の精神的ダメージは大きい。


 これで、俺が持つはずの“未来を知っている”というアドバンテージは完全に消滅した。


 おまけに、昨日の帰宅後、家族にそれとなく「最近何か変わった事なかった?」と確認したところ、父親母親妹全員が首を傾げる始末。


 事態は最悪。


 これから、俺は何も知らず、誰も頼れず、彼女が死ぬかもしれないという恐怖に怯えながら、一人で、この最悪な状況と戦っていかなければならないのだ。


 何とも言えない気分だった。


 その事実は、その真実は、俺にとっては良くも悪くも捉えることができたからだ。


 良い意味でその事実を受け止めるのなら、俺の行動次第で周囲が、彼女の未来が変わるかもしれないという事実は、ある意味では希望であり、心の拠り所に成り得た。


 それはつまり、俺の尽力次第では未来をいい方向に導くことができるという確約と同義。


 “未来は変わる”


 その確約だけが、今の状況では大きな心の支えとなった。


 逆に、悪い意味で受け取るのなら、その事実は俺にとってはあまりにも都合の悪い制約だった。


 この二週目の世界で起きる全ての事象が、俺の経験した一度目の世界とまったく同じだったのなら、俺は全ての答えを知ったまま、一度目と同じ、いや一度目よりもうまく立ち回って彼女を救えたはずなのだ。


 極論、全てをうまくこなせなくとも、あの日、七月三十一日の終業式の日に、彼女が死ぬ未来さえ回避してしまえば俺の本懐は達成できた。


 そうであってくれればどれだけ安心で楽だったか。


 けれど、この二週目の世界はそうじゃない。


 未来は変えられる。


 しかし、彼女を救えるかどうかは分からない。


 それが、この世界が俺に叩きつけた条件だった。




 強くてニューゲームだなんてとんでもない。


 手元に残っているのは経験だけ。


 知恵も、装備も、仲間も奪われた状態で、これから得体の知れない暗闇の中を進んで行かなければならない。


 知らないのは、怖い。


 知らないが故に、迷いが生まれる。

 

 知らないが故に、葛藤が生まれる。




 それに、これが最後なのかもしれないという不安もあった。


 もしかしたら、彼女を死の淵から救い出すための機会は、この時間遡行は、一回きりなのかもしれない。


 次があるかは分からないのだ。


 これがラストチャンスだったとしても不思議ではない。


 だから、もし、俺が何か重大なミスを犯して、選択を誤ってしまったとしたら…………




 考えただけで足が竦み、この場から動けなくなってしまいそうだった。


 それほどに、知らいないというのは不安で恐ろしい。


 二度目のチャンスがあるかも分からずに、失敗したらそれっきり、また最悪のバットエンドを迎えるかもしれないこの状況下で、何も知らず、ただ手探りに行動を選択していくのは精神的にあまりにも辛い。


 今すぐ、どこかに逃げ出してしまいたいくらいだった。




 けれど、それは、それだけできない。


 逃げてしまえば、どうなる。


 逃げてしまえば、彼女はどんな未来は迎えることになる。


 想像したくもない。


 だから、どんなに怖くても、どんなに不安でも、逃げるのだけは許されなかった。


 “大事な事からは逃げない”


 俺にとって大事なことは、彼女の存在する未来だ。


 それを望むなら、それに手を伸ばせるのなら、どんな苦労も厭わない。




 溜息とは違う、自らを鼓舞するような息を腹から吐き出す。


 そうだ、立ち止まるな。


 彼女が現れないというのなら、自ら彼女のもとに現れてしまえばいい。


 何も知らないのなら、知ろうとすればいい。


 彼女と言葉を交わさなければ、スタートラインに立つことすらできない。


 まずは、休み時間や放課後を使って様子を見に行こう。


 そう意気込んで、自分の教室を目指した。




 ×    ×    ×    ×    ×    ×    ×    × 


 


「お、おい……大丈夫か?」




 昼休み、自分の席で項垂れている俺に西野が声を掛けてくる。




「大丈夫だ……気にしないでくれ……」




 視線は合わせず、掌だけをひらひらと揺らして西野に返答する。


 すると、西野は何かを察してくれたのか、「お、おう……何かあったら相談しろよ……」と若干引き気味で言い残し、俺の側から離れていった。




 今朝、ホームルームが始まる前に、西野が俺に声を掛けてきた。


 突如妄言を吐き散らし、そのまま姿をくらました幼馴染を心配してくれたのだろう。


「昨日のあれ、何だったんだ?」とか、「何か悩みでもあんのか?」とか、不安を孕んだような目で、俺の身を案じてくれた。


 それが、この世界に一人取り残されてしまったような気分に浸っていた俺にはすごく心強くて、ありがたくて。


 時空を超えても友は友なのだと嬉しくなってしまい、教室の入り口で泣きそうになりながら「いや……何でもない……何でもないけど、俺、お前が好きだ」と西野の肩を掴んだのだ。


