後編
第31話 嘘①
彼女がこの世を去ってから、一ヶ月の月日が経った。
身を刺すような日差しも、うだるような暑さも、ここ最近ではそれが嘘だったのかのように影を潜め、季節は移り行き、この街は秋を迎えようとしていた。
自室のクローゼットの中から制服のブレザーを取り出し、クリーニングのタグを外す。
久しぶりに目にしたそれが、じんわりと夏の終わりを実感させる。
九月一日。
今日は、俺が通っている高校の新学期が始まる日。
学生にとって、一年で最も憂鬱な日。
つまり、夏休みが終わりを迎える日だ。
長いようで短かった休暇は終了し、冬が来るまでの間、また大人達に自由を奪われる。
絶望、陰鬱、喪失。
今の気持ちを言葉で言い表すならこうだろう。
いくつになっても、幾度となく経験しても、未だにこの感覚に慣れることはない。
できることなら、どこかに逃げ出してしまいたいくらいである。
しかし、嘆いたところで何かが変わるわけでもないので、早々にあきらめて、俺は登校の準備を進めた。
姿見の前でネクタイを結び、ブレザーを羽織り、身だしなみを整える。
教科書と課題類を通学カバンに詰め、スマートフォンをズボンのポケットに突っ込む。
テレビと充電器のプラグをコンセントから引き抜き、窓にカギを掛ける。
よし、完璧。
そう心の中で呟きながら、勢いよく扉を閉めて自室を後にした。
階段を下りながら、腕時計を確認する。
かなり、時間に余裕があった。
例年なら、登校時間ギリギリまで課題に追われ、今頃泣きそうになっていたはず。
今年はそうならなかったのを、数日、数週間前の自分に感謝したいくらいだった。
階段を下り切り、玄関に向かう。
靴を履くために上がり框に腰を下ろし、ついでに忘れ物がないか、カバンの中身を再度確認する。
そうして全ての準備を終え、よし、出発しようと玄関の扉に手を掛けた時だった。
リビングのドアが開き、つれない表情をした母さんが顔を出した。
「隼人、ご飯は?」
「あー……時間ないからいいや。途中で何か買って食べるよ」
俺がそう返すと、母さんはさらに顔をしかめ、心配するような声音で言った。
「隼人」
「何?」
「……学校、無理して行かなくてもいいのよ?」
母さんがそう言った瞬間、ストン、とその場の空気が重くなり、室内に漂う空気がみるみる暗くなったように感じた。
……あぁ、また面倒な事になる。
そう直感で感じ取った俺は、色々な面倒事を誤魔化すために、それらしい言い訳を考えて、慌ててその場を取り繕った。
「いや、別に無理なんかしてないよ」
「本当? でも……あなた……」
「うん。それに、西野と一緒に行く約束もしてるし」
「そう……それなら……いいんだけど……」
「大丈夫だから、心配しないで。じゃあそろそろ行くから、いってきます」
そうやって、振り払うように会話を終了させ、母さんの弱々しい「いってらっしゃい」の言葉を背中に受けながら、逃げるように自宅を飛び出した。
ちなみに、「西野と約束がある」というのは適当にでっち上げた嘘だ。
どうして、そんな嘘をついたのか。
理由は簡単。
一刻も早く、あの空間と雰囲気から抜け出したかったからだ。
誰かに気を遣われると、かえって気が滅入る。
共に過ごす時間が多い家族にそうされるのならなおさらだ。
人に“哀れだ”とという感情を向けられるのが、俺はあまり得意ではなかった。
静謐とした朝の、冷たく、透明感のある空気の中を、緩やかな足取りで歩く。
俺以外には、誰もいない。
この街に、この国に、この世界に、俺以外の人間など誰も存在しない。
そう思わせるような魔力が、早朝の通学路には充満していた。
歩きながら、やっぱり自由気ままな単独行動は素晴らしいなと背筋を伸ばした。
一か月ぶりに、この道を通った。
いつもと同じはずなのに、何か、違った感覚。
少し前までは登るだけで大量の汗が流れ落ちたのに、いつの間にか悠々と登り切れるようになった住宅街の坂道。
