19 頭の中がぐっしゃって言うのを少し知的にしたような言葉だわ



 なんとなく、気まずくてもう三日は別館に籠もっている。作品はたくさん出来上がったし、【旦那様】が時々様子を見には来てくれているみたいだけど、会うのが嫌で、アナに軽食だけ運んで貰っている。

 正直、今のあたし、最悪よ。髪もぼろぼろ、絵の具まみれ。時々気絶して床にぶっ倒れている以外は常になにかしら作っている状態ね。初めの頃は「門限を約束しただろう?」とやんわり注意をしていた【旦那様】もすっかり大人しくなっている。まぁ、集中しすぎて聞こえなくなっただけかもしれないけれど。

 そこで、最終兵器と言わんばかりに空気を読まないチャドが投入されたのがつい先刻だ。

「アンジー、頼むから門限は守ってくれ。いや、同じ敷地内で門限ってのも変な話だけど、ジルがかつてないほどへこんでいるぞ」

 チャドは【旦那様】をだしに使おうとしているけれど、あたしはその【旦那様】と会いたくないのだ。逆効果だ。

「あたし、今、頭の中がぐっしゃになってるの……どうしていいかわからなくて、いろいろ作ってみたけど、まだ納得できないわ」

 絵も描いた。彫刻も作ったし、服も沢山。ついでにジュール様の依頼分も終わらせたけれど、まだ心の整理がついていない。

「頭の中がぐっしゃって、アンジーが悩んでるってことか? 珍しい」

「珍しいわよね。あたしなんでも直感で即決するのに。ヘンなの。こんなのあたしらしくないわ」

 そう思う。激しく同意よ。

「でも、旦那様のことになるとあたし、なにかヘンなのよ。ねぇ、チャド、わかる? あたし、今とっても複雑な心境なの」

 複雑な心境。便利な言葉よね。頭の中がぐっしゃって言うのを少し知的にしたような言葉だわ。こっちの方が貴族向けかしら。

「どうしたんだ? ジルの浮気疑惑は晴れたんだろう?」

 チャドは困惑した様子だ。

「愛人がいた方がまだよかったかもしれないわ。あたしね、旦那様に女の子扱いして欲しいの。でも、旦那様……あたしの作品が目当てだったみたい。ううん。芸術家としてはとても嬉しいことだと思うわ。だって、旦那様は最高のパトロンだもの。好きなだけ作品を作れる環境を提供してくれる。でも……あたし……旦那様の前では、一人の女の子でいたいって思ってしまったの。おかしいでしょう? あたしはアンジェリーナ・ハニーなのに。今更普通の女の子にはなれないわ」

 本当にヘンよ。女の子として可愛がって貰いたいなら、普通の女の子にならなきゃいけないわ。アンジェリーナ・ハニーという変人として、芸術家として好かれているなら、やっぱり【旦那様】の前でもそうあり続けるべきだし、あたしは孤独なままのあたしでいるべきなのよ。

「アンジー、確かにジルは君のファンだけど、それだけじゃない。ただのファンなら求婚したりはしないだろう?」

 チャドは言いくるめようとしている。なんとなくそう思った。

「あたしの作品を独占したいだけよ」

「作品だけ欲しい相手に酔ってるとは言えキスしたりなんかしないよ。ジルは……俺が言うことじゃないけど……ジルはずっとアンジーに夢中なんだから」

 聞きたくない。きっと作り話よ。

 あたし、今すっごく疑心暗鬼になっている。なにも信じたくない。なにも聞きたくない。

「あたしの大好きな旦那様が急変してしまって、混乱してるの」

「あー、うん。それはわかる。人見知りが解けると急に態度が変わるんだよな。それに……ジュール様のこと相当警戒してるみたいだし」

「ジュール様?」

 ジュール様は【旦那様】の友人のはずなのに。おかしな話ね。

「ジュール様はジュール様で結構な美形だろう? それに穏やかで親しみやすいからご婦人方には本当に評判がいいんだ。ちょっと残念な趣味はしているけど。で、アンジー、ジュール様に会ったとき、視線を奪われていただろう? ジルはそれが落ち着かないんだ」

