22 必要に迫られたら隠し事をするということね。



 応接室にお菓子の山。カップケーキやドーナツがあたしの背丈より高く積まれている。

「なにこれ……」

 お菓子の家が作れそう。クッキーの山もある。

「アンジーがなにが好きかわからなかったからたくさん買ってきたの」

 カロリー様がなにかを期待するような目であたしを見ている。

「これ何人分?」

「ジュールもカロリー嬢も人に物を食べさせるのが大好きだからね。たぶんこれ全部アンジェリーナの為だけに用意されているよ。私は食べ物の土産は受け取らないとここ十年はジュールを退けているからね」

 余程ジュール様に酷い目に遭わされたのかしら? 【旦那様】の顔色が一瞬翳った気がする。

 相変わらず逃がしてくれる気配のない【旦那様】はシャーベットのリクエストにも応えてくれる気はないらしい。

「お菓子の家ってロマンよね」

「虫がたくさん集まりそうな家だけど」

 ジュール様の一言で夢が壊される。

「蟻さんが集団で襲撃してきたら崩壊しそうだけど……夢は夢よ。別に住みたいわけじゃないし」

「小さいおもちゃみたいなのなら冬になると見かけたわね」

 カロリー様はたぶん前世の記憶を引っ張り出しているのだろう。『端末』が軽く振動して「クリスマス時期にケーキで家を作る地域があったわ」とメッセージが届いた。内緒話に使えるツールだけれども、今じゃない。

 ひょいと手が伸びてきたと思うと【旦那様】に『端末』を没収されてしまった。

「私に聞かれては困る内緒話かな?」

 恐ろしいほどに美しい笑みはやっぱり恐ろしいに決まっている。

「えっと……」

 誤魔化そうにも誤魔化す言葉が浮かばない。

 ちらりとカロリー様に助けを求めるけれど、彼女もしまったという顔をしている辺り狙ってやった訳ではなさそうだ。

「……クリスマス?」

 あ、酷い。勝手にあたしの『端末』を見るなんて。こいつサイテー男よ。夫婦だって勝手に見ちゃダメなんだから。

「勝手に人の手紙読むのはいけないことよ。夫婦でも」

「私は君に隠すようなものはないから全て確認して貰っても構わないけど?」

 すごい笑顔で言われても困る。まぁ、あたしも特に見られて困る物はないけど……ただ、ジュール様達は前世のことを隠しておきたいみたいなのよね。

「ところで、クリスマスとはなにかな?」

 そういえばこっちには無い習慣よね。赤い服着たお爺さんが素敵な贈り物をくれる日なんて。お子様限定で。大人になったら恋人がくれるらしいけど……嫁にいろいろ搾り取られた記憶しか無い……。あの前世の感覚から行くとたぶん男が女に甘い物と光り物を貢ぐ日になっている。さえない男の基準では。

「嫁に甘い物と光り物を貢ぐ冬の行事よ」

「凄く偏った認識ね」

 カロリー様が訂正しようとしてジュール様に止められている。

「そんな行事がなくたってアンジェリーナが望むならいくらでも用意するのに」

 きらきらとした笑顔の【旦那様】はきっとあたしが言えば山でも星でも買ってくれちゃうわね。火星に土地なんて貰っても困るわよ。

「とっても気が滅入る一日よ。行事が近づくとどんどん気が重くなるもの。具体的には一ヶ月位前から気が滅入るわ」

「アンジーは一体どういう認識で生きてきたのかな?」

 ジュール様が困惑を見せる。

「え? ジュール様は違ったの?」

「家族で過ごすのが一般的だと思ったけど……カロリーのところは?」

「美味しい物をたくさん食べられるわね。七面鳥とか。飾り付けも楽しいわ」

 もう二人とも隠す気がないのかしら。

「そんな行事は聞いたことがないのだけど、ハニー伯爵領では一般的なのかい?」

 【旦那様】がこちらを向いてくれたからそう誤魔化すことも可能だったけど、クリスティーナも首を傾げている。

「冬に特別な行事なんてあったかしら? 春に蜂蜜祭りをするのは知っているけれど……」

 しまった。クリスは結構長い付き合いだからうちの領地のことも把握してる。誤魔化しきれない。

 いや、その前に【旦那様】だって結婚前にあたしのこといろいろ調べているはずよね?

