26 十九歳児はちゃんといい子にお留守番出来るわ


 近頃、【旦那様】は少し早起きになった。あたしにおはようのちゅーをして、それでもまだ寝てていいよと部屋に残しどこかへ行ってしまう。

 軽い運動を始めたらしい。ジョギングとかならあたしも健康の為に一緒に行こうかななんて考えたけど結局浮いちゃうし、浮いてるときは遅いから置いていかれちゃうわね。なんて考えてベッドでごろごろしている。

 少し遅めの朝食でも叱られることはない。【旦那様】は軽く済ませ、午前中のお仕事を始めている頃にあたしの遅い朝食。お昼と晩は一緒に食べるようにしているけれど、別館に行くとついついお夕食の時間に遅れてしまうのよね。

 別館で作業に熱中してしまうとまた【旦那様】が悲しそうな顔をして扉の前に立ってしまうから今日は画帳と色鉛筆だけを取りに行った。その帰りにチャドと遭遇する。

「あら? チャド。今日はどうしたの?」

 凄く疲れ切っている様にも見える。

「どうしたのって……ジルの『軽い運動』に付き合わされてたんだよ。ぜんっぜん軽くない。あいつ、うちの部隊の鍛錬を軽々とこなして更に模擬戦闘だぞ……全部付き合わされる俺の身にもなってくれ」

 あらあら、そう言えばチャドは一応兵士だったわね。チャドより体力があるなんて、【旦那様】は意外と運動も出来る人だったのね。

「あたし、旦那様が運動するところ想像できなかったのだけど、チャドより体力があるのね」

「ああ、ジルは大抵のことは涼しい顔でこなす。ここ数年は不安定だったがそれこそアンジーくらいの歳の頃はジュール様の護衛と試合して勝ったり、軍の訓練に参加したり、そこそこ有名なんだけどな」

 チャドは息を整えながらも話を続ける。

「ご婦人方の相手は苦手だけど仕事も相当出来る。ジルが苦手なのはアンジーとまともに会話するくらいじゃないか?」

 からかうような声に、少しムッとする。

「馬鹿言わないで。あたしはもう少し前までのアンジェリーナ・ハニーとはひと味もふた味も違うのよ。今は旦那様に毎日可愛がってもらってる完璧なかわいいアンジーだもの」

 自分史上一番のドヤ顔を見せればチャドは少し呆れた顔をする。

「アンジー……とうとう幻覚でも見たか? また寝込み襲って逃げられたんじゃ……」

 一体何日前の話をしているのよ。

「あたしはもう旦那様と念願のいちゃらぶ生活を手に入れた無敵のアンジェリーナ・ハニーよ。いいえ、結婚したからジェリー姓ね」

 いけないいけない。まだくせが残ってしまってるわ。

「いちゃらぶ生活? あのジルが?」

 チャドは完全に疑う顔をしている。確かに普段の【旦那様】からは想像できないかもしれない。うん。今までの【旦那様】しか知らないとあたしが近づいたら気を失うようなイメージかも。