少し前までは毎朝犬小屋の前でぐったりとしていたはずなのに、いつの間にか生気を取り戻し、通行人を威嚇するようになったどこかの家の飼い犬。
まるで、タイムスリップしたような気分だった。
そんな気分になってしまうほどに、この夏は長く、この休暇、この一ヶ月は長かったのだろうか。
不思議に思って、自分がこの道を最後に通ったのはいつの日だったのかを思い返してみる。
…………あぁ、あの日か。
不意に、あの日を、あの出来事を思い出してしまった。
七月の、終業式の日。
あの日を境に、全てが変わってしまった。
そう思うと、自分の目に映っていた煌びやかな季節の変化達が、ガラリと、全てが虚しいものに変わってしまったように思えた。
結局、俺は彼女の葬儀には出席しなかった。
どうしてそうしたのかはうまく説明できないけれど、“行く気になれなかった”というのが一番正しい解釈になるのだろう。
そう思ってしまったことを、その感情を自分の中に意識してしまった時、自分は何て薄情で臆病な人間なんだと虚しくなったくらいだ。
彼女の葬儀が営まれた後、俺は何日もの間、自分の部屋に閉じこもった。
体に壁を、心に殻を作って、自分を内なる世界の中へと塞ぎこんだ。
虚無感に全身を蝕まれながら、原因不明の吐き気に襲われ続けた。
食事も喉が通らず、じわりじわりと体が痩せ細っていく中で、ただ、ずうっと天井の隅を見つめていた。
家族には迷惑を掛けたと思う。
母さんは、俺と彼女の関係を後に西野から聞いて知り、軽率に彼女が亡くなった事実を俺に伝えたことを相当に悔やんだ。
母さんに非の打ち所なんて一つもなかったはずなのに、俺がこうなったのは私の責任だと自分を責め、悩み、そんな母さんと俺を、父さんと妹は心配した。
俺が脆くなければ、母さんがそんな風に思うことはなかったのだろう。
母さんがそうならなければ、父さんと妹に余計な心配を掛けることもなかったのだろう。
西野にも迷惑を掛けた。
夏休みの間、西野は何度も何度も俺の家を訪れ、俺と話そうと、俺を励まそうとしてくれた。
けれど、俺はそんな西野の厚意を蔑ろにした。
西野が何を言おうが、何を問いかけようが、俺は反応を示さなかった。
卑屈に、後ろ暗く、悲劇を演じるかのごとく、俺は周りの人間を拒絶した。
当人達からすれば、迷惑で面倒な話だ。
相当なストレスと負担を与えたことだろう。
面倒事を嫌った俺が、一番面倒な存在になるとは滑稽な話である。
全ては俺の責任だろう。
俺が脆弱で、幼稚でなければこんなことにはならなかった。
本当に申し訳ないと思っている。
けれど、彼らは、周りの人達は、そんな俺を見捨てないでいてくれた。
何度でも、何度でも、救いの手を差し伸べてくれた。
だから、俺は立ち直れたんだと思う。
長い、長い時間を掛けて、元の形に戻れたんだと思う。
家族とも自然に会話ができるようになった。
西野とも外へ出かけられるようになった。
虚無感も、体の不調も感じなくなった。
自分一人だけでは、そう簡単にはいかなかっただろう。
周りの人間が、家族や友人の献身的な支えがあったからこそ、今、こうして以前と変わらない生活を送れている。
家族に心配を掛けまいと、西野に迷惑を掛けまいと、その一心で、彼女への想いを、未練を断ち切ったのだ。
それに、人間の頭の中は想像よりもよっぽど上手に作られているようで。
絶対に冷めない、永遠に続くと信じていた想いだって、いつかは儚く、形を残さず消えるようになっていて。
そんな巧妙なシステムが、俺たちの頭の中では構築されているらしいのだ。
現に、俺の中にあった彼女への感情は、日を重ねるごとに薄く、小さくなっていた。
悲しみは、時の流れが癒してくれるとはよく言ったもので、俺の体に巣くっていたドス黒い色をした何かも、徐々に、徐々にとその姿を潜めてきている。
“悲しむ恋人も家族も、三日も立てば元通り”
どこかの誰かが、こんな言葉を歌っていたような気がした。
認めたくはないけれど、本当にその通りなのだと思う。
俺はもう、彼女の顔をほとんど思い出せなくなっていた。