 【旦那様】の表情を見てもよくわからないけれど、やっぱり隠し事をしていると探られている気がする。

 これはもう、腹をくくるしかないんじゃない?

「ジュール様、流れ的にものすごく情けない気はするけど、もういいんじゃない? あたし旦那様に隠しきれる気がしないわ」

 元々隠し事が得意な方じゃないから余計に。大体今日の【旦那様】はなんだか怖いもの。お仕事中も様子がおかしかったし。

「ジュールと、なにか隠し事があるのかい?」

 ジュール様の名を聞いた瞬間、【旦那様】から冷たい空気が漏れる。別にシャーベットを保管しているからってわけではなさそう。

「アンジー、君はどうしても僕を巻き込みたいようだね」

 一瞬あたしを睨んだジュール様はやれやれと溜息を吐く。

「ちょっと下ろして。まずなにから言えばいいのか考えが纏まらないわ。あたし、言葉で説明するのって凄く苦手よ」

 もう全部喋っちゃった方が楽よ。そう。どうせ捨てられるなら自分の口から言った方がいいわ。流石に元男を嫁にはいくら【旦那様】が変人だって嫌なはずよ。

「下ろしても逃げない?」

 まるで子供のような口調で訊ねられて驚く。

「にげ、ないけど……だって、別館に立てこもっても捕獲されるでしょ? あたしに逃げ場なんてないわよ」

 そもそも魔法の言葉一つで捕獲されちゃうんだから。

「どうせ逃げても旦那様に捕獲されるし」

「本当に、ハニー伯爵はしっかり君を躾ていたみたいだね」

 くすりと笑って解放してくれる。

 酷い。あたしが浮けなかったら尻餅をついていたわよ。

「今あたしが浮くこと前提で下ろした……酷い」

「もう浮く準備出来ていただろう?」

 よく観察されている。

 少しもぞもぞする足を伸ばしたりばたばたしたりして体の感覚を確認。それから首と肩を少し動かしてほぐしていく。

「それで? 隠し事の内容はなにかな?」

 穏やかそうな振りをして、逃げることを許さないという空気を醸し出す【旦那様】は普段のへたれともきらきら紳士とも大違いね。

「どこから話したらいいかしら? やっぱり一番肝心なところ? ジュール様、あたし説明下手くそだから足りないところ補足お願いね」

「……アンジー、それでいいのかい? てっきり君が一番話したくないのかと思っいたよ」

 だから脅迫に利用しようとしたのね。なんとなくわかっていたわ。そのくせに見せる心配するような顔に少しだけ腹が立つけど。

「隠し事をしておいて大好きだなんて卑怯だと思ったの。だからあたしのことは全部言っちゃう。でも、二人のことは好きにしていいわ。そこは二人の自由だもの」

 それだけ言って深呼吸する。

 緊張するっていう経験自体アンジェリーナ・ハニーになってからそう多くはない。けれど今は凄く緊張しているわね。

 真っ直ぐ【旦那様】を見る。直視出来るのはこれが最後になってしまうかも。やっぱり綺麗な人だと思う。あたしの大好きな【旦那様】。たくさん可愛がって欲しかったわ。

「あのね、あたし……元男なの」

 あたしの隠し事はそれ。前世云々よりたぶんそこが一番大きいと思う。正直前世の記憶があろうとなかろうとそんなに大事じゃない。でも、ここを隠したまま生きているのはフェアじゃない気がしたの。