「今日のお洋服だって旦那様があたしに選んで下さったのよ?」

 こないだマダムのお店で試着したくつろげる服だ。ボルドーのリボンがかわいいからミツバチのバッジでデコレーションした。

「そういやアンジーが珍しく大人しい服着てるなって思ったんだよ。へー、ジルってこういう趣味なんだ」

 チャドは少し驚いた様子を見せる。けど、いちゃらぶの部分は信じてくれていない。

「アンジェリーナ」

 後ろから【旦那様】に呼ばれた。

「なぁに?」

 返事をしたのとほぼ同時に後ろから捕獲される。

「べ、別に逃げないわよ……」

「うん。ちょっとアンジェリーナ不足で……」

 意味がわからない。首の臭いを嗅がないで欲しい。

「ああ……落ち着く……」

「どうしたの? あたしの臭いあんまり嗅がないで欲しいのだけど……」

 まだ知らない【旦那様】の性癖があるのかもしれないわね。

 一歩間違えなくても変態よ。

「すまない。アンジェリーナはいつも蜂蜜の匂いがするから……」

 ああ、そういうことね。

「いつも保湿に塗ってるクリームが蜂蜜入りだからかしら?」

 振り向けば青い瞳に見つめられた。

「ああ。それに髪も蜂蜜の匂いがする。唇も」

 大きな手があたしの唇に触れる。キスしてくれるのかなと期待したけれど、親指に撫でられただけだった。

「別館に行ったら君がいなくて不安になってしまったよ」

「別館で集中しすぎるとまた旦那様に心配されてしまうと思ったから今日は画帳と色鉛筆を持ってきたの。どこで絵を描こうか考えていたらチャドに会ったわ」

 まさか行き違っていたなんて。あたしが気遣いすると裏目に出るのね。

「君の行動を制限する気はないよ。ただ、本当に、門限だけ守ってくれれば……」

 手を掴んでその甲に頬をすりすりされるのも大分慣れたけれど、そのきらきら美形がそんなことをしないで欲しいと思ってしまう。

「門限をついつい忘れちゃうのよね。時報でも付けないとダメかしら」

 でも集中しすぎると音が聞こえないのよね。なんて話をしているとチャドががくがく震え出す。

「え? 嘘だろ……ジル……お前どうしちまったんだよ……」

 ああ、【旦那様】の豹変に驚いているのね。

 確かに普通はこの光景を幻覚だと思ってしまうだろう。

「ん? どうかしたのかい?」

「いやいやいや、いくら嫁相手でもジュリアン・ジェリーがそれやっちゃダメだろってことを連発されたら反応に困るに決まってるだろ」

 やっぱりチャドから見てもそうなのね。

「私がしたらだめなこととはなんだろうか?」

 本気でわからないと言う様に首を傾げる【旦那様】には別に驚きもしないけれど、チャドは頭を抱えて深いため息を吐く。

「いや、だからさ……アンジーの首の臭い嗅いだりとか、手の甲に頬ずりしたりとか……腰を撫で回そうとするな!」

 あたしより先に注意してくれるなんて感激ね。

「だいぶ慣れたけどやっぱりダメよね。旦那様のことは大好きだけどやってることは変態だと思ってるわ」

 まぁ、ものすごく嫌って程じゃないからもう放っておくしかないとは思っているけど。

「旦那様に可愛がって貰う為の対価だと思えば少しくらいは我慢してあげようと思って」

「え? アンジェリーナ、嫌だったの?」

 本気で驚かれても困る。そして悲しそうな顔をしないで欲しい。

「嫌というか……あんまり人前でそう言うことをされると……旦那様の評判が地に落ちてしまうと言うか……美形がこれやっちゃだめっていう感じが凄くして……ううん、旦那様の人生だもの、旦那様が好きなように生きるべきだとは思うけど……」