どんな風に話すのか、どんな風に泣くのか、どんな風に笑うのか。
そんな大切なことまでも、頭の中から零れ落ちそうになっていた。
彼女に関する記憶を、空の上の、人間よりも上位の存在に抜き取られているのではないかと疑ってしまうほどに、彼女のことが分からなくなっていた。
俺は、薄情な人間なのだと思う。
冷徹で、無感情で、最低な人間なのだと思う。
そう、自分で深く理解した。
いや、本当は最初から分かっていたのかもしれない。
自分は面倒事が嫌いな、冷たい人間だというのを。
褒められたような人間ではないのだというのを。
それを知っていてなお、分不相応な行動をしてしまったから、このような結果が生まれてしまったのだろう。
今回の一件で、改めて思い知らされた。
“面倒事には関わってはいけない”
そうすれば、悲しみも、後悔も生まれない。
悩むことも、苦しむこともない。
そうするのが一番楽な生き方なのだと、骨の随まで刻み込まれた。
だからもう、彼女のことは気に掛けない。
彼女は俺にとってその程度の存在だったんだと、そう、自分の中で割り切ると決めた。
「隼人」
交差点を抜けて大通りを歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り返ると、見慣れた人物がこちらに向かって手を振っていた。
「おぉ、西野、久しぶり」
そう言って、俺は西野に近寄っていく。
結局、母さんについた“西野と一緒に登校する”という嘘は、図らずとも真実へと変貌を遂げてしまい、少しだけ、母さんへの罪悪感が薄まったような気がした。
西野と並んで、学校への道のりを歩く。
勢いで久しぶりとは言ったものの、一昨日、二人で駅の方に出かけたので、実際のところは三日ぶりの再会ということ、さらに、三日前に大方の話題を話し尽くたということ、それらを踏まえた上でも、相変わらず西野との会話は弾んだ。
そのコミュ力に、脱帽である。
新学期について、秋に開催される文化祭について、まだ三分の一も終わってない西野の課題について、くだらない話を、笑いながら交わした。
俺は、呆れたように笑った。
西野も、大きな声で笑っていた。
それは、傍から見ればとても平和的で、とても和やかな光景だったと思う。
けれど、俺は気づいていた。
会話の端々に、違和感を抱いていた。
長く、コイツとは付き合ってきた。
だから、微々たる異変すらも見逃さなかったのだ。
先ほどから、笑ったり、真面目になったりする表情の変化の合間に、西野は俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ、憂いを含んだような表情をしていた。
どうして、そんな顔をするのか。
それが気になって、俺は西野に尋ねた。
「何だよ、さっきから浮かない顔して。具合でも悪いのか?」
聞くと、西野はギクリと聞こえて来そうなほど肩を揺らし、動揺していた。
「いや……別に……」
「じゃあ、何?」
詰め寄ると、西野はさらに顔をしかめた。
無言のまま見つめていると、俺の醸し出す真剣な雰囲気に耐えられなくなったのか、渋々、西野はその重い口を開いた。
「いや……お前、大丈夫なのかなって……」
「何が?」
要領を得ない西野の返答に、質問を重ねる。
すると、西野は俺に気を遣ってか、いつもでは考えられないくらいの小さな声で答えた。
「……九条先輩のこと」
ほんの一瞬だけ、時間が止まったような気がした。
西野はあの日、あの出来事が起こった瞬間から、俺の前では彼女の話題を意図的に避け、彼女に関してあまり触れないようにしてくれていた。
夏休みの間、俺の隣で笑って、バカみたいな話をして、ただ元気づけようとしてくれていた。
それが、今になって突然彼女について触れてきたので、俺も驚いてしまったのだ。
それゆえの沈黙である。
おそらく、西野はずっと知りたかったのだろう。
俺が、本心ではどう思っているのかを。
どんな感情を自分の中に隠しているのかを。