 どんな反応をするか。どきどきしながら【旦那様】を見る。浮いているから丁度視線が合うわ。彼は一瞬首を傾げ、それから驚いたように自分の喉元に触れる。

「……へぇ……」

 声を漏らし、それからたぶん理解が追いついていないのだろう。完全に硬直している。

「えっと……クリスティーナ、お医者様を呼んでもらって……旦那様が不安定なことを忘れていたわ。心臓が動いちゃったら大変よ!」

「アンジー、心臓は動いているものだよ」

 クリスティーナも少し困惑しながら、それでも廊下に出て使用人を探しに行ってくれている。

「あの、旦那様? 大丈夫?」

 ぺちぺちと頬を叩けば突然動き出した【旦那様】に捕獲されてしまう。

「……私を……からかっている……わけではないね?」

 まだ困惑しているらしい彼はあたしの胸元に耳を当てて言う。これ……普通ならセクハラよ。言っておくけどあたしの胸は自前よ。

「言っておくけどあたしの胸は胸当てでも豊胸でもないから。あたしの両親があたしに与えてくれた完璧な肉体の一部だから」

 まぁ、彼は今あたしの夫なのだからその権利はあるってことにしておいてあげるわ。

「……今の君は完全な女性?」

「わからない。言ったでしょう? あたし、自分が本当に異性愛者か不安って。あたし、前世は男だったの。既婚者よ。冷え切った夫婦関係だったから、今度は幸せな結婚生活を目指していたのだけど……やっぱり元男だからなのか隠し事があったからなのかいちゃらぶ生活は無理だったみたい」

 でも……短い間だったけど、とても幸せだったわ。

「あたし、旦那様と過ごせて凄く幸せだったわ。本当はもっとたくさん可愛がって欲しかったけど……でも、もうダメよね」

 またジーンのお荷物に戻るわ。ごめんねジーン。あたしのせいできっと素敵なお嫁さんはもらえないわね。

 全部諦めた。そう思うのに【旦那様】は苦しいくらい締め付けて放そうとしてくれない。

「逃げないと約束しただろう?」

 その言葉に驚く。なんだろう。最後にお説教でもあるのかしら。

「なぁに? 慰謝料を請求されるのかしら。でも、あたしを選んだのは旦那様の方よ」

「このまま私を捨てるというのであればそれも考えるけれど、君が言うとおり、求婚したのは私の方だ。そして私は君を手放すつもりなんてないよ」

 優しく頭を撫でられた。どうしてと言うまでもなくこつんと額に額をくっつけられる。

「君を悩ませてしまったことは私にも原因がある。その……君に話すべきか迷っていたことがあるんだ」

 どうやら秘密を抱えていたのはお互い様だったらしい。口に出すのが辛いと言うような様子に見える。

「やっぱり愛人がいたのね」

「違うよ」

 深刻そうな【旦那様】を和ませてあげようとしたのに即答されてしまった。

「アンジェリーナは私を誤解している」

 少し体が楽になったと思うと、今度はぎゅっと手を握られた。どうしてもあたしにぺたぺた触っていたいのね。

「私は君以外の女性には興味がないよ」

 それはつまり。

「愛人は男だった?」

「違う」

 とうとうこめかみを押さえ始めた。これはあれね。なんで求婚しちゃったのかと後悔してるやつね。

「君はどうしても私に愛人がいて欲しいみたいだね」

「一度くらい『この泥棒猫!』ってやってみたいかなとは思ったわ」

 あたしを一番に可愛がってくれるなら愛人の一人や二人くらい許してあげるけど。

「うん、アンジーはいろいろずれているわね」

「リアルで言う人は見たことがないな」

 カロリー様とジュール様が呆れている。

「なるほど。あの二人もアンジェリーナの感覚を理解しているということか。まさかカロリー嬢も元男性?」

 ああ、そういう判断をされてしまったか。

「いいえ。私は前世も女性よ。アンジーとはどうやら同じ国で死んだみたいなの」

 あっさりと答えてくれたカロリー様に驚く。転生のことは隠したいのかと思っていたのに。

「私もアンジーもジュール様も同じ世界から転生したみたいで前世の記憶があるの。でも、前世と性別が違うのはアンジーだけよ」

 まさかそこまで説明してくれるとは思わなかったわ。

「……なるほど。なら……アンジェリーナにはこれを暴露しておくべきかな……」

 【旦那様】は大袈裟に溜息を吐く。

 暴露。一体なんだろう。【旦那様】も実は転生者だったとか言わないわよね?

「……実は……私の初恋の相手はジュールだった……」

 とても言いにくそうに、それでもはっきりとそれは暴露された。

「はい?」

 一体どうしてこの流れでそんな話になってしまうのだろう。

 え? 【旦那様】が言うか迷っていた大事な話ってこれ? 実は同性愛者でしたとかそういうあれ?

「あー、そう言えばそんなことがあったね。昔はよく女の子と間違えられたから」

 ジュール様はジュール様で懐かしそうに言う。

「でも、僕はカロリー一筋だから」

「当時もああやって一瞬で振られたよ」

 そう。え? で? それであたしにどうしろと?

