たくあん好きの社畜が異世界に飛ばされた話
東屋猫人(元:附木)
第1話 飛ぶ
夜空には真ん丸の月。綺麗な星空の広がる澄んだ夜だった。川には清流が流れ、蛍が集まるということでプチ観光地になったこともある。そんな風情のある景観に目もくれず、自転車をがちゃがちゃと言わせて漕ぐ鬼のような形相の女がいた。名を篠崎優紀という。
「あんっっっのクソ上司、私が、家遠いの知ってて、残業させてんだろうな、クソ、いつか、ぶん殴る!」
ぜえぜえと息を乱しながら自転車を漕ぐ。家はこの田舎にあるが仕事は市内に近いところにあるクリニックで医療事務をしていた。市内に出るのはそこそこ時間もかかるし、電車の本数は少ない上終電がこの田舎まで乗るとなると八時三十分と早めの設定だ。おかげさまで今日は終電にギリギリ乗り込み、鬱憤晴らしついでに全力で自転車を漕いでいたのだった。
流石に二十分も全力で漕いでいると息も続かない。疲れて、一旦自転車を降りる。とぼとぼと夜道を歩きながら転職しようかななどと考える。最近残業も増えてきたし…。給料はきちんと残業代が出るから良くはなっているのだけれど、さすがに身がもたない。労力と対価の不釣り合い甚だしいというものだ。この仕事して資格も取ったし、思い切って引っ越しと転職、してもいいかもなあ…と考えに耽る。
なので、気が付かなかったのだ。後ろから近づいてくる車が、端によりすぎていることを。その車が、酒気帯びで優紀の姿を捉えてなどいなかったことを。
気が付いたら、撥ね飛ばされて反転した視界に迫ってくる車のタイヤと、離れたところに転がるひしゃげた自転車が見えた。
これはまずい、轢かれる——咄嗟に体を丸めて防御姿勢をとった。
「はっ!今何時⁉」
ぱちりと目を覚まし起き上がる。すると目に飛び込んできたのは見慣れた自分の部屋——ではなく、波音の美しい海岸だった。
「…バカンス?」
つい口をついて出たのは呆けた一単語だった。
〇
その頃、市内の病院にて。
処置を施されベッドに横たわる——優紀がいた。折れた手足にギプスがはめられ、顔にこれでもかとまかれた包帯が痛々しい。
傍には年老いた母親が涙をぬぐいつつおとなしく椅子に掛けて優紀を見守っていた。
「篠崎優紀さんのお母様ですね?」足取り軽やかに医師が部屋へ入ってくる。
「ええ、そうです。この子は…この子は大丈夫なんですか?」
「ええ、骨折をはじめとして外傷は見受けられますが、幸い脳にも内蔵にもダメージは見受けられません。じきに目を覚まされると思います。…ただ、残念ながらお顔の擦過傷は傷跡が残る可能性もあります。ショックでしょうが、命あっただけでも幸いでしょう。」
「そうなんですか…。」ほっと息を吐く。
「救急隊員の言う所見では、轢かれる直前に防御姿勢をとっていたのだろうとのことでした。私も外傷から見てそう思います。…お子さんは良い判断をされました。」
「ありがとうございます、先生…」
そういった母親はおもむろに鞄に手を伸ばす。誰もがハンカチを出すのだと思った。しかし手にしていたのは——沢庵。
沢庵…?と室内の全員の思考がぴったり一致したその時
「優紀――!起きなさい、あんた無事なのよ!好物の沢庵だって持ってきたんだから!早く起きなさい!」
真空パックの封を切って、優紀の顔面に押し付ける。包帯が黄色く染まってゆく。
「お母さん⁉病院で、病院で沢庵はやめてください!」
誰か、誰かーー!と叫ぶ医師、思わずナースコールを押した対面のベッドの患者。その日のうちに室内に足を踏み入れたものは全員「沢庵…?」と疑問符を浮かべるほどには強く香りが残っていたという。
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