 そりゃあ視線を奪われるに決まっている。彼はその道の専門家なんだから。

「ジュール様に視線を奪われない人なんていないわ。彼は自分がどう見えるかを計算し尽くしてそう振る舞っているのだから。どう歩けば視線を集められるか、どのパーツに視線を向けさせたいか、常に考えているはずよ。旦那様が自然体で描かれた絵画なら、ジュール様は商品を売るための広告写真よ」

 強烈な印象を与えるあの振る舞い。スーパーモデルだ。【旦那様】とは違う。計算された美しさ。

「アンジーはジュール様の方が好みなんじゃないのか?」

 チャドが真面目な顔で訊ねる。

「え? 別に。背が高くて歩き方が素敵だなーくらい。ずっと見てたいのは旦那様の方ね」

 顔の作りの好みだけで言うと【旦那様】の方が好みよ。まぁ、あたしを男にしたらあたしが一番だとは思うけれど。

「酔っていないときの旦那様はとっても素敵だもの。最近はちょっと様子がおかしいけれど……しゃんとしていたら素敵よ?」

 しゃんとしているところ……思い出せないけれど。

 あれ? あたし、本当に【旦那様】のこと大好きなのよね?

「あたし、なんで旦那様のこと好きなんだろう? あれ?」

 混乱してきたわ。これはいけない。あたしあの人と結婚してしまったのだから、いちゃらぶ結婚生活を送るには彼しかいないのに。

「アンジー、それは今考えちゃダメだ。アンジーはジルが大好き。そうだろう?」

 チャドが慌てた様子でがっちしとあたしの肩を掴む。

「ええ、旦那様のことは大好きよ。でも、本当に今のままでいいのかしら?」

「ちょっと疲れてるだけさ。もうしばらく寝ていないんだろう? そろそろ本館に戻って、風呂に浸かってゆっくり休むんだ。その後ジルの説教が待ってるけど」

 お説教付きかぁ。どうしようかな。でもそろそろお風呂にも入りたいし、大きなベッドでゆっくりぐっすり寝たい。

「でもあたし、今旦那様に会いたくない」

「なんで? ジルのこと大好きなんだろ? 頼むから早く戻ってやってくれよ」

 これ以上あいつの相手をしたくないと切実な様子を見せられる。

「だって、こんなにぼろぼろのあたし、旦那様には見られたくないもん。旦那様はあたしのファンなのよ? いつでも完璧なアンジェリーナ・ハニーを見せないと」

 失望されたくない。あたしがあたしじゃないなら価値がないわ。

「アンジーらしくないな」

 チャドの言葉に驚く。

「アンジーはいつでも自然体でアンジェリーナ・ハニーなんじゃないの? いつでもどこでも世界で一番自分が大好きだろう? そんな悩み方するなんてアンジーらしくない」

 まぁ。チャドに説教されるなんて。

「確かにその通りね。あたしらしくないわ。どうしちゃったのかしら。本当に、混乱しているのよ。ジュール様もおかしなことを言うし、ジュール様に会ってから旦那様の様子も本当にヘンだし……あたしがあたしを見失うところだったわ。ありがとうチャド。でも、旦那様の前ではかわいくいたいの。この酷い状態を脱出するまで旦那様をどこかにやってくれない?」

 こんなぼろぼろの姿は流石に嫌よあたしだって。

「ジルならそんなアンジーもかわいいで済ませると思うけどな」

「……それはそれで嫌。自分でかわいくないのわかっててかわいいって言われるのは凄く傷つく」

 けど、【旦那様】ならきっとそうね。うん。想像できてしまうわ。

 『端末』を見れば、手紙のマークに凄く通知が付いている。あ、これは個人宛メッセージだったかしら?

「うわっ……旦那様にあれの使い方教えたの誰?」

 筆まめなんだろうというのはなんとなく思ったけれどこれは酷い。あたしがやろうとしていたことをそのままされてしまった。

「……全部旦那様からだわ。いや、怖い。今なにしてるのとか嫌われてしまったかなとか重い。相当病んでそう……」

 これって普通女が送るメッセージじゃないの? 

