ためらいは力強く

 11月3日、火曜日。曇り。祝日。午後から訪問入浴があるので、その前に母の髪の毛を切っておいた。


 昨日、往診の先生が来てくれた。先生と助手のような人。それに加え訪問看護師とケアマネ。おれと母を入れると総勢6名もの人間が狭いリビングに集まったのである。みっつみつの状態だ。雨が降っていたが窓を開けた。


 まず今後の方針について話し合う。

 今まで行っていた病院には行かなくても良いか、どこかが痛いと言い出したらどうするか、血糖値はまだ一日2回測る必要があるか、そして最大の問題点であるてんかんの大発作が起きた時にどうするかということを相談したかったのである。


 まず病院への通いは「おまかせします」とのこと。なので今後は家に来てもらって往診を受けるだけにする。月に一回ストレッチャーで病院に連れて行くのも納得が行かなかったのでこの件はそれで終わり。


 次に、どこかが痛いと言い出した場合。これは往診に電話。24時間体制で看てくれるらしいが、他の急患のところと被ったらどうなるのだろうか。


 血糖値に関しては今後も測れと言われた。めんどくさいが仕方がない。

 これに関してはおれにも落ち度がある。母の退院日、おめでとうの意味で甘いものを少しずつ食べさせていたら血糖値が300を越えた。その数値を確認した往診の先生は目をむき、今後も測るようにと通達されたのだ。母よすまん。


 最後にてんかんの大発作が起きた時。ここが今後の大きな分岐点になることは間違いない。そして、まず間違いなく起こる。

 今までは救急車を呼んでいた。家では何もできることがないのだから当たり前だ。救急車で運ばれたあとは、短くとも約2週間の入院になる。

 だが終末期にあたる今、2週間の入院で何かが良くなることは見込めない。今は面会もできないので今生の別れとなる可能性も高い。


 目の前には母がいるので、それらの悪いシナリオを頑丈なオブラートにまとめてくるんでぎゅうぎゅう詰めにし、往診女医の耳に突っ込んだ。


「発作が起きたら救急車、以外の方法はありますか。私としてはできれば入院はさせたくないです、お金がかかるので」


 こちらの意を察してかどうかは分からないが、先生は声を低めにした。低めにしても母は目の前にいるので特に意味はない。


「前回の入院時、10月7日ですか。この時は今までの発作を抑える点滴だけでは効果がなかったそうです。なのでそこに別の薬を足したとの報告を受けています」


 ならやはり救急車で運んで入院するしかないのか。腕組みして考えていると、誰かが意見を上げた。たくさん人がいたので誰かは覚えていない。


「救急車を呼んでも、到着までに10分ほどかかります。ならば座薬を入れ、同時に訪問看護に連絡。その後の様子次第で救急車というのはどうでしょうか」


 医学的知識がないので、点滴で効かなかったものが座薬になったら効果を発揮するのかは分からない。けどそれが母にとっては最善の選択かもしれない。もう問答無用で入院はさせたくないのだ。


「じゃあそれで行きましょう」


 そうとしか言えない。ただ、急患はうちだけではない。不安をそのまま口にする。


「もし訪問看護さんが、すぐに来れない場合はどうしたらいいですか」

「10分以上かかる場合は、まず息子さんに座薬を入れてもらって。15分くらい経っても効果が現れない場合は、救急車を呼んでもらった方がいいですね」


 あの緊迫した場面で15分間待つことを想像し、胃の底の方が冷える気がした。そもそも今色々計画を立てたところで、その通りに進行するはずがない。極限の焦りの中、やれ10分経った、まもなく15分だと時間を測ることができるほど落ち着いていられるかどうか。


「じゃあ、まず発作時は座薬を入れますわ。おれが。で、訪問看護さんに電話するんで、どうしたらいいか指示してもらって。多分それがおれの限界だわ」


 こんがらがったり考えるのをやめると、誰が相手でも無礼な口調になる悪い癖が出た。こうなると自分のことを「私」と言うほどのメモリすら割けないのだ。


 いろいろ考えてみたが、実際そうするしかない。その場で時計見ながら固まっているよりは「指示くれ」と割り切ったほうが良い。救急車を呼びたくない、家にいさせたいが医療知識はない。なら医療知識のある人間に指示を出してもらうしかないのである。


「ところで息子さん」


 訪問看護師が話を変えた。


「座薬を入れたことはありますか?」


 ない。もしかしたら子供の頃、それこそ母に入れてもらったことがあるのかもしれないが、覚えていない。


「できそうですか?」


 多分できそうです、と応える。やったことがないから確証がない。だがうんこ掃除もできるようになったので、できるんじゃないかと思い込むことにする。


「浅いとすぐ出てきて意味がなくなってしまうので……」


 浅いとは。


「こう、人差し指の根本まで入れるようにしないとダメです」

「ねもと」


 看護師が指で作った輪っかに、人差し指を根本まで通している。それを見ながら虚ろなリターン。


「できそうですか?」


 看護師は先程と同じ質問をしてきた。

 やれる、やりますと答えなければならない場面だ。それをしなければ危ないのだから、やるしかない。

 だがおれの口から出てきた言葉は


「た、たぶん……」


 という弱々しいものだった。だが実際にその場面になったら、うんこ掃除と同じように迷わずブスリとできるはずである。ねもとまで。たぶん。

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