終 思っていた理想とはちょっと違うけど

 ベージュってあたし向きじゃない色だと思うの。もっと自己主張の強い色が好きよ。だって、ベージュってなんだか控えめな印象じゃない?

 寝室の壁に下地代わりのベージュのペンキを塗っていく。コロコロコロコロ塗っていく作業も嫌いじゃないわ。それにあたしの魔力ってこういうときとっても便利よ。高いところまで手が届くもの。

 思わず現実逃避をしたくなっちゃうのは【旦那様】がじーっとあたしのことを観察しているから。

 確かに絵を教えてあげるとは言ったけれど、これってなにかが違う気がするわ。

「……旦那様? さっきからあたしのことじーっと見ているけれど手は全く動いていないわ」

 ささっと描ける水彩クロッキーを薦めたつもりなのに、うっとり眺められるだけど言うのはどういうことだろう。

「壁を塗り替えるアンジェリーナが美しすぎて目に焼きつけるだけで精一杯だ」

「そういうのはいいから。真面目にデッサンして」

 絵を習いたいと言うから、どうしてもあたしをモデルにしたいと言うから付き合っているのに【旦那様】は変なところだけぶれないのよね。

「目の前にこんなにも美しいアンジェリーナが存在するというのに一瞬でも白紙に視線を向けるなんて君の美に対する冒涜だと思うよ」

「……それは旦那様の為だけに絵画教室を開講したあたしに対する冒涜だと思うわ」

 普段はあたしのこと宗教みたいに崇めているくせに。

 ちょっとむかむかしながらも下塗りが終わってしまう。

「もういいわ。ぶっつけ本番よ! さぁ、鳥さんを描くわよ!」

 壁に絵を描くときはちょっと難易度が高い。あたしはどの角度でもペタペタ絵の具を塗れるけれど、絵の具の方は重力で垂れ下がって行っちゃうからそうならない工夫が必要。楽なのはアクリル絵具ね。初心者の【旦那様】でも扱えると思って別館の画材をごそごそしたらそれっぽい物をたくさん見つけたわ。それに、水彩絵の具を自作出来る材料もごっそり見つかったからたぶん手当たり次第になんでも買って揃えたのね。【旦那様】はお金の使い方が豪快だもの。

「やっぱり、私はアンジェリーナが描く姿を見物していることにするよ」

「だめよ。夫婦の共同作業なんだから」

 夫婦の寝室だもの。二人で仕上げた方が良いに決まってるわ。

 結局描くのは銀星風琴鳥ギンボシフウキンチヨウというところまでは決まったのだけれど、【旦那様】は中々筆を手に取ろうとしてくれない。

「そんなにあたしとの共同作業は嫌?」

 大袈裟に悲しい表情を作ってみせる。

「そんなことはないよ。ただ……本当に……絵心のなさが……」

 あ、まずい。これは完全に落ち込むあれね。

「大丈夫よ。じゃあ、線画はあたしが描くから、一緒に色塗りしましょう? それにね、飽きたら別なの描き直せばいいじゃない。ね?」

 もしくは壁を破壊して作り直せばいいわ。それに、塗り絵ならいくら【旦那様】だって楽しめるはずよ。心を落ち着かせるのにとってもいいのよ。

「ほら、旦那様、絵具もいい感じよ? ペタペタ好きな色で塗ったら楽しいわ」

「しかし……アンジェリーナの作品を壊してしまうことにならないかい?」

 ほんっと、こういうところは頑固ね。

「旦那様が色を塗ってくれないとこの子は完成しないわよ? 旦那様が塗らないとあたし、仕上げしないわ」

 拗ねたという様子を見せれば【旦那様】は少し慌てて事前に用意した絵具の入ったお皿を手に取る。

「……その、手順を教えてくれないか?」

「え? 好きな場所に好きな色をぺたぺたって重ねればいいのよ。絵って自由なものだもの。あれこれ気にしていたら楽しく描けないわ」

 【旦那様】は肩の力が入りすぎなのよ。手を取って筆を握らせる。

「いい? 迷ったらそれも筆に出ちゃうから、潔く! ばばって塗っちゃうのよ」

 緊張した様子の【旦那様】の手を強引に握って壁に筆を走らせる。

「うわっ、そんな勢いよく……」

「ほら、こうやってたくさん重ねて。銀星風琴鳥は特徴的な羽毛だから、光の当たる方向を考えるとそんなに難しくないわ。それに、どうせあたしたちしか見ないのよ? ピンクに塗っても銀星風琴鳥だって言い張ればそうなるのよ」

