第22話
過去を振り返るのは、基本的にズルい。その時には知らなかったことや、その時やっと知ったことを前提にして過去の自分を評価してしまうからだ。過去を振り返ると人は過ちを後悔し、自分の若さをほろ苦く受け止める。それは真っ当なことでもあり、それと同じくらい歪んだことでもある。私たちは考えるべきなのだ。もしその時の自分が今ほどの知識を持っていたら、一体どう振舞うかについて。自分が過ちを犯したと思うのも、それが過去の自分の若さにあったと結論付けるのも自由だ。けれど、その時の自分では知り得なかったことを知っているという強烈なハンデの下で過去の自分を審判するのは基本的に間違っている。私はそれほど大人になってもいなければ、成長してもいない。私の人生はきっと最初から最後まで間違いだらけだ。
私が祖母の写真について深く考えるようになったのは1993年のことだった。その年の五月には警察のログが開示されて、私たちの一家がケイの母親経由で国安に監視されていたことが明らかになった。私はそしてそれが原因でケイを失うことになった。中学では徐々に、けれど確かに友達が減っていき、それは家で一人になる時間を増やしていった。私は完璧に孤立しているわけではなかったが、馴染んでいるわけでもなかった。私は避けられていたのだ。他でもない母の顔を継いでいたから。
隠し事はいつか露呈する。そしてそれが巧妙に隠されていればいるほど、露呈した時の影響はより根強いものになる。例えば国安の調査記録がそうだ。全国民を網羅するような巨大監視ネットワークによって秘密裏に集められ秘匿されたデータが開示された時、私たちの生活には悲惨で不可逆的な影響がもたらされることになった。
共和国は国として秘密を抱え込み過ぎていた。そして隠し事が上手かった。今になって考えれば、建国されてから崩壊するまでの間、共和国がしていたのはただ秘密を隠すことだけだったのかもしれない。少なくとも十歳までの間は、私は母親の顔に隠されていた秘密すら朧気にしか理解していなかった。コスモポリタニズムの美名の下で、母はむしろ公的には優遇された位置にいたからだ。
祖母の写真は家の戸棚の上に飾られていた。白黒の写真だ。彼女はモノクロのセーラー服を着て、真っ直ぐにこちらを見つめていた。凛々しさを感じるその姿には、けれど抑えきれない瑞々しさが溢れ出ていた。それは人が思春期を迎える時に一瞬だけ発する輝きのようなものだ。祖母の写真にはそれが何よりも強く滲み出ていた。
そして彼女は日本海沿いの街で決定的な破局を迎えることになる。クロパトキン作戦、1945年の冬のことだ。東欧諸国を次々に開放しベルリンに雪崩れ込んだ赤軍の兵士たちは、そのままシベリア鉄道で運ばれてロシア沿海州へと送り込まれていた。関東軍は崩壊し、樺太はすでに奪取されていた。彼らは今や完全な島国へと逆戻りした唯一の悪の帝国へと攻め込もうとしていたのだ。北海艦隊からは北極海を通じて巡洋艦が送り込まれ、継戦能力をほとんど喪失した日本海軍に代わって日本海を跋扈していた。
北海道と千島列島で赤軍が学んだのは、未だ頑強な日本陸軍の陣地を避ける必要性だった。要塞を避け、本土に浸透する――彼らの取った作戦は安定した制海権を武器にした日本海沿岸諸都市への散発的な上陸作戦だった。
初期には低かった成功率は徐々に上昇していった。そもそも日本軍に残されていたのは安定した指揮系統でも補給でも武器でも何でもなく、ただ無条件降伏を避けるためだけの保身欲だった。突然現れた日本海沿い二千キロの前線を維持するだけの力など残されてはいない。そして次第にソ連製の粗末なゴムボートが海岸に漂着し、それが漁船級の小舟になり、駆逐艦になっていった。日本海沿いの街は飛び飛びに赤軍の手に落ちていった。そこで彼らがしたことは例えばドイツでのことと全く変わることがなかった。そこにあった日本人の資産は戦争犯罪の賠償として彼らに回収されたし、身柄だって彼らの好きにされた。現実の冷たい銃器の下で有無などあるはずもないのだ。
祖母はそうして母を産んだ。事実だけを言えばそういうことになる。
