第4話

 エムに拒絶されることと、彼女だけに拒絶されることが乖離し始めたのは、一体いつからだろう。スーツに着替えた私は、重く汗を吸ったパジャマにため息をつきながら考える。私は一体いつから、彼女の背中に何かを見出したのだろう。

 明確なのは、彼女が千住で働きだしてからだった。けれど、東京の北側で働いている同級生は、決して彼女だけではないのに、私はその象徴を、いつの間にか彼女だけに求めていた。それはきっと、その前から彼女を何かのシンボルとして認めていた結果のように思えた。彼女は宿命的にシンボリックだったのだ。私にとって。

 ケイとエムは、知らされてから冷静に見ていると、好き合っていることのはっきりしたカップルだった。エムのケイを見る目は、傍から見ていても胸の痛くなるほど真剣で、少女に戻ったような熱のこもったものだった。けれど私に衝撃的だったのは、エムと一緒にいる時のケイの顔が、私が一度も見たことのないようなものだったことだ。彼女に訊けば、先に惚れてしまったのはケイの方だったと言って、それは私にとって身体を芯から揺さぶられるようなことだった。ケイは私の見たことのない顔をしていた。だから、私も今まで感じたことのないような気持ちをしている。一対一だ。けれど、それは完全に私の負けを意味していた。

 私はエムのことが好きだ。私が出会った人の中で、きっとエムが一番。けれど同時に、私は彼女のことが本当に恨めしいのだ。嫉妬している。憧れている。焦がれている。ときどきは、殺したいとすら思う。私の恨むという感情は、彼女以外に今まで一切向けられたことはないし、だからこそ特殊だ。私はエムに抱かれ、抱き、ナイフで心臓を刺して殺してしまいたいのだ。私の心にはいつもエム的なものが棲みついているとすら感じる。彼女は――まるでそれが生まれたままの姿であるように――嘘のように似合う青いワンピースを着て、その軽いブラウンの髪をたなびかせている。髪型など、どうでもいいと言うように。そして、実際に彼女にとって髪型などどうでもよかったのだ。額の出ている彼女には瑞々しさがあったし、多少前髪が乱れている彼女も、それはそれで凛々しさを感じすらした。彼女は大学の在学中散々私を魅了し、そしてさらに就職後も私を開放せずにいる。なぜ、千住などで働く必要があったのか、なぜ、その会社で働いているのか、私は怒りすら感じた。彼女は本当に対極にあるのだと思い知らされるようだった。そして、私はケイを盗んだのだ。彼女はそれについて何も言わなかった。


 誰も何も言葉を発さない、混雑した威圧的な車内の中で、私はただ時間が過ぎるのを耐えることだけに集中していた。あと十分もすれば着くだろう渋谷が、ただひたすらに遠く、そしてただそこに着けば苦痛から逃れられるというだけの理由で、早く着いて欲しいと願ってしまう自分が悲しかった。

 建設中のビルは日に日に高くなっていった。それは、私に時の流れというものを直視させるための行為のようにすら思えた。一日一日が同じような形状で去って行く繰り返しで、私はまるで時間軸に閉じ込められたお姫様のように自分自身を思う。私は何かの拍子で世界に閉じ込められて、私が一日を生きる度にまた一日が最初からやり直しになる。起きて―顔を洗って―化粧をして―仕事をして―買い物をして―寝る。繰り返さないのは、化粧品の容量だけ。減っていくアイシャドウだけが、私のシステムが動的だと教えてくれる唯一で、でもそれすら薬局に行けばいつでも同じものが並んでいるのだ。なんて刺激的な世界なんだろう。

 けれど、ビルは日増しに伸びていった。それはびっくりするくらいの速さで、例えば何も得ない、何もしない、ただ仕事を終わらせれば新しい仕事がやってくるだけの毎日を送っている私としては、きっとビルの方が柔軟で成長性の高いことに、少し絶望的になるくらい速いのだ。

 私は定期券をかざして改札を出て、東横線の混雑する渋谷駅のターミナルを見つつ、道玄坂の会社に向かった。そこにはいつも通りにエスがいて、彼女に挨拶をしつつパソコンの電源を入れる。東芝のロゴを確認して、コーヒーを淹れに給湯室に向かった。

 表計算のマクロが稼働して、シートが画面を点滅しながら流れ、私はそれを見ながら、自分が一人になったような気が何となくして、そしてそれが的を射ていると知って、ひどく悲しくなった。私の周りから、ケイが消えようとしている。エムには、到底合わせる顔がない。エスは、私よりずっと人当たりがよく、優秀で、綺麗で、私以外にだって話せる人はたくさんいるのだ。