 そう言っても【旦那様】は踏ん切りがつかないみたい。

「出来ないなら性格の不一致で実家に帰らせて貰うわよ?」

 脅迫に出る。

「待ってくれ。私は今更君をハニー伯爵家に返す気なんてないよ」

「旦那様にその気がなくてもあたしはいつまでもうじうじと壁に絵具も塗れないような夫じゃ困るわ」

 慌てて引き留めようとする【旦那様】に更に追い打ちを掛ける。

 あたしって性格悪いわ。知ってたけど。

 けれども【旦那様】も負けていないかも。

「嫌だ。君を手放したりなんてしない」

 さっきまで、強引に手を握っていたのはあたしの方なのに、いつの間にかぎゅっと抱きしめられている。

「首輪と鎖が必要かな?」

「あたし、わんこじゃないわよ」

 意地悪な表情を見せられてどきりとする。こんな表情もできたのね。

 あたし、まだまだ【旦那様】のことよくわからないわ。

「アンジェリーナが私の元から離れないと言うのなら君の好きなように過ごさせてあげるけれど、君が私から離れると言うのなら、私は君の行き先を全て潰すしかないかな?」

 笑んでいるように見えるけれど、空気が冷たい。

 もしかして、本気で怒らせちゃったかしら?

「本当に参ったな……初めはアンジェリーナの作品を独占するだけで満足していたつもりが……日に日にアンジェリーナに触れたくなるし、アンジェリーナを独占したくなる……。作品に熱中しているアンジェリーナを眺めていられるだけで満足だったはずなのに……その手を妨害してでも腕の中に閉じ込めてしまいたくなる……」

 伸びてきた【旦那様】の手が、あたしの顎を撫でる。くすぐったいのか、ときめいたのか、それとも単なる恐怖か。背筋がぞくぞくしてしまう。

「……いや、仕上げないとおいしいディナーかわいいアンジーはお預けだな……」

 一瞬、あたしの服の釦に手を伸ばしかけた【旦那様】は状況を思い出したように溜息を吐く。

 美形ってずるいわ。たったこれだけの動きでも宗教画みたいな神秘的な雰囲気なの。

「……旦那様、あたしのことどういう目で見てるのよ……わんこ扱いしたりもうっ!」

 偶像だったりわんこだったり激ダサだったりいろいろありすぎてよくわかんないわ。

「旦那様の前でくらい、女の子でいたいって思ってるのに……」

「そう? 私は、どんなアンジェリーナも好きだよ」

 冷たい空気が嘘のように柔らかい笑みを向けられる。

 本当に【旦那様】の気分は移り変わりやすくて困るわ。

「嫌われたって、きっとあたしは変われないけど……」

 前世の嫁を思い出して比べるのは【旦那様】にすごく失礼なことだと思ってるし、あのさえない男とあたしはもう別物だと思ってる。だけど、やっぱり、失敗の経験をちょこっと引きずってる部分があるのか全力でぶつかりきれていない部分がある。

「あたし、旦那様に嫌われたっていいから、旦那様にも全力でぶつかって欲しいわ。言いたいことちゃんと言わないのってお互い良くないことだと思うの」

 あたしってとってもわがままだからきっと【旦那様】だって言いたいことがたくさんあるはず。

「私が君を嫌うはずないだろう? 私の方が……君に嫌われないか不安だ」

 前よりは、思ったことを言ってくれるようになったと思う。けど、まだ少し距離がある。

「意外かもしれないけれど、あたし、あんまり誰かを嫌うってことないのよ?」

「けど……君だって私に付き合いきれなくなる日が来るかもしれない」

 本当に浮き沈みの激しい困った人ね。でも、飽きなくていいわ。

「確かに、時々面倒くさいと思うときもあるけれど、でも、退屈よりはずっといいわ。あたし、旦那様ってとっても個性的で面白い人だと思ってるのよ」

 面倒くさいなんて言ったらまた沈んでしまうかしら?