 困惑していると【旦那様】も困った顔をしている。

「いや、なにか秘密を一つ明かさなくてはいけない気がして……アンジェリーナに隠し事など……できるだけしたくない」

 できるだけ。それは必要に迫られたら隠し事をするということね。別に構わないわ。

「旦那様はあたしが元男でも平気なの?」

「さっき言っただろう? 私の初恋の相手は男だったと。どうやら私は性別はどうでもいいらしい。自分の軸からぶれない人に惹かれるんだ」

 そう言えば前にも同じようなことを言っていたかもしれない。

「あたし、てっきり元男なのを感づかれて生理的に無理だって思われたのかもって悩んでいたのがばかみたいね」

 思わず笑ってしまう。でも、それじゃあどうしてあたしを食べてくれないのかしら。

「……もしかして……機能していない方?」

 思わず訊ねれば【旦那様】に口を押さえられる。

「アンジェリーナ、君は少し恥じらいという物を持って欲しい。人前であまりそういう話をするものじゃないよ。続きは後で二人で話そう」

 それは……つまり肯定?

 ちらりとジュール様を見れば頭を抱えているし、カロリー様は顔を逸らしている。

「アンジーは少し……前世の反動でいろいろなものが欠けてしまっているんだ」

 ジュール様はとんでもなく失礼なことを言う。

「前世の反動?」

「奥さんに相当虐められていたらしい」

 どうしてジュール様がそこまで知っているのかしら。自分で話したかもしれないけど覚えていないわ。

「へぇ……アンジェリーナのことをそんなに知っているなんて……」

 あれ? 空気がまた冷えてきた。ジュール様はどうして【旦那様】を不機嫌にさせちゃうのかしら。

「元々噂では聞いていたけれど、アンジーは我が国の枠からはみ出すぎている部分があったからね。少し訊ねたらすぐにいろいろ答えてくれたよ」

「ジュール様、あたしが元公務員って言ったらその性格で? って凄く驚いていたわよね。あの地味でさえない男のことも嫌ってはいないけど、あの生活に戻りたいとも思わないわ。今の方がずっと楽しいもの」

 こんなにかわいく産んでもらったしね。

「もう少し真面目で硬い人間かと、前世の情報だけなら判断してしまうところをなにをどうしてアンジーになってしまったのか……」

 ジュール様はもう隠すことがないとわかった瞬間いつも以上に酷いことを言ってくれる。

「理想を描いたらあたしになったの。悪い? 今のあたしがあたしの生きたいあたしよ。あたしの大好きなあたしを旦那様が気に入ってくれるならそれが一番嬉しいに決まってるじゃない。ジュール様は意地悪ばっかり言うからずっと独身なのね」

 ちょっと意地悪を言えば、彼は一瞬ハッとした様子を見せる。

「……そう言えばカロリーも前世は既婚者だった……」

 つまり転生組の中で独身なのはジュール様だけよ。

「ほらほら女の子には優しくしないと」

「君は元男だから対象外だよ」

 本当にジュール様って意地悪ね。黙っていればイケメンなのにお腹の中はきっと真っ黒よ。

「カロリー様、こういう男は結婚後危険よ。早めに逃げた方が良いわ」

 女性を味方にしておくと得なのよ。とカロリー様を巻き込もうとする。

「そうね。とってもめんどくさい人よね」

 あれ? カロリー様に同意されちゃった?

「あまりアンジーを虐めちゃダメよ」

 やんわりとカロリー様が注意する。するとジュール様が大人しくなってしまった。ああ。既に尻に敷かれているのか。

「カロリー嬢とは以前から知り合いだったのかい?」

 興味深そうに訊ねる【旦那様】。

「いいえ。今日が初対面よ。たぶんあたし、この二人が生まれる頃に死んでるのよね。ジュール様があやしい物をバンバン発明しちゃっているのは実は盗作ってことになるのかしら? 大丈夫。バラしたりしないわ。あたしもちゃっかり利用させて貰うけど」

 あたしの時代よりずっと新しい技術が使えるのは嬉しいもの。

「あまり訊いていいものなのか悩んでしまうけれど、自分が死んだときのことまで覚えているのかい?」

「あたしの顔で死んだわ。死因はわからない。でも、死ぬときはちゃんとアンジェリーナだった」

 あのみっともない女装のことは【旦那様】には内緒よ。このくらいは隠してもいいでしょう?

