一章 - 「手と骨」の行方1

 志穂が彼女のことを聞いたのは、韓国でアーティスト・イン・レジデンスというプログラムに参加していた時だった。福岡と釜山の交流事業の一環としてできたプログラムで、今年は志穂ともう一人の日本人女性が選ばれている。

 四月三日に船で釜山港に着いた志穂は、タクシーで滞在先の美川文化芸術村までやってきた。海外経験がほとんどない志穂にとって、三ヶ月の海外でのアート制作はチャレンジそのものだった。一緒に参加するアーティスト八人と、部屋は別とはいえ三ヶ月もの間、同じ建物内で共同生活をするのだ。

 部屋と自分が使うアトリエの簡単な説明が終わり、志穂は自分の部屋に入る。部屋にはベッドと机と、服をかける小さなクローゼットがあった。ジーンズやセーター、赤いニット帽をクローゼットにしまい、細かい日用品やパソコンを机の上に整理し、画材を一階のアトリエまで運ぶ。志穂は今年で三十二歳。美大を出て、アルバイトをしながらアートを続けてきたが、海外でアート制作をするのはこれが初めてだ。

アトリエの広い机に画材を並べていく。すぐに使わないものは棚に。志穂が歩き回るアトリエの黒っぽい床の上には、絵の具の痕があちこちに残っていた。


「もう、アートはやめる」


 数年に一度くらいのペースでレンタルギャラリーでの展示はつづけてきた。それでも、来るのは友人くらい。作品を買う人はほとんどいなかった。買われるものもせいぜい印刷したポストカードくらい。アートをつづければつづけるほど生活は苦しくなり、作品が生まれれば生まれるほど、自分の生活スペースが作品によって削られていった。最初から分かっていたことだ。作品で食べていける人なんて本当に一握り。自分がそれになれるわけなんてなかったのに、何を夢見ていたんだろう。

 画面に向かっている間は時間も忘れられたけど、制作が終わると自分が骨になったような疲労感があった。志穂の作品は誰からも、志穂にとってもすでに必要がないものだった。このレジデンスプログラムでの制作を最後に、志穂はアートをやめるつもりでいた。もう二度と何かをつくろうとはしないだろう。そう決めたら気持ちが楽になるほど、やめることに後悔はなかった。むしろやっと繭が開くような、覚めるような気持ちがした。

 広い机を水拭きし、持ってきたビニールシートをかぶせ、針や糸などの画材を並べていく。アトリエにある大きな緑の棚や床を掃除して、志穂は一人、アトリエのまんなかに立って伸びをする。掃除をすることでアトリエがようやく自分の一部になる。

 必要な食料品や日用品を買い揃えるために、志穂はアトリエを出る。二階に上がったところで隣室のドアが開き、女性アーティストが出てきた。

「あー、こんにちはー」

 日本語で話しかけてきた彼女は、志穂より二日早くレジデンスに参加しているアルコ。日本人で音を使った作品を制作していると言っていた。眉毛の上でパッツリとそろえた黒髪のアルコは、いつも目の下を黒く塗っていた。

「どっか行くん?」

「食べ物をなんか買いに行こうかなって。この辺にお店とかありますか?」

「坂下りてったとこにスーパーあるよー。待って、あたしも行く。財布持ってくんから待っててー」

 志穂の返答を待たずにアルコは自分の部屋に戻り、黒い革の長財布を片手に現れた。志穂も部屋に戻って赤いニット帽をかぶり、財布と布のバッグを持って出る。毛先にパーマがかかって丸くなった長い黒髪が、志穂の肩の上で軽く跳ねた。

「行こっかぁ」

 レジデンスは高台の上にあり、画材や食品を買うには長い坂を下っていく必要がある。アルコは鼻歌を歌いながら大またで坂を下りていく。カフェの店員みたいな黒いロングスカートは、アルコが足を踏み出すたびに地面近くで揺れていた。

「志穂はさぁ、韓国初めてなんだっけー?」

「は、はい」

 会ったばかりの人から名前を呼び捨てにされるのが、志穂は苦手だった。勝手に友達の列に加えられてしまって逃れられない感じ。志穂は距離を保つために敬語で返す。

「アルコさんは、何度も来てるんですか?」

「うん、そう。住んでたことあるやつね。十年くらい前だけど。韓国人の彼氏がいてさー、一緒に住んでたの。ソウルで」

「そうなんですか。じゃあ韓国語もけっこう話せるんですか?」

「ぜんぜーん。彼氏が日本語話せたからさー」

 アルコは歌いながら坂を下りる。軽くステップを踏んで振り返って言う。

「その頃、けっこうおとなしい感じの韓国人アーティストの知り合いいたのね、でもさ、聞いて。その子、死んじゃったのね。その原因、餓死らしいよ。信じられる? いつの話って感じしない?」

 アルコは志穂に顔を近づけてくる。志穂は少し顔を背けながら数回うなずき返す。

「でもそんなことがあったせいでさ、今、その子の作品、めっちゃ高く売れてるみたいなんね。変死する作家って天才っぽいもんねえ。あたしの人生ってけっこう普通だからなー」

「私も、普通なんで」

「そう? 意外と志穂のほうがすごい人生送ってそう。あ、それでさ、その子の遺作が見つかってないらしいのね。取扱いのギャラリーが必死に探してるみたいで。今度見に行かない? そのギャラリスト、日本人なんだ。作品見つけたらなんかしてくれるかもしれないし」

「いつの話ですか、その方が亡くなったのって?」

「数年前かな」

「手がかりとかなんかあるんでしょうか」

「全然なーい。タイトルだけ聞いたけどね」

「なんてタイトルですか?」

「手と骨」

 志穂は反射的にアルコを見た。

「まぁあんまり作品は関係なくてさ、どっちかと言えばギャラリストに会いたいだけ。ほら、日本人だし取り扱ってくれるかもしんないから」

 アルコが話しかけてくるのを、志穂はなんとなくうなずきながら聞き流す。「手と骨」というタイトルが引っかかる。


志穂には福岡で同棲中の恋人がいる。「手と骨」は、彼がかつて賞を獲った作品と同じタイトルだった。

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