「最初は普通にそろそろ夕食だとか遅くならないうちに戻っておいでとかだっただろ? アンジーがずっと無視するから不安になったんだろ」

 お絵描きに使ってて気付きませんでしたって言ったら信じてもらえるかしら。いや、実際そうなんだけど。

「……この彫刻持っていったら許してもらえると思う?」

 二つの顔の【旦那様】を彫刻で作ってみた。木彫りで少し荒いかもしれないけれど、結構な力作だとは思う。

「……う~ん、これ、ジル? 凄いとは思うけど、流石に三日も放置された後だと復活に時間が掛かると思うぞ」

「……やっぱり等身大のあたしをプリントしたシーツを渡さないとダメかしら」

 あんまり渡したくないけど。

「……アンジー、それ、ジル以外絶対欲しがらないやつ」

「本人からのリクエストよ。あたしだって流石にそんなの作りたくない。どうせならドレスにして着るわよ。でも旦那様に叱られるのは嫌。あの人本当に悲しそうな顔するの。ジーンみたいにくどくどお説教しないし、怒鳴ったりもしないでしょう? あたしああいう叱られ方が一番嫌」

「叱られるのが嫌ならちゃんと言いつけを守れよ。ほら、とりあえず機嫌取りになるかはわからないけどその彫刻持って。ささっと風呂入ってジルに謝りに行けよ」

 いつの間にかチャドにがっちりと手を掴まれている。あ、これは逃がさないってやつだ。

「まだ心の準備と体の準備が出来てないから待って」

「いやいやいや、待ったらアンジー一生ここから出ないだろ? ジルがそろそろ壁を壊す業者を手配するところだぞ。急げ急げ」

 壁を壊すって。鍵持ってるくせにどうして入ってこないのかしら。

 呆れているとチャドにぐいぐい引っ張られてとうとう外に引きずり出されてしまった。

「アンジェリーナ!」

 当然のように待ち構えていた【旦那様】が普段からは考えられない速度でチャドを突き飛ばしあたしを捕獲した。

「……チャードー、ねぇ、あたしの心の準備と体の準備をする時間はどこに消え去ったのかしら?」

「いや、まさか待ち構えているとは思わなくてさ」

 あたしも思わなかったわよ。

「引きこもって出てこないし手紙の返信もくれないから君に嫌われてしまったかと思ったよ」

 この細い体のどこにそんな力があるのかと言うほどきつく抱きしめられる。

「ちょと、離れて! あたし今たぶん凄くくさいからダメ」

「絵の具の匂いはするけど、お湯の用意は出来ているよ。お風呂に直行するかい?」

「出来れば旦那様に会う前にお風呂に入りたかったのに……あたし今ぼろぼろよ?」

「そんな君も素敵だと思うけれど。だって、それだけ熱中していたということだろう? 私の存在も忘れて一体なににそんなに熱中していたのかな?」

 あ、笑っているけれどこれ凄く怒ってるやつだ。

「ジル、説教は後にして風呂に入れてやれ。本人凄く気にしてるから」

 ああ、元凶のはずのチャドが救世主に見えるわ。そうよ。早くお風呂に入らせて頂戴。【旦那様】を見上げれば、ふわりと抱きかかえられてしまう。

 いや、今日はちょっと浮いてるけど。引っ張ってくれれば動くのに。

「うん。聞き分けのないアンジェリーナは私がしっかりお世話をするよ」

 聞き間違いだと信じたい。

 え? これってつまり……。

「お風呂はベティに入れてもらうから」

「前々から一度アンジェリーナの髪を洗ってみたかったんだ。綺麗に二色になっているけれどどうなっているのかなって」

「半分に分けて色抜いてるだけだから。そんな面白いことは特にしてないから」

 じたばたと暴れても効果がない。これ、あたし完全にペット扱いされてる?