「私を面白い人なんて言ってくれるのは君だけだ」

 少し困ったような笑みを向けられる。けれど、この表情も好きよ。

「あら、それってみんなの見る目がないだけよ。もしくは、旦那様がとってもあたし向けってことね。さ、早く終わらせないと今夜は別々のお部屋で寝ることになるわ。頑張って」

 また【旦那様】に絵筆を握らせる。

「あたし、このお屋敷に来る日からずっとこれを楽しみにしていたのよ」

「アンジェリーナ……もし私が君の壁画を許さないような人間だったらどうするつもりだったんだい?」

「……その時は……実家に帰るか壁を爆破するかのどっちかね。旦那様がとっても柔軟な人ですっごく嬉しいわ」

 そう答えながら自分の分の絵具を溶く。あんまり濃くなり過ぎないように、それでも固まっちゃわないように気をつけながら。

 ちらりと横目で【旦那様】を見れば、やっぱり緊張した様子で、それでもゆっくり絵筆を動かし始めている。

 思っていた理想とはちょっと違うけど、こういうの、いいわね。

 あたし、今すっごく幸せよ。

「えいっ」

 壁に思いっきり絵具を飛ばす。飛び散るときの不規則な撥ね方って手描きじゃないと出せない表現で好きよ。

「アンジェリーナ……豪快だね」

「バケツで思いっきり壁にぶちまけるのも楽しいわよ」

 答えながら【旦那様】を見れば頬に絵具が撥ねてしまっている。それでも、美形ってやっぱり美形よ。ずるいわ。

「じゃあ、とりあえず、地下室の壁で遊んでみるかい?」

「それ、すっごく素敵。そうよ、旦那様も自信がつくまでこっそり練習しちゃえばいいの。そのうち外壁に大作を描きたくなるわ」

 大きな方が幸せだもの。

 一瞬なにかを考えるように固まった【旦那様】は楽しそうな笑みを見せる。

「ああ、アンジェリーナの一番弟子というのは中々稀少な地位だな……私を弟子にしてくれるかい? 先生」

「うーん、師弟ごっこも楽しそうね。呼ぶときはアンジー師匠でお願いするわ」

 まだお互い、知らないこともたくさんあるし、合わない部分だってもちろんたくさんあると思う。でも、別の人間だからそれでいいのよ。

「思いっきり楽しい物をたくさん作りましょう」

「ああ、よろしく頼むよ、アンジー師匠」

 ふわりと笑んだ【旦那様】は不安定さなんて全く感じさせなくて、求婚してくれたときのきらきらそのものに見える。

「お屋敷中賑やかで楽しくしちゃいましょうね」

 焦らなくていい。

 たぶんあたしはこれから先も無遠慮で【旦那様】を傷つけちゃうこともあるだろうし、【旦那様】は【旦那様】で不安定であたしを呆れさせることもあると思う。

 でも、それでいいのよ。

 あたしはあたしに求婚してくれた素敵な【旦那様】に興味しかないのだもの。一生飽きないし飽きさせないわ。

 熱心に壁の塗り絵に向かい始めた【旦那様】の背後にそーっと近寄る。

 そして、後ろからばっと抱きつけば、驚いたようで、絵筆が大きくずれた。

「アンジェリーナ?」

「完璧じゃない方が楽しいわ」

 やっぱりピンクも混ぜましょうと言えば、少し困った笑みを見せられる。

 うん。こっちの方があたし好み。

 完璧じゃない、弱気でへたれでむっつりな【旦那様】があたしの【旦那様】なんだから。



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