 それからである。




 この、微妙な空気が流れ始めたのは。




 俺がそう言うと、西野は顔を引きつらせ、クラスにいたほとんどの生徒がこちらに振り返った。


 ザワザワと喧騒が教室に響き渡り、いつもは物静かな印象の女子のグループからは「アッー!」という叫び声が聞こえてくる始末。


 数秒が立った後、俺もその違和感に気が付いた。


 いや違う、断じてそう言った意味ではないと西野が必死で弁明も行うも、クラスの空気は重たいまま。


 その空気は昼休みまで引きずられ、今もなお、西野と俺との間で気まずい感じが続いているのだ。


 ホント、もう勘弁してくれ。


 これ以上、俺を追い詰めないでくれ。


 そもそも今の時代、そういった関係にはもっと寛容であるべきではないのか?


 色んな団体から苦情が来るぞ、マジで。

 

 人がどんな風に生きようが、その人の自由じゃないか。


 ホント、日本人って心が狭い……いや、俺がそうだってわけじゃないからね!




 机に額を押し付けて、誰にも聞こえないように小さく唸り声をあげた。


 どうして俺がこんなにも落ち込み、悩んでいるのか。


 先に言っておくが、決して西野やクラスを取り巻く気まずい空気に悩んでいるからではない。


 そんなもん、明日になればみんな忘れてしまうだろう。


 人の噂も七十五日。


 いつかは忘れ去られるのだ、そんな勘違いに気を取られるほど、俺は暇ではなかっ……あれ、でも七十五日って結構長いな……




 い、いや、本当にそんなことはどうでもいいのだ。


 今はそう、彼女、凪先輩のことである。


 彼女、いない。


 どこにも、いない。


 校舎のどこを探しても、彼女の姿が見当たらないのである。




 彼女と会って言葉を交わさなければ何も始まらないと意気込んだ俺は、三度あった午前の休み時間と昼休みを使って、彼女のクラスの様子を見に行った。


 “もはやストーカーの領域では?”という自己の内なる声に必死に耐え、三年生の教室を覗いた。


 しかし、どの時間にもそこに彼女の姿はなく、彼女が使っているはずの机とイスだけが寂しくそこに置かれていた。


 この昼休みに関しては、自分の授業が終わるのと同時に小走りで彼女の教室に向かったくらいだ。


 自分の醜悪さに打ちひしがれながら、彼女がいるはずの教室に向かって走った。


 けれど、いない。


 それでも、いない。


 何故か、いない。


 屋上、購買、空き教室。


 他のどんな場所を探してみても、彼女を見つけられなかった。


 彼女はマジシャンか? それとも超能力者か?


 そう思ってしまうほどに、この校舎のどこを探してみても、彼女の姿は見当たらなかったのだ。


 そうして心を打ちのめされ、あきらめて教室に戻ってきた俺は、こうして自分の机の上で参っていたのだ。




 まずい……想像以上にまずいぞ……


 このままでは、今日も何のアクションも起こせないまま、また貴重な一日を消費してしまうではないか。


 もしかしたら、彼女は今日、学校を休んでいるのだろうか。


 いや、でも、三年生の教室の様子を見に行った時、彼女の机の脇には、彼女の愛用していたカバンがぶら下がっていた。


 荷物があるのなら、この学校のどこかにはいるはずだろう。


 しかし、校舎の中をくまなく満遍なく探したはずなのに、彼女はどこにも見当たらない。


 つまり、これはどうゆうことなのだろうか。


 彼女は、一体どこにいるんだ?




 一人でもくもくと自問自答を繰り返していると、それに並行して、昼休みも徐々に終わりへと近づいていく。


 くいっと顔を上げて教室の壁時計を見ると、昼休みの時間は残り数分。


 “うまくタイミングが合えば、授業を受けに教室に戻ってきた彼女と鉢合わせになるのでは?”


