第374話

 ――“この日”って指定しないならいい。


 宮城は昨日、小さくそう答えた。


 断られてもいい。

 でも、断られたくはなかった。


 そんな思いで口にした言葉は、曖昧さを含んだ約束になり、私を安堵させた。


 日を指定できないということは、澪が誕生日会を開催する前なのかすらわからないということだけれど、宮城が約束をしてくれたということのほうが重要だ。


 細かいことはいい。昨日の私は“約束の日”を宮城に任せ、今日の私はそれを後悔していない。


 宮城を抱きしめる日がいつになるのかはわからないけれど、それでいいと思っているし、誕生日会をきっかけにした約束なのだからその日は遠くないと思っている。


 おそらく、きっと。

 けれど、そうではなくてもいい。

 宮城が私に歩み寄ってくれたことが嬉しい。


 彼女は、誰も断らないような簡単なことでも平気で断ってくることがあるから、昨日もらった約束はそれだけで意味がある大切な約束だ。


 私はトマトを切る手を止めて、隣で朝食を作るためにフライパンとにらめっこをしている宮城を見る。


「……心配しなくても黄身は無事だけど」


 爽やかな朝に似合わない低い声が聞こえてきて、私は「それは心配してないから」と返す。


「じゃあ、なんでこっち見たの?」

「料理、上手くなったなって」


 約束をした翌日である今日、宮城は不機嫌極まりない声しか出してくれないが、こういうときでも隣に立って料理をしてくれる彼女を堪能したいだけだ。


 少し前の宮城ならこういう日に私の隣に立ってはくれなかっただろうし、料理もしてくれなかったと思う。


「……目玉焼きなんて料理じゃない」


 数年前の宮城だったら絶対に言わないような台詞が聞こえてきて、私は「立派な料理だよ」と告げる。そして、トマトをすべて切ってからトースターに視線をやると、もうすぐパンが焼けそうで、バターとジャムをテーブルの上へ置く。


「今度の土曜日さ、朝まで一緒に冬休みの予定立てない?」


 食器を用意しながら宮城に尋ねると、怪訝そうな声で問い返された。


「冬休みの予定?」

「そ、冬休みの予定」

「今度の土曜日って十月なんだけど」

「だね」

「予定立てるの、早すぎない? それに朝まで予定立てるって、どれだけ予定入れるつもりなの」


 怪訝そうだった声はあからさまに不機嫌なものに代わり、宮城が私ではなく目玉焼きを睨む。


「いいじゃん。ただの予定なんだし。行きたい場所話してたら楽しいしさ」

「楽しくない」


 私の言葉が愛想のない声に否定される。

 でも、私は諦めるつもりがない。


「じゃあ、宮城が楽しいことは? 土曜日、それするから教えて」

「勝手に土曜日なにかするって決めないでよ」


「土曜日、宇都宮と会う予定かなにかあった?」


 私は頑なな彼女に柔らかく声をかける。


「……ない」

「じゃあ、冬休みの話じゃなくて、朝まで映画観るでもゲームするでもいいから、私との予定入れなよ」

「なんか偉そうでむかつく」


 不満げな声とともに宮城が目玉焼きをお皿にのせ、私が切ったトマトも盛り付ける。すぐにトースターからパンが焼き上がったことを知らせる甲高い音が聞こえてくるが、私はパンではなく宮城を見た。


「予定入れてほしいから」


 澪主催の誕生日会。

 昨日、宮城とした約束。


 この予定はいつになるかわからない未定の予定だけれど、どちらもそう遠くない未来にやってくる予定だ。だから、私は二人の時間を増やしたい。


 大事なものの中で大事なものを抱きしめることができなくても、一度でいい誕生日が二度になってもいいと宮城が少しでも思えるような時間を作りたい。


 昨日した約束が果たされなくても、近いうちに開催されるであろう誕生日会をやり過ごせるように、宮城を私で埋めてしまいたいと思っている。


「宮城が土曜日、暇じゃないって言うなら諦める。私と一緒にいたくないなら、なんか理由作りなよ」


 私はパンをトースターから取り出してお皿にのせる。目玉焼きがのったお皿と一緒にテーブルに運んで、宮城の隣へ行く。


「……土曜日、私が暇なら二人で日曜日の朝までなにかするってことなんだよね?」

「そういうこと」


 土曜日も日曜日も宮城と一緒にいたい。

 今している話はそういう話で、他意はない。


 でも、たぶん宮城はそんなことを言っても信じてくれないだろうと思う。だから、宮城が“約束の日”を警戒しないですむように朝まで起きていることにした。


「……朝になったらどうするつもり?」


 探るように宮城が言う。


「ご飯食べる。その後はまた二人でなにかしたいかな。眠いなら自分の部屋で寝てからでもいいし」


 変なことはしない。

 私のそういう言葉に信頼がないことは、自分でもよくわかっている。


「……朝まで起きてるって言ったんだから、ちゃんと寝ないで起きててよ」

「もちろん。約束する」


 テーブルの上には朝食が並んでいる。でも、私には食事をするよりも先にしなければならないことがある。


 宮城の耳に手を伸ばす。

 耳たぶに咲く花を指先でなぞる。


 熱のないそれは私たちの約束を確かなものにするためのもので、私は体温を移すようにそっと近づき、唇を押しつける。


 硬くて柔らかい。


 ピアスとの耳の感触が宮城と私の約束を繋ぐ。

 唇を離して、プルメリアのピアスにもう一度キスをする。


「宮城も約束して」


 耳もとで囁くと、「約束って?」と返ってくる。


「昨日の約束。忘れないように私のピアスに誓って」


 本当はこんな儀式はいらない。

 だから、昨日はピアスにキスをしてなんて言わなかった。


 私は宮城が約束を守らないなんて思っていないし、誓われなくても信じている。それでもピアスに誓ってほしいのは、大学へ行く前に宮城の熱がほしいからだ。


「……そんなことしなくても約束は守る」

「知ってる」

「じゃあ、なんで誓ってなんて言うの」


 宮城が私の足首をちょこんと蹴って、不満そうに睨む。


「私はちゃんと誓ったんだし、宮城も誓うべきじゃない?」


 そう言うと、宮城が眉根を寄せたまま私の服を掴んだ。


 お腹の辺りの布がぐっと引っ張られ、耳たぶに息が吹きかかる。耳に感じる生温かさに、手を宮城の腰に伸ばす。彼女を引き寄せると、耳たぶに硬いものが当たって鈍い痛みを感じる。


「噛みついてほしいわけじゃないんだけど」


 小さく言うと、痛みが強くなる。

 でも、すぐに硬いものが離れて、今度は首筋を噛まれる。


 緩く、跡がつかない程度に。


 誓いのキスとはほど遠いそれは長くは続かず、宮城の体温が私から離れる。


「仙台さんが勝手に日にちを決めたら、今の約束なしにするから」

「わかった」


 不機嫌な宮城に微笑むと、「あと土曜日。途中で寝たら叩き起こす」と私から持ちかけた約束に注釈が付け加えられる。


 宮城が私のネックレスに触れる。

 四つ葉のクローバーが指先でなぞられ、強く押される。


「大丈夫。ずっと起きてる」


 私は彼女の手に自分の手を重ね、「約束する」と誓った。

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