 うん。あんまり美形の無駄遣いをしないで欲しいとは思ってしまう。

「アンジェリーナが毎日かわいすぎて自制できそうにないよ」

 やっぱり【旦那様】は頭のご病気なんじゃないかしら。

 そう思うのにぎゅっと抱きしめられるとやっぱり嬉しくなってしまうからあたしも問題ね。

「アンジェリーナが目の前で呼吸してくれているだけでも幸せだというのに……毎日こんなに触れられるなんて……」

 やっぱり重症よ。

「お医者様を呼んだ方がいいかしら?」

「……アンジーは自分の夫が頭の病気だって診断されてもいいのか?」

 チャドが呆れたように言う。【旦那様】の頭を相当心配しているわね。

「うん。そんな気はしてきた。旦那様は時々おかしいの。でも変人同士お似合いだと思うことにしているわ」

 あたしは常におかしいから問題ないわ。

「ところで旦那様、お疲れのようだけどなにかあったの?」

 あたしが足りないなんてどうしたのかしら。

「あー、いや……その……客人が……ちょっと特殊な方が来てね」

 あまり語りたくはない様子だ。

「またあいつが来たのか?」

 どうやらチャドは知っているらしい。

「あいつ?」

「あー、ちょっと特殊なやつでさ」

 チャドもなんだか言いにくそうだ。あたしには話したくないというよりは、その人自体をあまり話題にしたくないという印象。

「あー、なんつーか……ジルを性的な目で見てるっつーか……昔自殺した婚約者に似てるだとかで……」

「なにその女。あたしがとっちめるわ」

 あたしの【旦那様】をどんな目で見ているのよ。【旦那様】の腕から抜け出してそいつに一撃食らわせてやろうと思ったのにぎゅっと抱きしめられていて身動きが取れない。

「いや……その……客人は男性なんだ……」

 凄く暗い声で【旦那様】が言う。

「え? 旦那様の貞操の危機?」

 男なら男で問題よ。【旦那様】は男だって魅了しちゃう美貌の持ち主だわ。たとえ【旦那様】が拒んでも無理矢理なんてことが……。

「だめよそんなの! 旦那様はあたしの旦那様よ!」

「アンジーがどんな想像したかなんとなくわかるけど、今のところそれはないから大丈夫だ。精々ジルの手を握って頬ずりする程度だ」

「十分だめに決まってるじゃない。そいつの頭にテープを貼って思いっきり剥がしてやるわ」

 地味に痛いんだから。

 鼻息荒く、あまり【旦那様】の前では見せたくないような顔をしながら決意を固めたのに、優しく頬を撫でられてしまう。

「アンジェリーナはそんなことをしなくていいよ。一応取引相手なんだ。今のところ大した実害も……私の胃が少し痛む以外はないから安心してくれ」

 そんな! 【旦那様】の胃にダメージを与えるなんて!

「だめよ。旦那様の胃を壊していいのはあたしだけよ!」

 思わず叫べばチャドが溜息を吐いた。

「アンジー……嫉妬の方向がおかしいぞ」

「だって、あたしだってまだ旦那様の胃は壊してないのよ。あたしより変な人が居るなんて旦那様が心を奪われちゃったらどうするの? あたしより旦那様に可愛がられるやつはみんな敵よ」

「いや、ジルはそいつに迷惑してるから一番可愛がられているのはアンジーだよ」

 子供に諭すような声で言われてしまう。

「アンジェリーナは私の胃を壊したいのかい?」

 どこか楽しそうな【旦那様】に困惑してしまう。

「旦那様、今あたしになら胃を吐くほど酷いことやらかされてもいいとか思っちゃったでしょ?」

「アンジェリーナはなにをしてもかわいいから」

 本当にお医者様を呼ばなきゃだめね。

「別のお医者様に診てもらった方がいいかも……いつものお医者様は旦那様を甘やかし過ぎなんだわ。こんなにおかしなことばかり口走っていても回復傾向だなんて」

 あたし【旦那様】の正妻のはずなのに、あの医者あたしには治療方針や症状の説明してくれないのよ。あたしが悪化させると思っているのでしょうけど。

「それで? あたしの旦那様にセクハラ行為を働くのはどこのどいつかしら?」

 とっちめてやらないと。やっぱりテープを思いっきり引っ剥がしてやるわ。

「あいつに君を見せたくない」

 ご機嫌取りというよりは、ただ甘えたいという風にあたしの胸元に顔を埋める【旦那様】。これは余所では絶対見せちゃだめなやつよ。

「確かにその弾力はあたしもお気に入りだけど旦那様、あまり人前でこういうのはだめよ。折角の美形が……勿体ないわ。きりっとしてるととっても素敵なのよ? あ、でもあたしに甘えてくれるのはちょっと嬉しいかも……」