公的には母は優遇された。例え父親が誰かがはっきりしないにしろ、彼女が白人種の血を引いていることは明らかだったからだ。民主社会党はずっと長い間コスモポリタニズムの標語を掲げていたし、世界に惨禍をもたらした日本人という血筋に対しては基本的に冷ややかだった。
そして母は単純に優秀な人間だった。彼女はあるいは政治的な配慮によって手にした立場を完璧にやり切ったし、自分の力でも上へと這い上がった。彼女がどれだけ孤独だったかについて想像は容易い。彼女は30歳で埼玉県庁の一級職員として働いていた。それは彼女が一部門の実質的なトップで、思想的にクリアで、時には二級職員の前で社会主義社会の実現について演説することもあることを示していた。通常より5年も早い、硬直したシステムの中では異例の人事だった。
「他にやることがなかったのよ」と母はいつか言った。
「私はあなたのおばあちゃんと確執を抱えていて、問題だらけで、仕事に集中することだけが救いだったの」と。
母が敗戦近くの混沌とした暴力の中で生まれたことは、彼女の年齢を見れば一目瞭然だった。共和国という国家はその時の赤軍の横暴を完璧に隠蔽しようとしていて、実際に日本海沿いで敗戦の年を体験した者も口を堅く噤んでいた。それでも母と同年代の人間はその時に起きた濃厚な暴力の匂いを薄々感じ取っていたし、それは母をさらに孤独にした。母は公的には非難されることはなかったし、してもいけなかった。だからこそ周りの人は彼女を避けることしか選択肢がなかったのだ。
祖母は思い出したように時々おかしくなった。ナイフを振り回したり、慰問に訪れた党の人間に対して暴言スレスレの言葉を吐いたりした。母は上手にそれと付き合わなくてはならなかった。少なくとも彼女も彼女の母も社会主義の理想を信奉しているし、その実現に対して決してサボタージュしていないことを示す必要があった。彼女は公的な仕事の合間にその作業をやり切っていた。祖母の行動について彼女が弁明に行くと、党の福祉課の実務者は毎度気の毒そうな表情を浮かべて答えた。
「わかります。お母さまは頭がおかしくなっているんです。そういうこともあります」
母はその言葉に頭を深く下げた。それは彼女の母親の行動について不問にするという意思の表れだったからだ。――基本的に党の人々は母に同情的だった。
今となっては色々なことが分かっている。当時のことを知るのに、時が経った今の方が簡単だというのも中々滑稽なことだけれど、この世界では時にそういうことが起こり得るのだ。
例えば1969年の8月13日にあった民主社会党の党員の集会では、1945年から1946年までの間に起きた赤軍による暴力行為を暗黙に咎めるような会話が成されていた。女性党員から提起されたのは、「絶対主義から日本が開放されるにあたって払われた日本側の犠牲についても記録していく必要があるのではないか」ということだった。その遠回しな発言はけれど会場の殆どに理解され、暫くの間議場は紛糾した。場を鎮めたのは同席していたソ連共産党の情報職員だった。「枢軸国の生み出した戦争によって故国から駆り出され、故郷から遠く離れ、己の血を流して戦った赤軍兵士を侮辱することは赦されない」と彼は言った。それからその話題に触れるものはいなくなった。永遠に。
世の中はしかし一面的ではない。基本的に日本国内で暴挙に至った兵士たちは遅れて到着した政治将校に粛清されたからだ。祖母が保護され、何はともあれ母が無事に生を受けたのもソ連指導部から特命を受けたNKVD職員の支援があったからだ。
完璧な悪などこの世には存在していないのだ。今となっては共和国すら完璧な悪として語られることが多い。抑圧的な政体で、少なくとも北東京の人々を壁によって閉じ込めたのだと。幹部を除く民主社会党員のほとんどは社会に提示された価値観を受容し、その中で改善を目指していた基本的に善良な人々だったということすら忘れられている。西日本の人々が社会に善だと提示された自主自立を尊ぶように、彼らも単にそんな風にして社会主義に理想を抱いていただけなのだ。祖母と母が彼らにどれだけ助けられたかを考える時、私は共和国とそこに住んでいた人々に対して親近感を覚えざるを得ない。少なくとも考えなしに全てをつまびらかに明らかにしてしまった一宮の統一政府よりは、よっぽど。