「あたしは旦那様のペットじゃないわ! わんこでもにゃんこでもないんだから!」

「確かにアンジェリーナはかわいいけれど、動物のようだとは思っていないよ。いつでも本当にかわいいけれど」

 この【旦那様】本当に酔っ払っていないのかしら。

「アンジー、諦めろ。そしてしばらくジルの相手頼む。俺はもう嫌だ」

 あ、今チャドが本音言ったわ。そう、彼はいつだか【旦那様】は慣れるとめんどくさいって。

「どれが本当の旦那様なのよ……」

 あたしのお気に入りのへたれでムッツリな【旦那様】が恋しくなってきたわ。




 たっぷりのお湯。久々のお風呂。ベティの頭皮マッサージはやっぱり最高だった。

 あたしのお風呂のお世話までしようとした【旦那様】はアナとベティの気迫に圧し負けて渋々寝室で待機になったのだけれど、久々のお風呂が幸せ過ぎてついつい長湯になってしまった。どうやらその間ずっともやもやしながら待っていたらしい【旦那様】はあたしの姿を見るとすぐに駆け寄ってきた。

「ああ、さっぱりしたね。アンジー、お腹が空いているだろう? 食事を用意させたよ」

 なんだろう。リゾット的な何かが用意されている。鰹だしのおかゆが食べたいわ。

 折角用意されたから、リゾット的ななにかを食べることにする。こっちの料理は嫌いじゃないけれど、ジュール様と会ってから時々日本食が恋しくなるようになった。ヘンなの。今までそんなに食べ物に拘りはなかったのに。

 中でも特に食べたいのが丼よ。ほっかほかの牛丼。絶対【旦那様】の前では食べられないけれど,大きなどんぶりで一気に食べたい。まぁ、アンジェリーナ・ハニーの体じゃたぶん並の半分も食べられないけれど。

「あ、これ美味しい」

「それはよかった。それで? アンジェリーナ、三日もなにをしていたんだい?」

 やっぱり尋問はされるらしい。

「あたし、頭の中がとってもぐっしゃだったから、絵を描いて、彫刻を作って、それからジュール様の依頼の服を作って……また絵を描いていたらチャドが来たの」

「君を混乱させてしまったのは私かな?」

 そうよ。それ以外になにもないわ。と言いたいところだけれど、それだけじゃないわ。

「あたし、あたしの軸が揺らいでるのが怖かった。あたしがあたしじゃなくなったら、旦那様に返品されちゃうって思ったけど、この考え方がそもそもあたしじゃなかったのよ。他人の評価でぶれるなんてアンジェリーナ・ハニーじゃないわ」

 あたしは世界で一番あたしが好きなあたしでいるべき。それがぶれるのであれば生きている価値もないわ。

「アンジェリーナ……一つだけ言わせて欲しい。君は、私の妻なのだから…・…そろそろジェリー姓で名乗ってくれないか? それとも、君は、私との結婚は不本意だっただろうか? 確かに……あの場の勢いと身分で無理矢理迫ってしまったとは思ってはいるが……」

 お叱りのポイントはそこ? やっぱり【旦那様】はずれているわ。

「あたしは自分の意思でここに来たわ。でも、あたし、自分の名前がとっても好きなの。それに十九年もアンジェリーナ・ハニーとして生きてきたのよ? まだ慣れない。それだけよ。それに、アンジェリーナ・ハニーというのはあたしの理想の生き方のことよ。あたし、旦那様のことは大好きなの。それだけは、どう伝えていいかわからないけれど、あたしを構築する一つの要素だと思っているわ」

