まるで記憶の中の8月31日

 今月曜日。水曜日になると父が一ヶ月のおつとめから戻ってくる。

 本音を言えばあと2年くらい入所していて欲しいが、本人からすれば「やっと家に帰れる」というタイミングで1年延長というのはさすがにどうか。言うなれば水中で1分間の息止め練習をしている人間の頭を58秒経過の時に押さえつけるようなものだろう。人でなしとしか言いようがない所業である。


 戻って来た際に、我が家が抱える問題が露出する。一つは睡眠、もう一つは食事についてだ。


 現在、一階では母と兄が寝ている。母がコールボタンを押すことにより2階のおれの部屋のチャイムが反応、階下へ駆け下り車椅子でトイレへと連行する。

 この際、兄は起きない。起きないでよいと伝えてある。運送業で寝不足は致命傷になりうる。けどそれでも起こしてしまうことはある。車椅子の音は思ったよりも深夜に響くのだ。


 ここに頻尿の父が戻ってくる。するとどうなるか。想像がつかない。少なくとも今後おれは2階の自分の部屋で寝ることはできないだろう。狭い1階になんと一家四人で寝ることになる。見る人が見たらエジプト時代の平民の埋葬のパクリかと笑われるかもしれない。エジプト時代の平民の埋葬がどんなものだったかは知らんが。


 最も危惧しているのは、要介護者同士によるトイレの奪い合いというこの世で最も醜いアルマゲドンの勃発である。

 互いに切羽詰った老夫婦のいがみ合いは骨肉ならぬ糞尿の争いとなり、なんか色々飛び散ることが既定路線。片付けるのを想像しただけで家を出たくなる。サーティーワンのアイスで当てはめればダブルって可愛いしファンシーだけど、うんこと尿のダブルはふんしーで地獄のかほり。なんでサーティーワンという名前を出したかは全然わからないが、特に恨みはない。


 アルマゲドンが起きる可能性は高い。まあまあ高い。なぜならば両者共、夜中に3回ほどトイレに行くからだ。かち合わねえわけねえじゃん、まじでどうすんべえとスルメをかじりながら思うのである。


 手っ取り早いのが、どうにかしてトイレに行かせなくすること。特に父はヒドい日は10時間の睡眠で5回以上戦場へ赴く。これを防ぐにはもう催眠術しかない。

 正直に告白すると、おむつは大変に面倒臭い。面倒で臭いのだ。できればやりたくない。やられる方も決してやられたいわけではないと思うので、できればやらないという答えは介護者と要介護者双方の利に沿っている。

 なので「入所したくてたまらなくなる」といった内容の催眠術を使えばいいのであるが、残念なことに催眠術を使ったことがないのでこの話はこれ以上展開しない。


 結果、睡眠時の問題を抱えたまま父の出所を迎えることと相成った。見事な無策のままアレヨアレヨと一月が経過してしまった。今の私は、夏休み最後の日に山積みになった宿題を泳いだ目で見つめている、計画性のかけらもないバカすぎるガキそのものである。


 もう一つの大きな問題が食事。

 これはもう、無理。やる前から白旗を上げる。どちらか一人なら面倒見ながら食事を作ることはできた。なんとかできた。だが二人を見ながら包丁なんか振るえるわけがない。なぜか決まって火を使い出した途端にトイレに向かうのだ。それがダブルになったらもうどうしよう。サーティーワンで例えるとどうなるのか。


 どうしようか考えた末、誰かに頼ることにした。老人向け配食弁当を使うことにしたのだ。塩分カロリーその他もろもろ計算されているし、量も決まっている。ド素人のおれが作るよりも遥かに体に良い物を出してくれるはずだ。

 普通の小サイズの弁当が380円と税。糖尿病用のものが750円と税。前者一択である。ピンポイントで狙ってるねえ。まあ2型糖尿病なんて自分のせいと言ってしまえばそれまでだけど。

 介護タクシーにしてもそうだが、老人向けとか介護向けの外面をしておきながら容赦なくより弱いところからの利益を追求するのはいかがなものか。企業としては正しいが、頼む側からするといささか疑問を感じる。


 特にこないだの介護タクシー、片道5000円というのは同業者に聞いても「高すぎません?」とのことで無駄にムカムカして来た。だいたい何が「同乗しますか? しなくても結構ですが」だ。バカかおめえ、一緒に帰らなければ誰が家の鍵を開けて誰が車椅子用のスロープを引っ張り出すっつーんだ、炎天下の中走って帰れってか。いやまあそのまま言い返しましたけど。「おれが一緒に帰らないでどうすんすか? 家の鍵は?」と首ひねりながら聞きましたけど。


 この思い出しむかつきは、なんとか目の前の難関から目を逸らせようとしている意識の現れであることは明白である。食事の問題は片付いたが、睡眠時の問題がまだ何も片付いていない。このままだと令和の今、我が家のみがエジプト時代スタイルで夜を迎えることになる。

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