ハート・ラビリンス
みなづきあまね
ハート・ラビリンス
いつもよりは早く帰れそう!そんなことを思いながら一日を過ごしていたけれど、同僚と立ち話をしたり、なんだかんだで小腹が減っておやつを食べていたりすると、あっという間に定時から1時間くらいは過ぎるものである。
私がまだ席に座り、お菓子をかじっているのには理由が1つある。斜め前の席で彼がデスクワークに勤しんでいるからだ。ちなみにそこは彼の本当の席ではない。休みの同僚のPCでしかできない作業を、代理で行うため、今朝から行ったり来たりを繰り返しているらしい。私にしては本当にラッキーな出来事である。
普段ちょっと離れた位置でしか見られないのに、斜め前、たったの数十センチの距離に彼がいて、独り言や溜息まで聞こえる。そんな状況なのに、帰れるわけがない!そんなことを考えながら、私は眠そうな彼に声を掛けた。
「顔が・・・どんどんしんどそうになってるけど、眠いんですか?」
「眠い・・・さすがにここ数日、寝不足が蓄積してきている気がするし。」
この3日間程とにかく忙しそうだったが、この一日で疲労が顔に出てきていた。私は手元にあった食べる予定だった焼き菓子に手を伸ばすと、付箋に「疲れているのであげる」と小さい字で書いたものを貼り、彼に手渡した。
「ありがとうございます。」
もう消えいってしまうのでは?という声で彼はそれを受け取り、再びぶつぶつ言いながら仕事を始めた。ときどき私に話しかけたりしながら作業をし、10分少々経ったのち、PCの電源を切って自席に戻っていった。
私は結構喋れたことを嬉しく思い、一度席を立つとやるべきことをやってから帰りの支度をしようと戻ってきた。すると、自分の隣の同僚が再び戻ってきた彼と話しているのが目についた。何やら活発に話している・・・その様子が目に入った瞬間、私は自分が嫉妬していることにすぐ気が付いた。
何喰わぬ顔で彼女の隣の自分の席に戻り、鞄に荷物を詰めたり、デスクを片付けたりしていたが、嫌でも二人のやりとりは耳に入る。私の真横に同僚、その目の前に彼、そして私。この近距離で聞こえないわけがない。大概さっき自分と話していたことと同じだが、ずいぶんテンポよく話しており、自分との差を恨めしく思った。
心なしか荷物をまとめる手が荒々しくなっているのを、自分でも感じた。一言ここで横入りすることはプライドが許さない。私は無言を貫き、二人に「お疲れ様です」の会釈をすると、そのままドアへと向かった。ちょっと悶々とした気分でドアの外に出た数秒後、またドアが開く音がした。
振り向くと彼だった。
「あれ、帰るんですか?」
「いや、これから一旦外に出ないといけなくて。」
「車ですよね?体疲れてるのに・・・」
「まあ、体力はあるから大丈夫なんですけど。」
「じゃあ、何がダメなの?気力?」
「気力ですね。」
彼はそう言って笑うと、私が入った女子更衣室の隣の男子更衣室のドアを開けた。
私より若干早いタイミングで更衣室をあとにしたのか、既に私が出たときには彼が階下に降りたのが分かった。
1階で再び彼と合流した。
「車でって言ってましたけど、どうやって行くんですか?」
「そこで会社の借りて。」
「あ、そこで貸出なんですね。私、全然乗らないからなあ。」
二人で外に出て、彼は車の鍵を借りに事務所へ入っていった。事務所の窓口は開いていたため、私は外から「また来週」と彼に声を掛けて、帰路についた。
一人で歩き始めて、ちょっと微笑んだ。なんともコロコロ変わる気分である。ついさっきまで彼が近くにいることにドキドキし、同僚の女の子に嫉妬し、そして彼と話せたことにご機嫌なのである。
しばらく道なりに進み、大通りで信号を待っている時、ふと彼の疲労困憊の表情を思い出した。私はコートの右ポケットからスマホを取り出すと、彼とのトーク画面を開いた。いつもなら連絡するのに何分も悩むのに、今日は何故か即決だった。
「今日が終われば明日は休みですから・・・」
ここまで打ち込み、私はすべて削除した。ついついいつも堅苦しく、且つ長い文になりがちなことを思い出したのだった。もっと気軽に、さっきの同僚のように愛想よく、軽い感じで。
「事故らないように気を付けて!」
私はそれと、お気に入りのスタンプを送ると、スマホをしまった。
駅のホームにつき、私はそろそろ彼が車で出発したのではないかと思い、再びスマホを手にした。元々返事はそんなに期待していなかったが、彼からスタンプが送られてきていた。何気なく通知をスライドさせ、そこへ現れた画面に、思わずスマホを落としそうになってしまった。
「ありがとう」
その文字は当然だと思う。しかし、ピンクの文字にかわいらしいキャラクターの周りには、ハートがたくさん。決して女性が使うようなものではなく、男女ともに使いそうなものであるが、なにせハート・・・。
私の頭の中に様々な憶測が猛スピードで駆け巡った。好きでもない人に男性はハートなぞ使うのか、そもそも彼がハートを使うということが予想外すぎて、普段とのギャップに驚きを隠せなかった。何度も見返しては、どうしよう、なんなのだろう、という気持ちになり、とても嬉しい気持ちと「何故?」という疑問符がついてまわった。
よく、「好きな女性以外には、気を持たせたくないので使わない」というのが、世の中の定説にはあるが、実際彼がどういう意図で送ってきたのかは読めない。実は自分が思っていたよりも、女慣れというか、駆け引きされているのか、もしくは全然無意識で選んだのか・・・。
なにはともあれ、ハート、なのである。
ハート・ラビリンス みなづきあまね @soranomame
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