 言葉でなにかを伝えるのって苦手。あたしは詩人じゃないもの。お手紙よりも絵を贈りたいタイプだし、あたしの気持ちは全部作品で表現しているはず。

「あたし、ここに来てから旦那様のことばかり考えていると思うの」

 そう告げると【旦那様】は完全に硬直してしまっている。

「旦那様? あたし、なにかおかしなことを言ってしまった? またなにかやらかしてしまったの?」

 ずれている自覚はあるわ。突拍子のないことも確かにしてしまう。けれども、あたしの基準だと問題のないことだから、なにが【旦那様】を困らせてしまうのかわからない。

 戸惑っていると、硬直が解けた【旦那様】は慌てた様子であたしの手を握る。

「君はなにも悪くないよ。ただ、アンジェリーナが……私を君を構築する一つの要素だと言ってくれたことが嬉しくて……心の中で反芻していた」

 うん。やっぱりこのちょっと変な人があたしの【旦那様】みたい。でも、このくらい変な人じゃないとあたしと釣り合わないわねきっと。

「まだ目の前の現実が信じられないよ」

 何度も手を握り直しながら彼は言う。

「ねぇ、旦那様。蜂の巣挿した女が好みなの? それともあたしの作品が欲しいだけ? どうしてあたしに求婚してくれたのか知りたいわ」

 訊くのは怖い。けれども納得しないと先に進めないと思う。

「確かに、私は頭に蜂の巣を挿してしまうような独創的な女性が好みだったけれど、それは君だからだよ。アンジェリーナ。私は、君だから求婚したんだ」

 真っ直ぐ見つめられ、戸惑う。この言葉が本当か疑ってしまう自分が情けない。

「旦那様、あたしのこと、好き?」

「勿論。毎日君がかわいくて仕方がないよ。君がなにをしてくれるのか、私はいつだって楽しみなんだ」

 握った手に、もう一つ手が重ねられる。

「君に一目惚れしたんだ」

 そういう【旦那様】はどこか清々しいような様子だ。

「一目惚れ?」

 ってなんだっけ? お米? お米の品種? 丼との相性がいいのよねー。今の気分は鮭いくら丼かしら。いや、違うか。【旦那様】が日本のお米に詳しいはずがない。

 けれど、アンジェリーナ・ハニーと結びつかない単語過ぎて困惑する。

「信じてくれない?」

 困ったように笑う彼は「おいで」と手を広げる。

 あたしの弱点を完全に把握されている。おいでと言われるとついつい行ってしまうのだから。

「アンジェリーナは本当に素直だね」

 抱きかかえられてしまう。

「……ジーンに仕込まれて条件反射になってるみたい」

「私以外にもこうなのかい?」

 少し残念そうに言われる。

「おいでって言われると嬉しいし、お膝へのお誘いは断らないわ」

 それが【旦那様】のお膝なら抗うことなんてできない。

 あたしを膝に乗せて優しく抱きしめてくれる【旦那様】はそれでも逃がさないというように、しっかりと腰に腕を回している。

「君はいつだってジーンが大好きだね」

 少しだけ寂しそうな響き。【旦那様】はジーンと直接親しいわけでもなさそうだったのに、いつの間にか親しくなっているみたい。あたし抜きでっていうのは少し寂しいわ。

「いい兄なの。そりゃあお小言も多いけれど、あたしの自由を奪わないでくれた。旦那様があたしに求婚してくれなかったら、あたし、ずっとジーンのお荷物になるところだったわ。ずっとあたしであり続ける為に。あたしは、人に好かれるために自分を変えたり出来ない人間だもの」

 お金目当ての求婚者もあたしの奇人っぷりを見れば大抵避けていく。

「私は君のいい夫になれるかな?」

 ずるい。そんなことを訊ねるなんて。

「あたし、もう、旦那様じゃなきゃ嫌よ。他の誰かだったら、今ほど幸せじゃないと思うの」

 うん。【旦那様】はちょっとヘンだけど、理想とは言えないけれど、あたしの素敵な夫だと思っている。呼ばれたら嬉しいし撫でられたら幸せ。前世で手に入れられなかった幸せな結婚生活はもう間近なきがする。

「アンジェリーナ……ありがとう」

 とても柔らかい笑みを向けられてどきりとする。やっぱり美形なのよね。たぶん前世のさえない男もこのレベルの美形には見惚れちゃったと思う。そのくらい【旦那様】は整ったお顔で、絵画の中に永遠に閉じ込めておきたいような人なの。ここに額縁を置きたいくらい。

「大きな靴を被った君に一目惚れしたんだ。あの日からずっと君に惹かれていた……今私の腕の中に君がいると言う現実が、まだ信じられない。アンジェリーナ……どんな君もかわいいと思ってしまう私を受け入れてくれるかい?」