 思わず【旦那様】の頭を撫でる。さらさらとした髪は本当に綺麗ね。やっぱり少し切って素材にしちゃだめかしら。

「ジル、頼むから余所でそういうことしないでくれよ? ご婦人方の評判が一気に下がるから」

 チャドは顔を覆いながら言う。

「ご婦人の評判が下がるのであれば積極的にしたいところだな……つきまとわれるのにはうんざりだ。私は……アンジェリーナだけ居てくれたらそれでいい……出来ることなら領地に引きこもってアンジェリーナと二人で過ごしたい」

 そう言えばこの人夜会が苦手だったわね。

 人の胸にすりすりしながら言うことじゃないとは思うけど。

「あー……アンジーを嫁にもらったからもう夜会に行く必要ななくなったってやつか……アンジー、なんか言ってやってよ。一応貴族の義務的なやつだろ?」

 チャドはあたしを説得しようとしてその根拠が思い浮かばなかったようだ。

「あたしは夜会好きよ。自慢のドレスを披露できるもの。女の戦場よね。当然あたしが一番だけどそれを確認するにも良い場所だわ」

 だってあたしが一番輝いているもの。

「ほらほら、ジル。かわいいアンジーをみんなに自慢できるぞ? 少なくともジュール様の招待は断れないだろう?」

 チャドが唆す。あ、夜会に行きたくないってごねていたのね。

「旦那様、王宮主催のは行かなきゃだめよ。クリスを完璧に仕上げるって約束したもの。旦那様が行かないならあたし一人でも行くわ」

 するとすりすりが止まる。

「わ、私を置いていくのかい?」

「旦那様が行きたくないなら無理強いはよくないわ。でも、クリスとの約束は約束よ」

 ミドルネームも考えておかなきゃいけないわ。

「嫌だ。アンジェリーナが綺麗に着飾った姿は私が独占したい」

 子供のように駄々を捏ねられ驚く。やっぱり不安定よね。

「チャド、こんなに不安定な旦那様を連れ歩いて大丈夫かしら?」

「……俺に訊くなよ……医者……いや、医者だってこの状況見たら頭抱えるだろ……」

 普段はあんなにきらきらしている【旦那様】が子供返りしちゃってるものね。

「あたし、旦那様と一緒に行くのとっても楽しみだったけれど……旦那様が嫌なら一人で行くしかないわね」

 悲しいという表情を作って、ちょっぴり嘘泣きして見せれば【旦那様】は慌てた様子であたしの頬に触れる。

「行くよ。アンジェリーナ、だから泣かないで」

 あっさり引っかかるのね。胸が痛むわ。

「旦那様はあたしに甘過ぎよ」

 こんなの悪い人にすぐに騙されちゃうわ。

「アンジェリーナのドレス姿がとても楽しみだよ」

 うん。いつもの【旦那様】ね。ここ最近のいつも。

「まだなにを着るか決めていないのよね。ドレスコードも特に決まってないみたいだし」

 いっそドレスコードを決めてくれた方が楽なんだけど……。色とか、テーマとか。

「今回は妹の引き立て役になるべきよね。なるべく大人しい格好を……」

 ミツバチちゃんは封印ね。

「珍しいな。アンジーが自分から大人しい格好だなんて」

「そう? 今回は妹の引き立て役に徹しようと思ってるから、そうね。ヤドクガエルみたいなドレスにしましょう」

「十分派手だろ」

 驚きを見せたチャドはすぐに呆れに変わる。

「警告色の女はやっぱり警告色か」

「旦那様は青がお好きみたいだから青いドレスにしようかしら」

 あんまり自分では普段選ばない色よね。

 ヤドクガエルがテーマとなるとすぐにデザインが降りてくるわ。

 手に持った画帳を開けばやっと【旦那様】の腕から解放される。

 なるほど。あたしの作品作りの邪魔はしない主義なのね。

「いつもと違うアンジェリーナも楽しみだな」

「任せて。旦那様はどんなのを着る予定? それに合わせようかしら」

「ああ、私の服はどうでもいいよ。アンジェリーナが好きな装いをしてくれればそれで」

 この人、美形なのに自分の外見にほんっと気を遣わないのね。

「あたしに求婚してくれた日はなにを基準に選んだの?」

「アーノルドに任せきりだからね。着るものを選ぶのは少し面倒に感じてしまうんだ」