全ての事情を把握しているのは西野だけだ。
それに、家族には言えないような本音も、同世代の、悩みを共有していたはずの友達になら言えることだってある。
夏目隼人の全てを理解し、受け止めてあげられるのは自分だけだと、西野は思ってくれていたのだろう。
けれど、それを自分から聞いて、相手を傷つけてしまっては元も子もない。
葛藤があって、その葛藤の下敷きには西野なりの俺に対する思いがあったはずだ。
言わなくとも分かっていた。
長い付き合いだから、顔を見ただけで、西野がそんな風に考えているのだろうと察していた。
心の底が、ぼうっと熱くなった。
西野には頭が上がらなかった。
それと同時に、これ以上心配も迷惑も掛けられないとも思った。
だから、俺は穏やかな表情を作って西野に言った。
「大丈夫。心配かけて悪かったな」
「……本当か? 無理してないか?」
「本当だよ。無理なんかしてないし、無理してたら学校になんか来てない」
「そうか……なら、いいんだけどさ……」
西野はイマイチ納得しないような顔でこちらを見た。
「大丈夫だ」と、そう言っているのに分かってもらえず、俺もムキになって、少しだけ強い口調で言葉を続けた。
「そもそも、たかが一月程度の付き合いの人間が気に病む時点でおかしかったんだよ。あの人には俺よりも大切な人が沢山いて、あの人の周りにも、俺以上にあの人を大切に思ってた人が沢山いて、今も、俺以上にあの人を想って悲しんでる。だから、最初っから俺に悲しむ資格なんてなかったんだよ」
理性で飼いならした言葉を、涼しい顔をして並べていく。
軽い足取りで西野の数歩先へと進み、背中を向け、その冷たい言葉を続けた。
「あの人にとって、俺はほとんど他人みたいなもんだろ。だから、悩む事自体がお門違いだ。それに、あの人はもういない。存在しない赤の他人を気にかけたって仕方ないだろう? そんな面倒な事、俺の性分には合わないよ」
「………………」
西野は、何も言わなかった。
もしかしたら今、西野は俺の背中の後ろで怒っているのかもしれない。
どうしてそんな薄情な言葉を口にできるのかと憤りを感じているかもしれない。
けれど、それが真実で、それが現実だった。
頭と、心の中から絞り出された言葉だった。
俺と彼女の関係なんて、所詮はその程度の物。
彼女にとっても、俺はその程度の者。
それ以上でも、それ以下でもない。
それが、俺が出した結論だった。
「だから、もう悩まないし、思い出すこともない。心配してくれなくたって大丈夫だ、ありがとな」
西野の方に振り返りながら、笑顔でそう言った。
もし、西野に失望されたとしても、それは仕方ないと思っていた。
だって、それが、俺が精一杯作り出した回答だったから。
そう口に出すしか、俺にはできなかったのだから。
それがたとえ間違いだったとしても、俺にはそう言うことしかできなかったのだから。
西野の顔を見た。
俺の予想とは裏腹に、西野はまったく怒ってなんていなかった。
けれど、その目には、俺が怒られるよりも、失望されるよりも苦手な想いの色が詰まっているような気がした。
哀れなものを見るような、まるで、孤独な暴君を蔑むような目で、ただ、俺を見つめていた。
「なぁ、隼人……お前……」
西野が何かを言いかけたその時、遠巻きに、俺達が通う高校の予鈴の音が聞こえてきた。
充分余裕を持って家を出てきたはずなのに、色々なことを思い、色々なことに目を向け過ぎたせいで、いつの間にか多くの時間を失ってしまっていたらしい。
新学期の初日から遅刻と言うのは、気分も悪いし縁起も悪い。
西野が何か言いかけていたのは分かっていたけれど、とりあえず、それは学校に着いた後、時間に余裕がある時に確認しようと決め、「おい、行こうぜ」と西野を急かした。
それに、西野はコクリとだけ頷いた。
急ぎ足で学校に到着し、下駄箱で靴を履き替える。
そのまま、自分のクラスがある二階へと向かうため、廊下を進んだ。
始業時間ギリギリに登校する者。