今や私はケイと私の出会いについてすら小さな疑いの目を向けるようになってしまった。全てケイの母親が仕組んだことなのではないかと。引っ越してくる私たちの家族を監視せよという国安からの指示を受けて、彼女はきっとケイを庭に置いておいたのだ。子供たちの仲を深めさせようと。そう思うと私は本当に暗澹とした気持ちになる。私たちはただお互いを傷付けるために出会ったのだ。私は家族と私自身を国安の刃の下に晒すために彼と出会い、彼は彼で身の危険を抱えていた。国安の協力者でいるということは、『まとも』な情報を得なければ自分が国安に処理される可能性を抱えているということだからだ。私たちは最初からどちらかが死ぬようなフェータルな道筋に立っていたのだ。そしてそれを知らないままでお互い惹かれ合っていった。私の初恋は彼で、彼の初恋は私だ。どちらかといえば私の方が危ないのは確かだったけれど、そういう場合により辛い立場に立たされるのはきっと加害者になり得る彼の方だ。もし彼の母親が可能性でなく本当に私に引き金を引いていたら、ケイはきっと世界の中の誰も信用できないまま生きていかざるを得なかっただろう。
結局のところ、私たちはどちらも死ななかった。恐らくケイの母親の匙加減が絶妙だったのだと思う。明らかにされた書類には確かに私たちの『不穏な』発言が収められていたが、それは私たちを処分するには小さすぎる瑕疵だった。例えば役所に飾ってあった第一書記の肖像に埃がついていて見栄えが良くないと発言したことや、そういうほんの僅かなことばかりが記録されている。ケイの母親は確かに私たちを監視し、私たちの命運を握っていたが、恐らくは私たちを守るために懸命に動いてくれていた。そもそも、きっと彼女が協力者として選ばれていたことも私たちのせいなのだろう。私の母親はその出自のために表では優遇されていたが、きっと裏ではその出自のために反ソ的になりうる危険分子として見做されてもいたのだ。彼女が協力者だったから私たちを監視していたのではなく、私たちを監視するために彼女は協力者にさせられたのだ。
だからあるいは私たちがケイの母親を責めるのは間違っているのかもしれない。彼女が実際に国家保安局の手足であり、可能性として私たちの生命を奪うこともできたということを除いたとしても。彼女はそんなことを何も言わずに私たちと接し、思想的に問題のある言葉が口から出てくるのを待ち構えていたかもしれないにしても。公にされた記録に、私たちの細やかな発言までが残っているにしても。
彼女は一体どんな気持ちでその諜報活動を遂行し、どのような気持ちで共和国の崩壊を眺めたのだろう? 彼女の監視対象は単なる人間ではない。毎日顔を合わせ、話をし、同じ県庁勤務の同僚でもある家族だ。隣に住み、子供たちもお互い親密に付き合っている。もしかすると自分の子供と一番仲が良いのは彼らの子供かもしれない。それでも彼女は私たちを監視していなければならなかった。そうしなければ自分の身が、そして自分の子供の身が危ないのだ。他に取れる選択肢は一つとしてなかった。
それとも、彼女は本当に共産主義と国家を信奉していたのだろうか? 共産主義の理想はまだしも、共和国という国家は誰が見ても明らかに腐敗し、硬直しきっていた。悪辣な指導部のヘゲモニーをただ守るためだけに現実の身近な誰かが血を流しても良いと感じている人など誰もいなかっただろう。彼女もきっとそれは同じだった。彼女は単に義務を実行しただけだったのだ。
もし彼女が共和国の崩壊と共に安堵を覚えたなら、統一政府が旧国家保安局の資料を公開すると発表した時、一体どう思ったのだろう。もしそこに諦めに似た感傷があり、年貢の納め時だと思ったとすれば、私は限りなく悲しい。私たちは実際に彼女に報復してしまったからだ。もちろん暴力ではない。けれど、今まで親しくしていた隣人から急に避けられ、自分の子供にも軽蔑するような表情を浮かべられた時、彼女はきっと猛烈な後悔の中で小さな安堵を感じただろう。私はそれが堪らなく悲しい。それは一人の尊厳ある人間が絶対に感じてはいけない感情だからだ。そして彼女にそう感じさせてしまった責任の一端は、もちろん他の誰でもない私自身にあるのだ。
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