第6話
目の前がくらくらする。結局、どうすればいいのかと廊下を幾度も行ったり来たりを繰り返して、諦めてベッドの中に入り込んだときには朝方だった。
妻として、夜まで帰ってこない。その上、手すらも出してこない男とは、一体どうなのだろう。いやこれには事情があって、決して俺が望んでいるわけじゃなく、金はないが、せめてできるだけのことをさせてもらえたら――――と、自分のベッドの上で考えたところで、ため息をついた。これは、ただの俺の自己満足だ。
結局、離縁を求めている男の考えなど、優しかろうと、そうでなかろうと、彼女にとってどちらも同じだろう。いいや、それどころか。
『リオ、考えてみてくれ』
兄上の言葉を思い出した。
『もし正直に、エヴァ様に事実をお伝えてしてみろ。離縁は望んでおりますが、それまでの間は精一杯優しくさせていただきます、よろしくお願い致しますということだろう? こいつは何を言っているんだと思われるのが関の山だ。それよりも冷たく接して、あの男は悪いやつだったと。別れて正解だと思っていただく方が、互いに気が楽じゃないのか?』
どうせまともな出迎えもできないのだし、という言い訳と共に、うまいこと兄上に転がされたような気がするが、何にせよ俺は彼女を犠牲にすることを決めたことに間違いはない。
持参金は返せないけれども、結婚はしない、と突っぱねるより、結婚してから、離縁して、持参金は使ってしまったから、時間はかかるが返済する、と告げる方が現実的なことも理解していた。
たとえ俺の給料の10年間分だろうと、必ず返してみせると誓っていても、俺は会ったこともないエヴァさんよりも、家族を選んだのだ。
正直であれと、そう言い聞かせて生きてきたつもりだった。なのに何故こんなことに。
(いや、何を都合よく逃げているんだ)
もとは兄上の提案だとしても、選んだのは俺自身だ。まるで被害者のような顔をすることは間違っている。一番被害を被っているのは、エヴァさん本人ではないか。
ならば覚悟をすべきだった。彼女にしっかりと嫌われて、あんな男はこちらから願い下げだと、そう思ってくれたらいい。
きっちりと服を着替えて、窓に映った情けなくたれた眉毛に力を入れて、のしのしと歩を踏みしめた。『リオ、大丈夫だ』 兄上が言っていた。『お前の性根はただの室内犬みたいな男だが、背はでかいから迫力はある。令嬢に嫌われるにはもってこいだ。安心してくれ』 余計なお世話だとさすがに叫んだ。
部屋を出て、廊下を見たとき、ふと違和感に襲われた。昨夜は暗くてよくわからなかったが、部屋の所々がきらめいているような気がする。隅にはホコリだらけ、土だらけな真っ黒な廊下が、まるで人の住処になっている。とくに俺の部屋がある2階の端は、客も来ない場所だとひどい惨状だったはずなのに。
部屋の数は大して多くはないものの、結局どの場所でエヴァさんが一泊を過ごしたのかさえわからず、落ち込んだ。もともと夜這いをする気はないが、何があるかもわからない。彼女の部屋の把握は必要だと考えて、一室一室ノックをすべきか、でもそれだと下手に勘違いされても、と悶々と考えている間に、時間ばかりが過ぎていった。
せめて俺のいない間は自由にして欲しいと思ってのことだったが、どの部屋を使っても構わない、だなんて言うんじゃなかったと後悔した。
ふと、鼻をひくつかせると、妙にいい匂いがする。すんすん、とふらついた体でキッチンにたどり着いた。ここばかりはもともとある程度の整理はしていたため、そこまで変わった姿ではないが、エヴァさんが鼻歌まじりに厨房に立っていた。そうして彼女と目が合った瞬間、改めて罪悪感に支配され、素早い速さで目をそらした。いや、先程覚悟を決めたばかりじゃないか!
そうだ、俺が心の中でどれだけ謝ろうと、彼女に届くわけがないし、結果も変わらないのだから。強く息を吐き出して、彼女を見た。真っ青な、綺麗な瞳だ。昨日も見ていたはずなのに、頭の中はすっかり別のことでいっぱいになっていたらしい。本当に情けない。
「リオ様、おはようございます。厨房を少しだけお借りしておりました。勝手をすみません」
「いや、それは構わない、が……」
簡素なエプロンをして、こちらに微笑む彼女を、ゆっくりと見下ろした。(“芋令嬢”?) 思わずクグロフ兄上が例えていた言葉を思い出して、俺も兄に言えないな、と自分自身を嫌悪した。エヴァさんはエプロンで手を拭きながら、ちらりとこちらを見た。
(本当に、噂は噂なんだな。可愛らしい方じゃないか)
確かに、俺自身が知る記憶の中のご令嬢よりも、適度に日焼けしているが、真っ白くて折れてしまいそうな体つきよりも、こちらの方が安心する。黒に近い緑の髪はつやつやしていて、まるで絹のようだ。可愛らしい、というよりも、美しいと言うべきなのだろう。俺よりも低いことは当たり前だが、女性にしては少し背が高いかもしれない。すらりとしていて、人の目を惹き付ける。
こんなに美しいのならば、何も俺のところに来なくてもよかっただろうに、とまたしても不憫に感じた。クグロフ兄上と話していた際、もしかすると俺とエヴァさんは、知らずどこかで面識があって、今回の申し込みになったのではないかと不思議がられたものの、そのとき否定したように、改めて心の中でも首を振った。
これだけ魅力的な女性、いや18の、成人したばかりと聞いているから、少女と言えばいいのかもしれない。そんな彼女と出会ったことがあったのなら、きっと記憶の中にしっかりと刻み込まれているに決まっている。そうに違いない……、と延々と寝ぼけまなこに考えていたとき、なぜだか気づけばエヴァさんはエプロンのひだ部分を顔まで引っ張り上げて、部屋の端でうなだれていた。
その上彼女の耳もとが、驚くほど真っ赤に染まっている。
「一体なにが……まさか、火傷をされたのか!?」
「ち、違います! 違いますから! ですから少し落ち着いてください!」
ああよかった、とさすがに肝が冷えた。美しい彼女の体に、傷の一つでもつけてしまえば、それこそカルトロール伯爵に申し訳が立たない。思わず素に戻ってしまった自身に叱咤した。なのに彼女はやはり苦しげな顔をして、こちらから逃げるように視線をそらした。気づいた。
(初夜か!?)
やはり行くべきだったのか。いや行くわけにはいかないが。
申し訳なかった、いや申し訳ないと心の中で謝る声は、しばらく自身の中から消えそうにもない。いい加減、誰か俺のことを思いっきり殴ってくれないだろうか?
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