第16話


 出かけよう、というリオ様からの提案をお断りさせていただいて数日。明らかに私達の関わりは減った。いやもともと朝食とお出迎えと夕食くらいしか顔を合わせなかったし、私側からの会話をやめてしまえば、驚くほど何もなくなった。



 リオ様も何も言わない。けれども心の中では困惑して、どうすればいいのかと困っている。俺が余計なことを言ったから、と後悔して、いいやこれでいいんだ、とため息をついていた。それでもやっぱり、と考えて、顔を上げて、息を吐いてそのままお仕事に向かった。



 リオ様が気にされることなんて、なにもない。誰が外に出ようと誘ったら気まずくなると思うだろう。ただ私自身が偏屈で、おかしいだけだ。そう、おかしなだけなんだ。




 ――――私は、ずっとこのまま生きていくつもりなんだろうか




 リオ様に離縁されたあとに、まあこれは仕方のない話だった! と自分で納得して、またカルトロールの屋敷の離れに戻って畑を耕す。リオ様は10ヶ月の法律があるから、大丈夫と思っていらっしゃるけれど、それはあくまでも普通の令嬢の話であって、もとが変わり者の私だ。ああやっぱり、と思われるのがオチで、私をもらってくれる奇特な男性なんて、きっともういやしない。



 だからまた一人で生きていくのだ。これからも、ずっと。

 それはなんてまあ、楽な生き方だろう。

 でもそんなの、無理に決まっている。



 今まで私自身が自由にできていたのは、お父様がいたからだ。伯爵家という権力があって、何もかも投げ捨てて生きていくことができた。これじゃあ駄目だと、ずっとずっと心の底では気づいて、考えていた。だから今回のリオ様との婚姻も、いい機会だと思ったのだ。それが蓋を開けてみれば、彼が離縁を望んでの婚姻だったなんて、思いもしなかったけど。



 でもそれでもいいと思った。変わりたいと思ったから。カルトロールの屋敷の外に出たとき、目眩がした。すぐさまに馬車の中に乗り込んで、映りゆく景色を眺めることもできなくて、ただただ体を硬くして、膝の上で拳を握った。御者の鼻歌が聞こえた。伯爵家御用達の御者だ。まさか本当に歌っているわけがない。心の中で、彼は故郷の歌を口ずさんでいた。




 おいしいオレンジ、すてきな、むぎほ


 きらきら星をかきわけて、わたしは、あなたに会いに行く




 きらきら星、とはきっと麦穂のことだろう。食べたオレンジがあんまりにも美味しかったから、一目散にあなたへ向かった。そんな歌だ。顔を上げた。いつの間にか景色が変わっている。たくさんの屋根が並んで、人が行き交い、急いだり、笑ったり、みんな外を生きていた。でも時折聞こえる声が怖くて、耳を塞いだ。それでもたくさん聞こえてくる。



 私は、なんで生きているんだろう。




 人は一人では生きていけない。離れに一人きりで住んでいると言っても、父や、たくさんの人の力を借りてそんなふりをしているだけだ。私は人と関わることができない。なのにどうして。



 ただただ重たい気持ちで馬車から足をおろした。小さな荷物だ。本当に、私は何をしに来たのだろう。自分が嫌になって、色んなものが重たくなって、そのまま消えてしまいたくなった。そんなとき、ふと屋敷を見上げた。



 可愛らしいお家だった。カルトロールに比べれば小さな、という意味にもなってしまうかもしれないけれど、茶色い、今にも剥がれ落ちてしまいそうな瓦で、庭だって樹木が重なってよく見えないけれど、よくよく見てみれば荒れ放題だ。なのに、どこか安心した。きっと隙もなく、ぴっしりと綺麗で、見栄えのいいどんなお家よりも、ほっと息ができた。肩肘を張らなくてもいいんだと思った。



 それから、綺麗なオレンジが生っていた。

 とっても美味しそうだな、と思ったとき、御者の歌が聞こえた。



 ――――きらきら星をかきわけて、わたしは、あなたに会いに行く




(リオ・フェナンシェット様……)




 彼はどんな形でも、私を必要としてくださった。


 だから私は、そのオレンジの木を見たとき、彼につくそうと決めた。想像とは違った婚姻生活だったけれど、彼はやっぱり優しい人で、周囲の人たちもそうだ。きっと、リオ様が誠実な方だから、そんな人達が集まってくるのだと思う。初めて茶色い瓦を見上げて想像した旦那様より、彼は素敵な心を持った人だった。いつも心配事がたくさんで、困って、心配して、優しくしてくれる。



 なのに私ときたらどうだろう。


 他人の心を覗いて、ほっとしたり、勝手に不安になったり。ずるをして、逃げて、ずっとそう生きてきた。屋敷の外から、一歩踏み出すことすらできない。





 これはただの鉄の扉だ。カルトロールの家から来たとき、簡単に通り抜けることができた。だから、出ることも簡単だ。そのはずだ。右足を、踏み出そうとした。


 門扉をくぐり抜けて、少し道を抜けると市場がある、とシャルロッテさんが言っていた。ただそこに向かうだけ。頬に当たる風は冷たいけれど、いい天気だ。お散歩日和に違いなくて、庭にはきらきらとオレンジの葉っぱが揺れている。


 なのに、駄目だった。


 入ることはできる。あの可愛らしい家が、私を守ってくれる。そう思える。なのに出ていこうとすると駄目だった。足がすくんで、あの日、リオ様のもとへと向かおうと決意した勇気なんてどこかに消えて、ただのやくたたずになってしまう。



(もう、いいや)



 結局、私が彼にできることと言えば、別れることだけなのだから。やくたたずが、何ができるわけもない。だからもういい。残りの8ヶ月、屋敷の中を掃除して、料理して、見かけだけでも楽しく生きよう。それからまたカルトロールの家に逃げるんだ。守ってくれる家さえあれば、私はこの屋敷から抜け出せる。もういい。




 おかえりなさい、といつもどおりに声をかけて、扉を開けた。今日はいつもよりも早いお帰りだ。普段はとっぷりと日が暮れているのに。


 口元を柔らかくさせて、瞳を丸く。作り笑いには慣れている。



「もうすぐ、お夕食が出来上がりますよ。シャルロッテさんに教えていただいたんです」



 なので、きっと、良い出来栄えになります、と声をかけても、リオ様は玄関から動かない。不思議に思った。顔は硬くて、距離が遠いから、彼が何かを隠しているということくらいしか伝わらない。もう一歩近づけば、きっとわかる。でもまあいいや、と踵を返そうとしたとき、「エヴァさん」



 呼ばれた。


 初めて彼に名を呼ばれた、という驚きはあったけれど、その程度だ。首を傾げたとき、彼のその大きな背に隠されていた花束が、ぬっと眼前に突き出された。真っ白い花が可愛らしい包装紙の中にしきつめられている。



(このところ、元気がないようだから)


「ただの貰い物だ。私には必要ないものだから」



 同時に聞こえた声に混乱した。それから腕いっぱいの花を受け取って、彼が頬を染めながら花屋に注文している姿が流れ込んで、なぜだかひどく幸せな気分になって、それなのに、涙が零れそうになった。



「……ありがとうございます」



 きちんと声に出ただろうか。


 自分が今、どんな表情をしているのか。そんなことも、わからなかった。


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