「よくわからないな。君は今、アンジェリーナだろう?」

 首を傾げる【旦那様】にジュール様が口を挟む。

「アンジーは女装趣味の男性だったから、理想を自分の顔に描いたら彼女だったらしいよ」

「訂正、女装趣味じゃないわ。ハイヒールが好きだっただけよ。大きな差があるから気をつけて」

 あれは趣味じゃない。出来心。

「アンジェリーナ、随分ジュールと親しくなったみたいだね」

 どうやら女装趣味の下りはスルーしてくれたらしい。

「共通点があるとついうっかりお口が滑りやすくなっちゃうみたいなの。ジュール様は今の生活が窮屈で、前世の服が恋しいみたい」

 服装史で言うとロココに近いものね。窮屈よ。

「デニムが恋しい時があるな」

「インディゴって似たような物あるのかしら?」

 藍染めの歴史って結構長いはずなんだけれど、あれって有毒だったかしら? たしか発酵させて使うのよね。

「似たような物はあるけど……アンジー、自分で発酵からやるつもりだった?」

「え? 藍玉あるの?」

 正直、あたし、こっちの文化文明にそこまで詳しいわけじゃないのよね。座学はサボり気味だったし。

「あたしある物でいろいろ作っちゃう人だから目に入らない素材をわざわざ探そうなんてしなかったのよね。必要な物は大体お父様が用意してくださったし……ハニー伯爵は私が知る限り最高の父親よ。子供の才能を認めて伸ばしてくれるもの」

 まぁあたしのせいで大分痩せてしまったのだけれど。

「とりあえず、デニムを作るには縦糸をインディゴで染めて、横糸はそのままで織ればいいのよ。でも布を作るなら専門の知り合い居るでしょ? あたし、芸術家よ。毎度毎度素材から作ってたら作れる量が減ってしまうわ」

 必要に迫られて素材から作ることはあるけれど。それならむしろ変な素材で作りたい。

「アンジー……もう少し地理の勉強をしておいた方が良いよ。ジェリー侯爵領には繊維工場がたくさんあるのに把握していないのは勿体ない」

 ジュール様は呆れたように言う

「え? そうなの?」

「染色が盛んだったのだけど、ジュールが試作品を試して欲しいと機械を貸し出してくれてね。輸出する余裕がある程度には生産しているかな」

 それであんなにたくさん布が揃っていたのかしら。

「ジルは慣れるまでが面倒だけど知らない物を拒絶したりはしないからね。それに、最終的にはちゃんと使いこなしてくれるから試作品を渡すには丁度良い相手だよ」

 あたしの【旦那様】を実験動物みたいに扱っていたのね。

「旦那様、ジュール様のこと変だって思わないの? こんなあやしいものたくさん発明している不審者だって思わないの?」

 ジュール様が気に入らなくて【旦那様】に詰め寄る。

「少し変わった子だなとは思っていたけれど……付き合いが長いからね。今では弟のような物だと思っているよ」

 あ、これあたしより可愛がられてきたやつ。

「もうジュール様嫌い。なにも作らない」

 拗ねる。

「大人げないな」

 ジュール様は笑う。

「今はあたしの方が年下だもん」

 年相応ってやつよ。いや、十九でもこの態度はちょっと恥ずかしいかも。

「ほらほら、甘い物でも食べて機嫌直して」

 しっとりしたクッキーを差し出される。

「あたしクッキーよりクラッカー派よ」

 クッキーも好きだけど。

「塩っ気のある方が好き? なら参考にしておくよ」

 どうしてカロリー様までメモを取っているのかしら?