 定時から一時間後の私は、東横線の車内にいた。

 そこは男だらけの空間だった。この列車全体がそうなのか、私は知らない。乗り慣れているわけでもなければ、情報を豊富に持っているわけでもなかった。しかし、少なくとも私の周りには男しかいなかったし、それが異常だという雰囲気は少なくともしていなかった。そんな雰囲気が果たして存在するのか、それすら確証がないけれど。

 ほとんど考えなしにとった行動だったし、どうしてそうしたのか、自分でもわからなかった。でも、時間がないわけでもなかったし、運賃を払うお金がないわけでも、勿論なかった。それに今では、行動の理由なんてそんな風に曖昧でもいい――許されている。私はもうずっと遠くまで行くつもりだった。中目黒とか、自由が丘とか、そういう場所ではなくて、もう終点の方まで、ずっと。私はドアの窓に鼻のくっつきそうになるくらいまで押し付けられながら、車両がレールに沿って制御される営みを感じていた。

 特急は、横浜市に入ってから最初の停車駅でしばらくの間止まり、モーターの制御機が車内に不快なうなりの音を響かせるのを聞いていた。窓の外からは、対向のホームが見えて、私はそこを流れる人を見ていた。極めて混んでいるわけでもなかったが、空いているとは口が裂けても言えなかった。電車のドアの到着するだろう場所に、列をなすように流束が収束していくのは、まるで鉄粉を入れた液体中に磁石を落としたみたいに無機的で、私は少し怖くなった。

 そして、突然に鉄粉が一人に――いや、二人になった。私はドアの窓の映す風景にくぎ付けになってしまった。そこにいたのは紛れもなくケイ本人だった。彼は隣に白いコートから黒いストッキングをそのまま伸ばしてきたような女を連れていた。げんなりするような女だった。少なくとも、好き好んで話したいようなタイプではなかった。外見で人を判断するなとよく言われるけれど、でも彼女は――その女は、例えば四十になっても二十代のファッション誌を読んでしまいそうな、そんな種類の人間に見えた。ケイはその女の方をずっと見て、そして私をさっと見た。思わず目を背けたけれど、電車のよく光を跳ね返すガラスを、暗い外から見るなんて現実には絶対に不可能で、だから今ケイは私ではなく、ただ目を他の場所に向けただけなのだ。私はそう気づいて少しばかりほっとし、悲しくなり、そして女に同じくらいちょっとだけ同情した。話している途中に目線を外されることは、事実としてみじめだ。特に、ケイのようによく目を見て顔で話してくれるような人との場合においては。

 電車はドアを閉め、音程を外しながらゆっくりと走り始めていた。ケイも女も、窓ガラスからはすぐに消えていって、私はただほんの少しだけ全てがどうでもよくなって、プレーヤーにヘッドホンの端子を挿した。アメリカの古い曲が流れる。両親が家でよくかけ、母がよく口ずさんだ曲。私は頭の中を塗りつぶすように音量を上げた。高音のパーカッションが凍り付いた私の頭を割り、少しの気持ちよさを覚える。

 電車は桜木町の駅に滑り込み、私は車内を覆いつくしていた熱気と一緒に、ホームに溶けていった。方向の不詳な私は、周りの人たちの動きに身を任せて拡散していくしか能はなくて、夜の空気に混ざっていくチカチカするような電光掲示板はただ素敵だった。

 辺りには、銀杏の踏まれた匂いが立ち込めていた。

 それはとうに失われた秋の、最後に残した置き土産に違いなかった。趣味の悪い贈り物は、きっと彼女も冬が嫌いなせいだ。彼女は――秋は――、追い詰められて、雪を片手に持った冬に口説かれて、きっとそれがとても怖かったのだ。そうでなくても、押し掛けていった愛する夏には断られて、寄る瀬のない思いだっただろうに。そう、彼は春が好きなのだ。春はみんなに好かれて、生を謳歌して、きっと快活で、そんな女性だから、秋も自分なんて到底叶わないと思い込むのだ。そう思うと、決して悪くない気分になれた。きっとみんな同じなのだ。

 すれ違っていく季節の中で、私は川べりを歩いている。

 海にほど近い、穏やかな留まるような流れは、潮の香りをあたりに漂わせていた。桜川橋に据えられた灯りは、藻とプラスティックの浮く水面を、慈しむように照らす。欄干に身を預けて、私は映り込む市内の灯りを見ていた。

 身を乗り出すと、どぶの匂いがもっときつくなった。痛みのある心には、けれどそれが少しだけ気持ちが良くて、私はクラクラしながらそこで深呼吸をする。四車線の道路には、この国の誇る、押しも押されもしない堂々たる自動車メーカー製の車がびゅんびゅんと音を立てて流れていて、私は何か別の世界に飛んでいってしまっているように思った。風きり音が鳴り響く、現代的なコンクリート橋の上で、私は身を投げるように川に乗り出し、川に漂う臭気を吸っているのだ。

 そして、私を見る人など誰もいなかった。誰も。

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