蟻ウイルス
天猫 鳴
第1話
カラン
背後でドアから小気味の良い音がする。さり気なく軽やかに響く音が
「お客さん、久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「他のバーに乗り換えたのかと」
「いえいえ、そんな事ないですよ」
真っ直ぐにカウンターへ向かった謙はマスターの正面の椅子にかけた。
「いつもので?」
「はい、よろしく」
マスターはそれほど口数の多い人ではなかったが、こんな会話が謙はたまらなく好きだった。
白髪のマスターは70代前後くらいだろうか。しかし、長年この仕事をしているだけに記憶力は確かなようで、二度目に来店した時に前回の注文を覚えていて「ギムレットがよろしいですか?」と聞いてきた。一度しか来たことのない店で常連の様な感覚を覚えたのは初めてだった。
「風邪、酷かったんですか?」
「・・・ああ」
先月来たときに軽く咳をしていたことをマスターは覚えているようだ。
「それ程酷くはなかったんですけどね。治った後からなんだか引っ越ししたくなってしまって、なんやかんやで久しぶりに足を向けてみたんですよ」
「思い出してもらえて嬉しいです」
口髭が隠すマスターの口元がほころぶ。
「懐かしい古里に帰ってきたみたいな気分ですよ」
謙の言葉に目を細めて肩をひょいとすぼめるマスターが、何だか可愛らしく感じられた。
「それにしても、マスターはお元気ですね。定休日なかったですよね、ここ」
「はい」
返事をした後、マスターは謙の前にカクテルをすっと置いた。
「働き蟻みたいなもんですよ」
「この仕事がお好きなんですね」
そう言って謙はカクテルを口に運んだ。キリッとした苦みが心地良い。
「・・・そうでもないんですが」
濁すマスターの言葉が気になった。
(借金の返済でもあるのかな?)
暗めの店内はそれなりに混んでいて資金繰りに困るような感じには思えなかった。
「昔、風邪に似た蟻ウイルスっていう病気が流行りましてね」
「蟻ウイルスですか?」
聞き覚えがかすかにあるような気がした。
「普通の風邪だと思っていたら、治った後から地下を好むようになるんですよ」
「地下に?」
「ええ」
マスターが何故か苦笑いをしていた。
「飲みに行くのも服を買いに行くのも、何故か地下のショップに気が向いてしまう。何故か落ち着く気がするんです」
「へぇ・・・」
カクテルを口に運びながら相槌を打った。
「そのうちに引っ越しがしたくなる」
「引っ越し・・・ですか?」
「次に入居するのは半地下や地下のフロアーの部屋。値段が安いからとか音楽を気兼ねなく楽しめるから・・・と、自分で納得してしまうんですけどかなりウイルスに操作された状態なんです」
マスターの話を聞きく謙の手が止まる。
(あれ? ちょっと待てよ、俺が引っ越したのは・・・・・・)
謙に気付いてか気付かないでか、珍しくマスターが話を続ける。
「そのままほっておくとだんだんお尻が大きくなってくる。その姿が蟻に似ているので蟻ウイルスと言うんです。まぁ、それだけのことです」
(確か、この店に来る前にも風邪を引いたような・・・)
そう思いながら謙は自分のお尻に手を持って行った。
(そうだ、最近パンツのサイズが合わなくなって新しく買った。太ったのかと思っていたが)
謙の頭の中を医者の言葉が流れていった。
「大丈夫だと思いますが、地下が気になり始めたらもう一度受診して下さい。もしもお尻が大きくなるようでしたら・・・・・・」
(その後、何て言っていた?)
熱があったのもあるが変な事を言ってると思いあまり注意して聞いていなかった。
「その当時、国が流したウイルスじゃないかって噂が流れたんですよ」
「え?」
医師との会話を思い返していた謙は、突然出てきた「国が流したウイルス」という言葉に引き戻された。
「蟻ウイルスにかかった人は昼夜かまわず働き続けるようになって、そのうち働きすぎて突然死してしまうんです」
(働き続ける?)
そう言えば、最近土日も仕事をしているが苦にならなかった。
「税金を納めるだけ納めて、公共の施設を優遇して使える年齢になる前に死んでしまうんです」
謙の心の隅を何か嫌な気配が流れていった。
「私は軽くかかっただけなので睡眠だけはしっかりとれてますけどね」
恐る恐るカウンターの中を覗いた謙が目を向けたのはマスターのお尻。そこにはバスケットボールふたつ分程の突き出たお尻があった。
蟻ウイルス 天猫 鳴 @amane_mei
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