 普通求婚する時くらい気合い入れて服を選ぶと思うのだけど。

「アンジー、あれ酔った勢いだったからジルはあまり深く考えてなかったんだ」

 チャドがひそひそと教えてくれる。

「チャドが飲ませたの?」

「あー、いや……その……あまりにもアンジーがかわいいかわいいうるさかったからついけしかけたって言うか……丁度他にもアンジーに声掛けそうな男がいたから急がないと他のやつに取られるぞって……言っちまったんだよな……」

 元凶はこいつか。

 けどまあ、そのおかげであたしは今の幸せ生活を手にしたわけだから……。

「チャド、あたしの作品五つまでなら好きなの持っていって良いわ。結構いい値段付くと思うからそれなりに生活が楽になるんじゃないかしら」

「な、なんだよ急に」

 チャドは困惑した様子を見せる。

「チャドのおかげで旦那様に求婚されたならムカつくけどお礼くらいしなきゃいけない気がしたの。でもやっぱりムカつくからわざわざ新作を作ってあげる気になれないわ。だから、別館に置いてある作品で好きなのあったら五つまでなら持っていって良いわ」

「だめ。アンジェリーナの作品をチャドなんかに渡せるか。物の価値がわからないにも程があるんだ。チャドは……君の作った彫刻に座ったり……カップにお茶を注いだり……私の蒐集品が……」

「たぶんそれ、チャドの使い方があっているやつよ? 座ったのって椅子がくっついたやつでしょ?」

 隣にエミューが立った椅子よね。あれ、結構座り心地がいいのよ。お庭に置いて読書をするのにぴったりだと思って作ったの。

「うん。ジルって、アンジーの作品は勿体なくて使えないって言うからさ。将来的にはアンジーの博物館作るらしいし」

「使わない方が勿体ないわよ」

 カップにお茶を注がないならなにに使うのよ。もうっ。

「大体あたしの博物館作ったところで旦那様しか喜ばないわ」

 博物館って言うのはもっと……わくわくするものでなきゃ。

「アンジェリーナはどんな博物館を作ったら喜んでくれるのかな?」

「世界の危険生物。とくに警告色の生き物たち」

 創作意欲がつんつん刺激されちゃうわ。そんな博物館がこっちにもあったら素敵よね。

「アンジー、本当に警告色好きだな」

 チャドは呆れている。有毒生物が好きなのよ。

「なるほど。生き物の輸入となると少し面倒だが……五年以内には実現させよう」

 急に仕事の出来る男みたいな表情になった【旦那様】に驚く。

「え?」

「学術的観点でも価値はあると思うし、是非、アンジェリーナの名を冠した博物館を実現させようじゃないか」

 結局あたしの名前を入れる気なのね。

「本気で言ってるの?」

「たぶん五年以内に立派な博物館が出来てると思うぞ。ただ、危険生物ばっかりだから標本とかになるかもな」

 そりゃあそうよね。オオスズメバチなんてその辺に放ったら大惨事になるわ。まぁ、ミツバチちゃんはスズメバチに勝てるけど。

「ヒョウモンダコとの触れ合いコーナーとかあったらあたしは嬉しいけど」

「死人が出そうだからやめてくれ」

 チャドの顔色が悪くなる。冗談よ。食べても食べられても有毒だもの。

「触れ合いコーナーか。毒を抜けば問題ないかな?」

 どうやら【旦那様】は乗り気らしい。困ったわ。冗談だったのに。

「あの、旦那様? あたし、そこまで有毒生物と触れ合いを楽しみにしているわけじゃないわ。動物そんなに好きじゃないもの。気が向いたときだけちょっと触ってみたい程度よ?」

 あれだけ絵の具の中に手を突っ込んでも平気だけど、動物はそんなに好きじゃないの。モチーフとしては好きだけど。

「そうかい? なら展示だけにしておこうか」

 どうやらもう博物館を作ることは決定事項みたい。でも、あたしの博物館を作られるよりはマシね。きっとあの出来損ないの人形まで展示されるだろうし。万が一の時はメイクを直すわ。ええ。

 それにしても生物の輸入って国の許可とかいろいろ面倒なはずなのにどうするつもりなのかしら?

