呼び方の問題なんですが ネクストドア
恐らく我が家でのみ使われている単語がある。いくつかある。当然のことながら、それらの言葉は父から発せられる。何度注意しようが、長きに渡って変えようともしなかったそれらの言葉の一部を少しだけご紹介したい。
まずは「アンテナ」。
名称自体は極めて普遍的なものだ。電波を受信する為の道具であり主に屋外に設置されるものだが、どういうわけか父のベッドにもある。
父が寝る前には全身に薬を塗らなければならない。かゆみ止めのクリームだ。実際にかゆいのか、ヒマだから全身血だらけになるまでかきむしっているのかは分からない。
月曜から土曜まで、おれがそれを担当している。そして布団をかけ、テレビを点けてリモコンを渡し、車椅子をベッドの横に設置後、電気を消して眠らせるのだ。
日曜日は兄がそれを代行してくれる。隣のリビングでその様子を眺めているのだが、必ず何かしらを忘れる。週に一回だから仕方がないのだが、電気かテレビか車椅子のどれかを必ず忘れる。特にテレビが多いようだ。
すると「アンテナ! アンテナ寄越せ!」と父が絶叫。そこで助け舟を出し、兄に「リモコンのこと」と毎度のように伝えるのである。
テレビのリモコンを「アンテナ」と認識し続けること30年以上。恐らく死ぬまで修正されることはないと思われる。エアコンのアンテナ、扇風機のアンテナもあるので必要に応じて手渡さなければならない。
既存の言葉を別の言葉で勝手に上書きする機能は他にもある。
例えば新聞は「ニュース」、NHKは「テレビ」、天気予報も「テレビ」といった具合だ。
14時頃になるとニュース取ってこいと必ず言うが、それが「夕刊を取ってこい」という意味だとは一聴した限りでは分からない。
話は移るが、「ズック」という言葉はご存知だと思う。ご存知だとして話を進める。靴のことである。おれの感覚としては死語に近い。正直、口に出すのはかなりためらわれる。ベストのことをチョッキと呼ぶ恥ずかしさに通じるものがある。
一時期、敬愛するミュージシャン、ニール・ヤングのマネをしてずっとベストを着ていたが、それをチョッキと呼ばれて赤面したことを思い出した。ていうか真似して着るというのが赤面ものであるがそれはこの際不問に付す。思い出すと恥ずかしいからである。
ズックの話だ。父のおつとめ先(老人ホームのこと)から電話があった。年配の方が電話をくれたのだが、どうも父が何を希望しているのか分からないらしい。
「今お部屋に到着したのですが、ずっと『ズック履かせろ』っておっしゃってるんです。屋内で土足はダメなのでどうしたものかと」
「それはスリッパのことです」
「え?」
「極端に語彙が減っている為に起こるバグです。すみませんがスリッパ履かせてやってもらえますか」
年配の方だったから「履き物」という認識が合致し、すんなりとまとまった。もし若い人が担当だったなら「何言ってんだこいつ」となってズゴックのプラモデルでも渡していたかもしれない。
上記は、多くの人が知っている言葉であるが為に混乱を巻き起こした例である。逆に全く知らない言葉で現場を悲劇に陥れることもある。
「ハミック」という聞き慣れない言葉は歯磨きを指す。爽快感の残る語感から音速の青いネズミや、宝箱に擬態して冒険者に襲いかかるモンスターを想像されるかもしれないが、ただの歯磨きのことである。
恐らくは日本語でも英語でもない。メキシコにはエル・カネックという覆面レスラーがいるので若干気持ちは揺らぐが、当然スペイン語でもないはずだ。
覚えている限り、一番ヒドい時は
「ハミックのタレがない」
と言っていた。歯磨き粉がない、と言えばそれで済むものをわざわざ誰にも伝わらないようにする意図が理解できない。その言葉を聞いてから20年位経ったが、いまだに理解できない。
他者に合わせる能力が完全に欠如した今となっては、ますますこういった謎の言葉が増えていくことと予想される。実際、最近になって四点杖のことを
「さお」
と言い張る謎の新型エラーも加わった。車椅子のことも
「くるま」
と呼び始めた。
ここまで来た以上注意する気もない。どうせ言っても聞かないのだから無意味である。
むしろどこまで語彙を削り落とせるのか、どこまで言葉の意味を広げるのかという狂った観察眼で生暖かく見守っていきたい。見守っていきたくはないがそうせざるを得ない。介護対象兼観察対象である。
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