砂漠の図書館

鼓ブリキ

* * *


 スキャールヴが消えた。

 スキャールヴは北方から来た旅人に貰った犬だった。旅人は妊娠した犬を連れていて、生まれたうちの一匹を宿代として置いていった。それがスキャールヴだ。

 とても大きな、賢い犬。彼はラクダを駆り立てるのが実に上手かった。旅人の話では、そういう目的のために作られた血統であるらしい。

 その日はスキャールヴを村の外で遊ばせてやる日だった。走り回らせる事が犬の体に良いと旅人が言っていたからだ。

 首に巻いていた縄を解くと、犬は見えない何かを目指すように一直線に駆け出し、短い悲鳴を上げて地面に飲み込まれた。

 おれはスキャールヴの足跡を辿った。丁度犬の足跡が途切れた所に穴が開いていて、さらさらと砂がそこに零れていく。

 穴を覗き込んだが、分かるのはそれが緩やかに下りながら途方もなく長く続いているという事くらいだった。何度か名前を呼んだが、哀れな犬の鳴き声は終ぞ聞こえなかった。

 こんな所に穴が開いているなんて、村の誰も言わなかった。

 その時、砂に覆われた硬くて平らな物が目に入った。手で砂を払うとそれは板状の石だった。歪みの全くない四角に切り出されたそれは一つだけではなかった。砂に埋もれながら無数の石が地面を覆い、異国の石畳という道の造りを連想させた。

 穴は砂に埋もれていたが、それらを全て掻き出せば大人の男でも入っていけそうだった。

 四角い石畳のうち、一つだけ紋様が彫り込んであった。

 渦を巻く紋様が。





 おれは引き返し、村の長老にこの事を話した。長老は村で最も賢いから、何か知っていると思ったからだ。

 だがそんな期待は外れた。長老は首を傾げるばかりだった。

「取り合えず、村の者達に外出する時は誰か他の大人が着いて行く事にしよう。お前の言う横穴は明日にでも人を集めて――」

「図書館に行けば、何か分かるかもしれない」ほとんど思いつきだったが、その時はそれが一番いい考えだと思えた。

「図書館だと」老人は胸まで伸びる白い髭を撫でた。「あの館にはラクダを繋いでおく設備がない。お前にはそこまで三日歩いてもらう事になる。それよりも明日、お前に件の穴へ案内をしてもらう方がいいと思うがね」

「あれは見ればすぐに分かります。案内するまでもない」おれは渦の紋様に憑りつかれたような心地だった。一刻も早くその正体を確かめたいという衝動があった。

 長老はおれを図書館に遣っていいものか悩んでいるようだった。髭の下の口を堅く結んで、じっとおれを見つめていた。やがて根負けしたようにゆっくりと長い息を吐き出した。「行くが良い。お前は昔から、梃子でも自分の考えを曲げない子供だった。無理に引き留めても勝手に出て行くだろう」






 おれは出掛ける用意の為に一旦家へ戻った。母と妹はいなかった。恐らく水場で洗濯でもしているのだろう。

 最低限の食物と、水を入れた革袋。

 おれは小走りで家を出た。日が暮れる前に少しでも目的地に近づいておきたかった。






 おれが住んでいた村から少し離れた所には廃村があった。切り出した石を積み上げて造った家がいくつも並んでいたが、そこに住む者はいない。理由は分からない。長老が今の土地に住む事を決めた時には既に誰もいなかったという。村の中央にはとても深い穴が掘ってあって、そこから水を汲む事も出来たが、生臭い臭いと塩辛い味でとても飲める代物ではなかった。

 おれはハイエナやその他の獣が根城にしていない小さな家を選ぶとそこを今夜の寝床にした。朽ちかけた廃材で入り口を塞いだ。夜に獣に襲われては本末転倒だ。





 図書館はとてつもなく大きな建物だった。

 入り口には、腐肉を食らう獣を模した覆面を被った番人が座っていた。指のない手袋も嵌めているので、そこに血の通った人間の皮膚を見る事は出来なかった。

 図書館の内部は天井まで届く程の高さの棚が幾つも並び、そのどれもが多様な本を詰め込まれていた。おれが目当ての本をすぐに見つけられたのは僥倖と言えた。渦の紋様が記された頁の下にその説明があった。

 海の女神ウールートゥクのシンボルだという。

 海。おれはそれを見たことがない。昔、母が辺りの砂漠を指して「ここの砂が全部水だったらと考えてみなさい。それが海というもの」と言ったのを知っているだけだ。何故、そんなものが村の近くにあったのか。

 おれが手に取った本の下に妙な書物があった。何か毛のない生き物の皮を表紙に用いたらしいそれは木乃伊のような匂いがした。何故かその本におれの求める答えがあるという確信があった。頁を少し捲るとウールートゥクについての記述があった。

『かの大水の女主人の権能はあらゆる地に及び……蛇のような管を幾つも持っていて……落とし子がそこから現れる……落胤地の者を喰らい母を肥え太らせること蜜蜂の如し……管は地中に伸び……落胤その名をヨウリンインと……ヨウリンインは地を穿ち、母なるものと陸地を結ぶ道を造るべし……』

 昼の暑さを感じられなくなった。まるで夜のような寒気に襲われた。

 おれは理解してしまった。何故隣の村に人がいないのか。あの地下道が何に繋がっているのか。スキャールヴがどうして戻って来ないのか。

 おれは村の人達の事を思った。みんな真面目で、優しい人達だったのに。

 こうしておれはたった一人生き残り、これを書いている。

 あの紋様は生涯おれを苛むだろう。

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砂漠の図書館 鼓ブリキ @blechmitmilch

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