 そんなことを考えていると『端末』に通知が入る。


 ジルが危険生物を大量に輸入しようとしているけどなにがあったんだい?


 ジュール様だ。そしてなぜかもう情報が伝わっている。どういうこと? と【旦那様】を見ればどうやら『端末』を使いこなしていたらしい。あれでジュール様に連絡したのか。王子様の権力を使って輸入するつもりなのね。


 かわいくないのは却下して。


 そうメッセージを送り返す。

 ジュール様っていまいちあたしと趣味が合わないのよね。なんて考えていると【旦那様】の方に連絡が入ったみたい。

「とりあえずヤドクガエルは揃えられそうだよ」

 どうして蛙から始めちゃったのかしら。

 それにしても一体どうやってジュール様を頷かせたのかしら。蛙のあの丸いフォルムはジュール様基準のかわいいに含まれてしまったのかしら。

「鮮やかな蛇や蜥蜴も集めるよ」

 凄くいい笑顔で言われても困るわ。別に写真でいいのに。

 でも配色の参考になるし、創作意欲が刺激されるからあたしにとっては悪い話ではないのよね。

「チャド、博物館から危険生物が逃げ出さないようにしっかり警備してね」

 別にチャドが博物館の警備係と決まったわけじゃないけれど、なんとなくそう口にした。




 チャドは上機嫌な【旦那様】に引きずられてどこかへ行ってしまったので、あたしは一人でドレスのデザインをまとめる。まぁ明日一日頑張れば【旦那様】の分も仕上がりそうね。警告色夫婦なんて素敵じゃない。【旦那様】にはミツバチカラーのタキシードを作る予定よ。

 着る物に拘りがないみたいな【旦那様】だけど、たぶんクリスティーナを仕上げてたら自分もなにか欲しいって言い出すと思うの。あたしのキャンバスになりたがる人だもの。だから先に服だけでも作っておこうって。でも服を作ると靴も合わせたくなるじゃない? だからジュール様をパシることにしたの。アランにデザイン画を届けてもらったら夜会までには間に合うはずよ。

 それにしても『端末』は本当に便利ね。これで型紙を作ればプリンターで縫いしろ込みで印刷出来るのだもの。裁断がとっても楽よ。流石に裁断まで機械にお任せはちょっと欲張りすぎよね。たぶんジュール様の前世ではそのくらいの技術はあったのだろうけれど。

 そう、いくら未来の技術の知識があったとしてもそれを実現出来る技術力がこちらにないと無駄になってしまうのよね。その点、あたしは得よ。前世のどこかで見たデザインに触発されていてもこちらでは誰も知らない物だからたとえそのデザインが流行らなくてもあたしが変人ってだけで済まされるもの。

 色鉛筆でざっくりしたデザイン画を描いていると【旦那様】が少し慌てた様子で入ってきた。

「アンジェリーナ、すまない。少し出かけてくる。その……三日ほど留守にするのだけど留守を任せてもいいかな? アーノルドも同行するから……屋敷に残るのは従僕が数人とメイド達、料理人と庭師になる。大丈夫かい?」

 お留守番? 別に構わないけど。

「もう、旦那様はあたしをいくつだと思ってるの? 前世と合わせたら旦那様より年上よ? お留守番くらいちゃんと出来るわ。ひとりぼっちにされても平気よ。お料理もお洗濯も経験はあるもの。前世で」