 そんな考えが頭の中によぎり、俺はのっそりと自分の席から立ちあがり、また、彼女のクラスへと足を向けた。




 正直なところ、期待はしていなかった。


 どうせ会えないで終わるのだろうと、あきらめて投げやりになっていた。


 でも、それでも、可能性が少しでもあるのならと、半ば義務的になりながら階段を下る。



 

 彼女のクラスの前に到着し、中の様子を覗き見る。


 ……彼女は、いない。


 やっぱり無駄足になったかと、いじけて自分の教室に戻ろうとしたその瞬間だった。


 振り返って見据えた廊下の先に、見覚えのある生徒の姿。


 少し背の高いきりっとした顔立ちの女性と、のほほんとした小柄な女の子。


 たしか、以前彼女が理紗と葉月と呼んでいた人物だ。



 廊下でじゃれ合いながら歩く二人。


 どちらが理紗でどちらが葉月なのかは分からないけれど、背の高い方が、背の低い方の頭をぐりぐりとしながら歩いている。


 そんな二人の数歩後方。


 そこには、俺が長らく待ちわび、長らく探し、長らく求めた人物がいた。


 彼女だ。

 

 凪先輩である。


 心臓が、ドクンと跳ね上がる。


 教室にいなかった時点でほとんどあきらめていたので、その分余計に驚いてしまった。




 ど、どうしよう……何て話しかけよう……




 そんな思春期の少女のような甘酸っぱい言葉が胸の内を駆け巡って行く。


 俺は彼女を知っている。


 一度目の夏、散々話し尽くしているのだ、慣れないはずがない。


 だから、顔を合わせれば、声を掛けるだなんて行為は容易いとばかり思っていた。

 

 けれど、その認識は間違いだった。


 俺は彼女を知っているけど、彼女は俺を知らないのだ。


 軽快な会話や気安い関係は、両者に信頼があって初めて生まれる。


 現在、俺達二人の間にはそれがない。


 ましてや、昨日の昼、俺は彼女に拒絶されている。


 もう一度、彼女に拒絶されたらどうしよう。


 彼女を目の前にして、初めてその不安定な感情を知った。


 失う恐怖に、疑われる恐怖に、体が固まってしまいそうだった。


 彼女が、段々とこちらに近づいてくる。


 彼女はまだ、教室の前で立ち尽くす俺の存在に気がついていないようで、やや下を向きながらスマートフォンの画面を確認している。


 とにかく、何か、何でもいいから話しかけなければ。


 俺には時間の余裕がない。


 その上で、これから彼女と信頼関係を築き上げ、未来を変えなければならない。


 だから、こんな初歩的な所で躓いているわけにはいかないのだ。


 そんな思いが拒絶される恐怖に打ち勝って、彼女のいる方向へと足を動かさせた。




「あ……」




 あの、と声を掛けようとした瞬間。


 不意に、彼女がスマートフォンの画面から目を離し、顔を上げる。


 ぶつかる視線。


 黒目に映るお互いの姿。


 一瞬、俺と彼女の間の時間が止まったように思えた。


 しかし、それは本当に数秒の感覚であって、彼女の瞳には、徐々に、徐々に、濁った暗い感情が彩られ、完全に濁り切ると、彼女はプイっと顔を反らして目線を下に向けた。


 動かない二人。


 俺は直立不動で、彼女は右手の掌を左腕に添えて。


 そのまま、重く、居心地の悪い空気が辺りに充満していく。


 違和感に気がついたのか、前を歩いていたはずの二人が彼女に近寄り、「凪、どうかしたの?」と問う。


 それに彼女は、「ううん、何でもない」と答えた。


 二人に手を引かれ、教室に戻っていく彼女。


 そんな彼女は、俺の横を通り過ぎる時、決してこちらを見ようとはしなかった。


 


 何もできないまま、一人、その場に取り残されて立ち尽くす。


 呆然と、その意味を考えていた。


 知っていたんだ、俺は。


 彼女の目に映る黒く濁った感情の名前を。


 二人の間に流れた重苦しい空気の名前を。


 それは、「恐怖」であり「拒絶」だ。


 信頼を築きたいだなんて夢のまた夢。


 俺と彼女の間に残ったものは疑心で、彼女が俺に抱いているのは不信だ。


“避けられている”


 ただ、それだけ。


 たったそれだけの、残酷な事実。


 けれど、それを目の当たりにして、受け入れてしまった時。


 胸の奥がひどく傷み、心を打ち砕かれるようなイメージが頭の中を駆け巡った。

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