部活の朝練を終え、気怠そうに欠伸をしながら教室に入っていく者。
久しぶりの友人との再会に、目を輝かせながら談笑する者。
夏休み明けの学校には、一ヶ月前と何ら変りのない日常が広がっていた
そう、何も変わってなんかいない。
ここにいる人間のほとんどが、彼女と、彼女に降りかかった不幸について知っているのだろう。
あの日、彼女と繋がりのある多くの人が驚いただろう。
あの日、彼女と繋がりのある多くの人が悲しんだろう。
あの日、彼女と繋がりのある多くの人が悔やんだだろう。
けれど今、その人達の目の中に、彼女の姿は映っていない。
悲しみは、時間の流れと共に消滅する。
感情は、知らず知らずの内に風化していく。
今もまだ、彼女を想い続けている人達はいるのかもしれない。
けれど、その人達だって、一年後、十年後もそうあり続けるわけではないのだ。
徐々に、徐々に、彼女を忘れ、彼女がいない日常が当たり前になって、彼女は過去の存在へと、別の世界の人間へと成り果てていく。
なら、今忘れてしまおうが、後から忘れてしまおうが、どちらも同じことだろう。
だから、俺は考えるのを、悲しむのをやめた。
結局、人間は孤独な生き物なのかもしれない。
どう生きようが、何をしようが、いずれは忘れ去られてしまう。
誰の心の中にも住めなくなってしまう。
どうせそうなるのなら、誰かと、他人と関わって苦労するよりも、一人で生きていたほうが幾分も楽だろう。
また、昔の、彼女と出会う前の自分に戻ろうと、そう思った。
一人で、気ままで、何者にも干渉せず、何者にも干渉されない自分に戻ろうと、そう決めた。
それが一番楽で、一番傷つかない道なのだから。
その想いを心の中で確かめながら、教室へと続く道をトボトボと歩いた。
途中、あの場所へと続く階段の前を通りかかった。
そこは、その道は、以前の俺にとっては特別な場所だった。
けれど、今はもう違う。
数ある学校の施設の中の一つ。
俺にはもう必要のない、関係のない場所だった。
だから、俺はその階段の前を難なく通り過ぎれると思っていた。
何も感じない、何も思わない、だから、何の問題もないと、そう思っていた。
その、はずだった。
しかし、何故だろうか。
その場所を前にして、俺の足は一歩も動かなくなってしまった。
まるで、糸と針を使って両足を地面に縫い付けられてしまったように、俺はその場に留まっていた。
一体どうしてしまったんだろうと驚いた。
自分の意志で抗おうとしても、体が言うことを聞かなかった。
不思議な、人智を超越した何かが俺の体に作用しているかのように、その場から動けない。
そのまま立ち止まっていると、西野も俺の異変に気が付いたのか、歩みを止め、「どうした?」と言って近寄ってくる。
それに、「いや、何でも……」と答えると、西野はしばらくじぃっと俺の顔を覗いた後、何かを納得したような表情をし、溜息を吐きながら言った。
「行ってこいよ」
「いや、だから、別に……」
「いいから、行ってこい。それで、ちゃんとお別れしてこい。先生には俺がうまく言っといてやるから」
そう言うと、西野は俺に背を向けて歩き出した。
「おい、待っ……」
西野を引き留めようと、俺が声を上げた瞬間。
それを遮るように、西野はまた俺の方に振り返る。
「それとな、隼人」
少しの怒りと、少しの悲しみ。
両者が均等に含まれたような表情をしながら、西野はいつもよりほんの少しだけ強い口調で言った。
「嘘は、もうやめろ」
そうして、西野は俺を残して教室へと歩いて行った。
西野は俺に、“嘘をつくことをやめろ“と言った。
その言葉の意味を、俺は理解しあぐねていた。
いや、どちらかと言うと、理解したくなかったのかもしれない。
腹の中を見透かされたようだった。
全てを、覗き見られたようだった。
そんな落ち着かない気分のまま、俺はあの場所、すなわち屋上へと続く階段を、ただただ呆然と眺めていた。
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