「前世の感覚と今の感覚は違うのだろう? 君になにかあったらと思うと落ち着かないよ」

 本当に心配性ね。

「チャドも同行だし……一応従僕達はそれなりに……屋敷の警備には役に立つと思うけど……」

「なら平気よ。あたしはたぶん別館でドレスを作ってるわ。それか絵を描いてるか彫刻を作っていると思うの。寝室かお部屋に居なかったら別館に居るわ」

 心配しないでと頬にキスをすれば【旦那様】の頬が薔薇色に染まる。

 ほんっと美形よね。照れた姿まで美形とかずるいわ。

「すまない。つい、不安になってしまって……君と離れるのが不安なんだ」

 ぎゅーっと手を握られる。少し痛い。けど、不安が伝わってくる。

「大丈夫よ。ちゃんと待ってるわ。旦那様、帰ってきてくれるでしょ?」

 もう愛人ネタでからかうのはやめましょ。凄く慌てるところはかわいいけれど、あまり不安にさせるのも問題だわ。

「十九歳児はちゃんといい子にお留守番出来るわ」

 うん。メイドが絶叫したり従僕が発狂したりはするかもしれないけど。

「ああ。そうだね。アンジェリーナ、お土産をたくさん買ってくるよ」

 ぎゅーっと抱きしめられると少し痛いわ。

 それに【旦那様】がたくさん買ってくると言ったらきっと加減を知らない量になる。それは避けたい。

「旦那様、お土産はあたしが手で持てる範囲の量にしてね? この体、とっても非力なの。あんまり重たい物をたくさんもらっても困るわ」

 昨夜も蜂蜜美容液の蓋が開けられなくてドナに開けてもらった程度には非力よ。浮かせてずるはできるけれど握力はないの。子供並みよ。

 お土産の量や重さまで指定されてしまった【旦那様】は少しだけ不満そう。一体なにをどれだけ買ってくるつもりだったのだろうか。

「じゃあ、城を買うのは」

「なしよ。買ってどうするの?」

「なにもかも放り投げて君と二人で過ごすときにいいかなと」

 スケールがおかしいわ。

「温泉地があるのだけれど、その一帯を買おうか」

「いらない。あたしここのお風呂で十分満足よ」

 本当に課金することばかり考えるのね。

「……君の作品を買うなと言われてしまったから一体なにをどうしたら君に課金できるのだろうかと考えていたのだけど……」

「課金しないで。もう十分もらってるわ。だってこの別館の維持だけでもすごく掛かるでしょう? すごくこまめにいろいろ補充されているもの」

 具体的には絵の具が一本空になったら次の朝にはちゃんと同じ数に揃えられている位にはこまめよ。

「君の作品のためならいくらでも投資するよ。なにより私が君の作品を楽しみにしているのだから」

 熱狂的なファンで理想的なパトロンではあるけれど……妻としてはちょっと複雑な気分。

「あたしは、旦那様に普通の女性として扱って欲しいわ。芸術家としてじゃなくて」

「君のその両方の面を愛しているじゃあだめかな?」

 少し切なそうに言われると参ってしまう。ずるいわ。

「あたし今すっごく悔しい。旦那様にはなにひとつ勝てないって感じがしたわ。もういいわ。早く行って。旦那様がお留守の間にアンジー大好きタイムを過ごして完璧なアンジェリーナ・ハニー・ジェリーにバージョンアップしておくわ」

 悔しさを誤魔化しつつ【旦那様】を腕で押せば、少し驚いた顔を見せられた。けれどもそれはすぐに優しい笑みに変わる。

「ああ。行ってくる。君の進化を楽しみにしているよ」

 あ、今……あたしに求婚してくれたあの人がいた……。

 あの完璧なきらきら貴公子が完璧なきらきらで「行ってきます」と頬にキスをして……名残惜しそうに出て行った。

 ずるい。こんなに素敵なんて。

 あたしどうかしちゃってるわ。

 あたしは世界一のアンジェリーナ・ハニーなんだから。

 キスされた頬が熱い気がする。心臓もいつもよりかなりせっかち。

 ああ、なんだかとっても落ち着かないわ。

 こういう時は作品に吐き出すのが一番なのよ。


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