第42話 私の愛は届かない

 あの、真夏がハートリストとかいう麻薬のような薬を打たれてから三日が過ぎた。この日は雨の降りそうなほどに鬱屈うっくつとした曇天どんてんで、琳音くんが自傷行為に走ったことも思い出して最悪の目覚めだった。


「今日も行くの?」


「うん。琳音くんって頭いいし、藤峰ふじみねだと私のたった一人の友達だから」


 お気に入りのスニーカーに履き替えていると、後ろのパソコン室から母が顔を出して私に尋ねてきた。母は異性のことになると、どこか執着的な人になるほどに純粋なところがあるからあまり大したことは言えない。


「そう。今日は雨って予報で言ってたし、気をつけるんだよ」


 あれ? スリー・コインズの話をした時はどこか激昂した様子で私を責めたものだけど、彼女は琳音くんの名前を聞くと静かに部屋に戻って引き戸を閉めた。


 納屋から自転車を取り出して、埃を払ってから跨がる。毎日乗っているのに、いつも納屋にしまうと自転車は埃にまみれてしまうのだ。

 ケホケホ咳き込みながら自転車で家を出て、緩やかな坂を登って交差点に入る。歩道があるから自転車に乗ることができるが、車道は制限速度を超えて走る自動車が音を立てて道を通り、隣町の籠山まで走っていく。


 自動車に気をつけながら、少し涼しいそよ風に逆らって自転車を病院まで走らせていく。脳内は体力の消耗のせいか、どこか異質な世界を私の脳裏に見せつけてくる。スリー・コインズのケントが琳音くんにキスした様子をイメージしながら、また琳音くんには真夏という恋人がいて、私は彼を男から寝取ろうとしている。


 四年間会えないまま、お互いに思い合ってやっと会えた恋人同士のことを思うと少々罪悪感を感じざるを得ない自分がいた。


「琳音くんは私のものなんだから。離さない」


 独り言をぶつぶつ呟きながら国立大学の医学部が研究する場所でもある県立病院まで坂を登って、そこからは自転車から降りて歩いて坂を登る。

 正直、藤峰駅からバスが出ているほど急な坂なのでそこでもさらに体力を削られながら進んでいくが、その先に琳音くんがいると思うと不思議と坂への疲労感が失われていった。


 病院に着いて、駐輪場に自転車を停めると、後ろから何か女子たちの黄色い声が聞こえてくる。


「あっ、千代真中ちしろまなか!」


 誰かの低い声が私の名前を呼んで指を指してきた。後ろを振り向くと、そこにはレインコート を羽織ったレッテの女性や、彼女たちに混じって健常者の追っかけたちが私をじいっと見つめてきた。

 穴が開きそうなほど、大量の目に見つめられて私は脳内が真っ白になる。生まれてから十四年、そんな経験はほとんど無かったからだ。ネットならともかく、現実世界で似たようなことをされると正直冷や汗をかいてしまう。


 現に、私は全身の体温が冷えていくのを感じ、その場から動けなくなっていた。何分か沈黙が続き、女性の群れの中から私に近づこうとする人が出てきた。彼女が持っているのは石だ。投石するつもりだろうか?

 その可能性に気づいた私はようやく体が動く感覚を覚え、そのまま荷物を持って病院へ走り出した。


「逃さねえぞ! おい真中!」


 女とは思えないほど低い声が私を脅迫して追いかけてくる。だが、病院の入り口に入って警備員が走り逃げる私に声をかけてきてくれた。


「真中ちゃん、何かあった?」


「スリー・コインズのファンが……、石を持って追いかけて……」


 ゼエゼエ言いながら酸素を求める私はめまいを覚えながら、必死に彼に説明した。動こうとしてくれない脳味噌を無理矢理使ってする説明は、マーガリンを一箱丸ごと食べたときのような脂臭さを体の奥底から吐き出して気持ち悪い。


「真中のクソアマぁ!」


「ちょっとお嬢さん、あなたはスリー・コインズの関係者の方ですか? 彼女はあの事件の被害者のところへやって来るんです。雨が降っても、風が強くても、あなた方の好きな芸能人が来れない日でも」


 用があるのは入院患者なんです。入院患者でない彼らに用はありませんよ。そう彼女たちに警備員が諭している間を使って私はこっそりエレベーターへ向かう。使い古されたエレベーターで、私はセボリーニャを手に持った真夏とばったり会った。


「おはよ、真中。……って、大丈夫か?」


 よろめいて倒れそうになる私を、真夏が抱きとめてくれる。夏にしては寒い曇天の日なのに、真夏の体温は高い。この温かさやぬくもりが琳音くんにとっては生きる上で大事なのだ。そう思うと、涙が自然と湧き出て手が止まらない涙を拭い続ける。


「真中、大丈夫か?」


 心配してくれる真夏の珍しい紳士らしさが顔を覗く。私を抱きとめて、彼はそのまま慰めてくれる。


「さっきの姉ちゃんたちに追われたんだろ? 自転車で体力使って、ただでさえ疲れてるのに災難だな」


 頭を撫でられる感触を覚えて無意識に頭を上げると、そこには琳音くんに見せる顔をした真夏がいた。


「こうやってよお、頭を撫でて優しく目を細めるんだ。すると、女子はオレにときめいてくれる」


「経験ありなの?」


「まあ、琳音と会えなくなってから立ち直ろうと頑張った時期があってなあ、その間に女子を落とす仕草を覚えちまったみたいだ。琳音には内緒だぞ?」


「うん。私、やっぱりあんたのことは嫌いでいられる。ありがとう」


 そう微笑み返すと、真夏は苦笑いして私の手を繋いで琳音くんの病室へ連れて行ってくれる。


「やっぱりお前らしいな。安心した」


 常駐している警察官に挨拶すると、私はそのまま病室の扉を静かに開く。すると、そこにはどこか驚いた様子の琳音くんがベッドの上で私を見つめていた。彼の横にある椅子にはスリー・コインズのケントが座っている。ちょっと前に、琳音くんとキスしたあのケントが。