「私のアンジェリーナに餌付けしようとしないでくれ。アンジェリーナ、ジュールから食べ物を受け取ってはいけないよ。胃の中で二十倍に膨れるかもしれない。危険だ」

 それはダイエットに良さそうね。

「人間の胃って四リットルくらいしか入らないらしいわ。それ以上詰め込むと破裂するんですって」

「そう? 僕の妹たちはもっと入るみたいだけど」

「私の妹たちもそうね」

 殆ど同時にジュール様とカロリー様が言う。

 特殊な人間と比較されても困る。

「あたし今の体にそんなに不満はないけれど食べられる量が減ったのと呆れるくらい非力になったのは少し気になっているわ。そう言えばいっつもお水を運ぶのが大変だもの。物を浮かせる魔力があってよかったわ。腕力がなくても浮かせて運べば楽だもの」

 汲むときが少し大変なのよね。

「浮いてばかりであまり歩かないから脚力も弱っているんじゃない?」

 ほら、また意地悪を言うのね。

「残念でした。足は絵筆にも使ってるからちゃんと筋肉が残っているわ。浮いた方が楽だけど」

 あまりスピードが出ないのが難点なのよね。

 なんて下らない話を繰り広げているとばたばたと騒がしい足音がする。

「お医者さん来たよ」

 クリスティーナが戻ってきた。

「内緒話は終りね」

 カロリー様がこの先は前世の話は禁止といった空気で言った。

「どうして医者を呼んだのかな?」

 首を傾げる【旦那様】に呆れてしまう。

「旦那様の心臓に負担が掛かっていないか心配だから呼んでもらったのよ。一応診察だけでもしてもらって。あたしのせいで旦那様が病気になってしまっては大変よ」

「大丈夫だよ。アンジェリーナ。体の方は問題ない」

 え? 今なんて?

 だって【旦那様】は『繊細』なお方だからあまり無理をさせるなって……。

「え? 体の方はって……頭のご病気だったの?」

「アンジー、違う。頭じゃなくて、心の、だよ」

 ジュール様に訂正される。

「え? だって心って脳でしょ? ってことはお父様と同じやつ? あたしが奇行ばっかりだから旦那様の胃が!」

 だからあんまり一緒にお食事がないのかしら……。あたしが悪化させ……あれ? 悪化ってことはあたしが来る前からご病気ってことよね?

「これでもアンジェリーナのおかげで大分回復した方なんだけどな……」

 問題の張本人は苦笑している。

「旦那様がガリガリになって餓死しちゃうわ!」

「わかったよ。ちゃんと医者に診てもらう。アンジェリーナ、ここでお菓子を食べていい子に待ってておくれ」

 あたしを椅子に座らせてお皿に何種類かクッキーを取った【旦那様】はそれでもまだ離れたくないと言うように何度か頭を撫でてしぶしぶと言った様子でお医者様の方へ行く。あの人、前に見たことがある人だわ。主治医なのかしら?

 それにしてもお菓子を食べていい子に待ってろだなんて、やっぱり子供扱いされているのね。

 むしゃくしゃしたのでチョコチップのたっぷり入ったクッキーに手を伸ばす。

「あら、これ美味しい」

 なんというかホームメイドのお菓子って感じの味ね。ハニー伯爵家ではあまりこういうお菓子は食べなかったから少し懐かしいわ。

「そのクッキー、うちの妹たちのお気に入りのお店のなの」

「へぇ、ホームメイドって感じがしてとっても懐かしいわ」

「こっちのナッツとチョコレートが入ったのもとっても美味しいのよ」

 カロリー様がまだ減っていないお皿にクッキーを追加していく。

 ごろごろとしたナッツが美味しそう。

「あーん、ダメよアンジー、あんまり食べたらお夕飯が食べられなくなっちゃうわ。でもこのクッキーとっても美味しい」

 これあれね。食べたいでも痩せたいって言ってるのと同じね。

 正直ジェリー侯爵家のシェフのお料理とっても美味しいからお夕飯が食べられなくなるのは困るわ。でもこのクッキーとっても美味しい。

 葛藤していると、まるで誘惑するようにジュール様とカロリー様が両隣からクッキーを追加してくる。

「さ、流石に多すぎないかしら? アナ、ベティ、ドナ、とっても美味しいお菓子がたくさんあるの。手の空いてるメイドを集めて頂戴。あたしこんなに食べきれないわ」

 助けてとメイド達を呼べば嬉しそうな声と同時にメイド達が雪崩れ込んでくる。ああ、みんな狙っていたのね。

 両隣から舌打ちが聞こえたような気がしたけれどあたしはなにも聞かなかったわ。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る