第3話
私はケイの腕の中で、時々アイスクリームを食べた。
「いる?」と問う私に、彼は肯定を返して、私が食べて溶け気味の表面を、彼も舐めた。ドロドロになっていく表面を、私は愛した。身体が熱くなった。それはきっと愚かなことだったけれど、そもそも生きるということ自体がきっと愚かだ。
私はたぶん、ケイの前ではエムよりもずっとずぼらだ。
ケイがエムと私を比べたか、私には自信がない。私のことだけをずっと見ていてくれたら、それはもちろん幸せなことだっただろうけれど、でも、エムと比べられるのも、決して悪くないことのように思えた。少なくとも、エムよりずっと下のクラスに固定されていて、ただ感情を処理されているだけの立場より、悲しみはないだろうから。
アイスを食べている私を、彼はどう思っただろう。それはケイ以外には誰にも見られたくないものの一つだった。その行為は、きっと他の誰にとっても、痛々しいものに違いなかったから。けれど、彼はどう思っただろう。私にはそれだけが気がかりだった。
彼とのキスは、薄いミルクの味がした。
私はいつものように越谷から伊勢崎線で浅草に出て、銀座線に乗り換えて渋谷に向かった。四階のホームから百貨店を経由して地上に降り、道玄坂のビルまで辿り着いた。
エスは私より前に来ていて、私は彼女に挨拶をしてから席に着く。目の前のパソコンの電源を入れると、少しの遅れの後に東芝のロゴが表示されて、私はそれを確認して給湯室に向かった。作ったインスタントのコーヒーを飲みながら、刺すような外の冷気に晒され続けた身体を癒す。
昼にコンビニに寄ると、そこにエスがいて、私は珍しい出会いに声を掛ける。少し寝坊して、作れなくなってしまったお弁当の代わりを求めていたのだという彼女に、私は軽く相槌を打った。自炊の面倒さは私も一応わかっているつもりだ。私だって一時期は一人暮らしだったこともあるし、それに大学時代のエムもすごく苦労していたのを覚えているから。
エスは秋田で生まれ、仙台の大学に通っていた。エムは、仙台で生まれて、私たちと同じ北東京の大学に通っていたから、彼女たちには仙台という共通の地盤があることになる。二人とも、私にはすごく人当たりが優しく思えるので、そんな下らない共通点でも、何というかすごく素敵なものに感じる。――彼女たちのせいで、私は仙台に縁のある人に、初対面から何となくいいイメージを抱いてしまいそうになるのだ。
エスと一緒に会社に戻り、私は定時プラス三十分で退出した。渋谷から浅草線に乗る時に、東横線の改札から吐き出される人波を見て、私は憂鬱から離れるように、耳にヘッドホンをあてる。ケイも、あと一時間もすればここに来るだろうことを考えると、私はただ辛くなった。地下鉄は、建設工事の進む外の風景を少しの間だけ広告した後、すぐに地下に潜った。表参道の駅で、千代田線からの人が大量に乗り込んでくる。
だんだんと空き気味になっていく電車に、けれど日本橋でかなりの人が乗り込んできて、日本橋から三越前までの僅かな時間、車内は殺人的な混雑に見舞われる。三越前でまた人がどっと降りて、それからは浅草までそれほど混みあいはしない。電車は、終着のホームにゆっくりと滑り込んで、私は足元のバッグを取り、目の前の人が降りていくのを待っていると、車内で最後の人になってしまって、私がホームに降り立つことが、まるで乗車を願う人たちへの何かの合図のようになる。
折り返しの伊勢崎線が私たちをライトで照らし、曇った窓から滴り落ちる水滴と、モーターの焦げた香りが、私たちに妙な熱気を伝えた。ドアが開き、雪崩れ込む乗客の列に参加して、私はなんとかドアの横のスペースを取った。エアコンの効いた車内で、人の匂いは決してあまり嗅いでいたいようなものではない。私はコートを脱いで、せめてその原因の一人にならないように努めた。
十分も揺られていると、車窓の景色はもうあまり変わらなくなった。駅を中心に、整然と並ぶコンクリート製のマンション群には、ぽつぽつと灯りが燈っている。三十分も経つと、乗り換え案内と共に越谷への到着のアナウンスが流れ、私はコートを持って電車から降りた。
ドアの周りには、温度の壁があった。ホームに立つと、そこはもう遮るもののない吹きさらしの大地で、私は白い息を溶かす。コートに手を通して、エスカレーターを待つ列に並び、改札口を抜けていった。駅前の広場には、留まっている人など誰もいなくて、用意された空白の中を、私はただ早足で家に帰ろうとしていた。
県庁職員だった両親は、その同僚にケイの母親を持っていた。ケイの父は、精密機器メーカーの技術者をしていて、彼はあるいは理系的な血筋を持っていたのかもしれない。そういうわけで、私たちの家は近くにあった。
三軒前にあたる、ケイの家に光が燈っているのを見て、私は胸が痛くなった。もちろん、それは今ではもう極めて当然のことで、私の家にもこの時間にはすでに光が燈っているのだけれど、けれどその光の中にもうケイがいなくなるのだと思うと、月日の経ったその古い家に、悲しさを覚えずにはいられなかった。
私を迎えた母に、仕事が順調かただ形式的に問われて、私は適当に答えを返していた。あまり何も言う気になれなかったのだ。母だって、きっと私がそう思っていることも、答えを濁していることすら、全て把握済みだったと思う。
八時になると、父も東京から帰ってきて、食事を摂った。
私はもう眠りにつくことにした。クリアな思考ができなくなっていっているのを感じていた。休息の不足と、心に棲みつくケイとエムの存在に、私はもう完全に参ってしまっていた。私はそれを自覚しながら、自覚するからこそ、より彼らの存在を意識せざるを得なくなっていた。私は彼らを失えばほとんど一人きりになるような気がした。
――彼らを失う? ふと頭に過ったフレーズに、私は自分のことを嘲った。人を失うというその意味の都合の良さと、私の自分勝手さを思い知ったのだ。彼らは私に付属しているわけではなく、モノでもなかった。私が彼らによって失われることのないのと同様に、彼らは私によって失われることはないのだ。
私はエムの夢を見た。
春を絵に描いたような五月の日の中で、彼女は学食で買ったソフトクリームを舐めている。私たちは20号館の前のベンチに座り、キャンパスの中央通りから聞こえてくる喧噪に、何となく耳を傾けている。
私たちは決して向き合っているわけでも、お互いの存在を特に意識しているわけでもない。ただ隣にいるだけで、そして私たちにはそれくらいの距離がお互いにちょうど良かった。孤独感を覚えることも、気を張ることもない、薬にも毒にもならない距離感。彼女は淡々とソフトクリームを舐めている。目の前には少しフライング気味にアジサイが咲いていて、彼女も私も手持ち無沙汰にそれを眺めている。
桜の木は、私たちに注ぐ太陽と話し、その光を柔らかな、心地よいあたたかなものにしていて、緑に染まった地面を、風の揺らす明るさは、私の心をそれに共鳴するように穏やかなものにした。
エムの脚が、私の脚に触れる。それは、意識してのことでは決してなかっただろう。けれど、私は何となく彼女の方を見てしまう。
アイスを半分だけ残した彼女は、のんびりとその瞳の焦点を私に合わせた。典型的な春の日だった。少なくとも、その時までは、私たちにとって典型的な春の日だった。動作は緩慢で、時間は起こってから認められるまでずっと長く過ぎる。
「私、ケイと付き合うことになった」
彼女は、私にそう伝えた。木漏れ日の中の、限りなく穏やかな春に包まれながら。
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