「おはようございます。……外ですごい追っかけに遭遇した……しました」


 凄い人気なんですね。嫌味を含んで私が彼に泣き上げた顔で話す。できるだけ声を鎮めて、かと言ってよく通る声で、彼に自分がされたことを遠回しに告げた。


「投石されかけました」


「トウセキ? そんな体型じゃないだろ、キミは」


 どうやらケントは透析と勘違いしているらしい。私は悪気なさげに笑う彼の頬を叩いて精一杯叫んだ。


「お前は真夏に謝れ!」


「は? なんのこと?」


 殴られた頬を押さえながら、ケントがケロっとした表情で聞き返す。クーラーがガンガン効いた部屋だからか。周りの空気は淀んで寒い。それなのに、興奮気味の私は全身が熱く感じられて怒りをぶつける。


「琳音くんにキスしたこと! アンタが帰った後、琳音くん泣いてたんだから!」


「……そうなのか? 琳音。オレとお前は友達だろ?」


「友達同士でキスってするものなの? いい加減にしなさいよ!」


 私はすっかり怒髪天だった。朝、出かける前にセットした髪が乱れるのに気づかないままケントの胸ぐらを掴んで叫んだ。


「ここが籠山かごやまじゃなくてよかったな! 籠山だったらお前、籠高かごこうのヤンキーどもにしばかれてたぞ!」


 すっかり女の子らしい表情を捨てて睨みを効かせる私に、真夏がとうとう後ろから押さえて止める。


「オレはいいよ。レッテはキスして友情を示すこともあるんだ」


「…………」


 真夏の落ち着いた説明を飲み込んだ私は、さあっとケントへの怒りが消えて、逆に羞恥心と謝罪しないといけないという義務感に駆られていた。


「ご……、ごめんなさい。私、あなたのファンに追いかけられて、石を投げられそうになって……。警備員さんに助けられてやっとここまできたの」


「ああ……。ペンガールか。そのことについてはごめん。次から気をつけるよ」


 今度は逆に真剣な表情で頭を下げるケントに、私は困惑する。その横で泣き声が聞こえるので、気になって彼をよそに声のする方を振り向くと、琳音くんが泣いていた。

 恋人の前で拷問されてまだ気が気でないのかもしれない。いや、私がレッテの風習を知らないままケントに殴りかかったからだろう。彼らの風習を知らない私が馬鹿だった。ああ、好きな人に最悪なことをしてしまった。


「なんでだよ……まなか……」


 ヒッ、イッ、と時々肩をしゃくり上げながら泣く彼の声はどこか少女のように感じられる時がある。同い年の男子より高い、下手すると女子よりも高いその雲雀ひばりみたいな泣き声の琳音くんは、ベッドにふて寝してその泣き顔を見せまいとしている。今までなら、普通に泣き顔を見せてくれたのに。


「ごめんなさい。本当に……。無知って恥ずかしい……」


 私も床に頭をつけて土下座する。自然と涙が流れて、また真夏が私を止めようとして胸の下あたりを抱いて私を立ち上げさせた。


「琳音が好きなら土下座なんてことはするんじゃねえ。もっとプライド高く生きろ」


「で、でも……」


「琳音は自分をどん底に落とすような奴は嫌いなんだ。誇り高く、自分の意見を持って生きる奴の方が友達としても接しやすいんだよ」


 最近、麻薬を打たれて病院で治療を受けていたとは思えないほど強い力で抱き留められる。思春期の少年の、いや、真夏の愛がなす回復力に心から驚かされる。


「ねえ、真夏。今度俺がペンガールたちに追いかけまわされた時は助けてくれよ、なあ?」


 うつ伏せになる琳音くんが顔を横向きにして、私たちを見やる。涙で赤くなった目からは、私への嫉妬がよく見て取れた。


 ペンガールはスウェーデン語で『お金』を意味する言葉だ。それなのに、その単語で呼ばれる自分たちの意味に気づかない彼女たちは愚かだ。私のように。


「真夏、愛してる」


 そう涙声で話し、微笑む琳音くんはどこか妖艶な雰囲気がした。私みたいな巨乳で安産型、幼いアニメ声のような、いかにも男子が好みそうな可愛らしさとは違う。


 真夏の方を振り向くと、彼は赤い頬を染めて、琳音くんの端正な顔をじっと見つめている。男、女、琳音の三つの性別が彼の中に、私の中にあるのだとその時に気付いた。


「オレも。なあ、昔はよく言ってたよな。『愛してるの意味が分からなくても生きていける』って。そんなことないだろ?」


「……うん」


 琳音くんの睫毛から涙がこぼれ落ちる。その光景の美しさに見惚れていた私は、結局真夏の代わりさえ果たすことができないのだ。女だからじゃない。繋がりが、お互いにかける意思が弱いからだ。


 真夏になれたら、どんなに幸せだろう。私は夢心地に寒い空気の中で思いを巡らせるのだった。

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