 うっとりと、まるで崇拝対象を見るような目を向けられても困る。

 美形なのに。超絶美形なのに本当に勿体ない。

 それにしても、靴を被った姿って、やっぱり【旦那様】っておかしな趣味をしているのね。頭に変な物を乗っけた人が好きなのかしら。

「頭に靴を被ったって……もしかして、ジーンの十二歳の誕生祝いの時?」

 庭師のジョージの靴を被ってカーテンで作ったドレスを着た日ね。ジョージったら足がとっても大きいの。なんと四十三センチもあったのよ。それに背だってとっても高くて、よく後ろから不意打ちで乗っかって困らせていたわね。

「君も覚えていたんだね。ああ。そうだよ。あの日の君、とっても個性的で……お祖母さんのクローゼットからぶかぶかの服を引っ張り出してお父さんの靴を履いて靴を帽子代わりにして、そんな格好をしているのに、あの空間で一番かっこいいのは自分だと言わんばかりに堂々と歩いている姿が本当に印象的で……新鮮だった。あの日から、ずっと君を追っていたんだ。次はなにをするのか、とても楽しみだった」

 え? ちょっと待って。それってつまり……。

「旦那様、あたしの格好ダサいって思ってたってこと?」

 あれ自信作だったのよ? お母様には勿論叱られたけれど。客室のカーテンを切り刻んでカフタンを作ったの。とってもイカしていたと思うのに!

「お母様にはカーテンを切り刻んだことを叱られたけれど……ジョージも勝手に靴を持っていったことを注意されたけど……おじいさまの靴は最終的に没収されたけど……あの日のあたし、今見たって絶対見劣りしないくらいイカしてたわ」

 激ダサファッションよ。あたしがこの世で一番イカしてると思いながら歩いているから超カッコイイのよ。

「あれはカーテンだったのか。それにしてもよく覚えているね。君はまだ、六歳だっただろう?」

 あ、はぐらかされた。やっぱりダサいって思っていたのね。

「うん。凄くダサい格好なのに君が着ると不思議とかっこよく見えるんだ。君はいつだって輝いてる。夜会に竹馬姿で現れたときは驚いたけれど」

「あたしの格好、いつもダサいって思ってた?」

 思わず睨んでしまう。

「君以外は着こなせない装いばかりだとは思っているよ」

 うん。言い回しは素敵だけどつまりダサいって思っているのね。

「つまり旦那様はダサい装いの人が好きなのね」

「それは誤解だ。私は、君やジュールのような自分の軸からぶれない人に惹かれるんだ」

 またジュール様の名前が出て驚く。

「ジュール様はスーパーモデルよ。自分をどう見せたいかしっかり理解して完璧な計算で振る舞っているわ。あたしとは違う。あたしはあたしがやりたいことだけしているだけよ」

「うん。君のその自由なところがとても好きだ。だから、君の行動はできるだけ制限したくないと思っている。だけど、君と過ごすうちにどんどん欲が出てしまうんだ」

 髪を撫でられたかと思うと、その一房に口づけられる。

「連れ歩いて見せびらかしたいような、閉じ込めて独占したいようなこの感情の揺れ幅とどう向き合っていいのかわからない。君の作品をできるだけたくさん見たい。君の自由な姿を壊したくない。だけど……ジュールと過ごす君が楽しそうで、嫉妬してしまった」

 普段の柔らかな声色ではなく、少し冷たくも感じられる響きに驚く。

「ジュール様は、きっととっても話の合う方よ。とっても面白いお方。強烈な印象を持っているし、広告にはぴったりね。でも、あたしの創作意欲を刺激してくれて、描きたいと思うのは旦那様よ。この違い、わかるかしら? あたし、言葉でなにかを説明するのって苦手よ。だから、代わりにこの『端末』を見せてあげる」

 引きこもっている間に描いたたくさんの【旦那様】が詰まっている。

「アンジェリーナ……ジュールに求婚されても私を選んでくれるかい?」

「ジュール様にはとっても素敵な婚約者がいらっしゃるそうよ。あたしも会ってみたいわ。型紙を作る専門家なんですって」

 意外。【旦那様】が嫉妬するなんてとっても不思議な感覚ね。

「あたし、旦那様はあたしに興味がないのだと、ずっと思っていたから……今の話を聞けて嬉しいわ」

 これって、つまり、【旦那様】はあたしを女の子として見てくれてるってことでいいのかしら? それとも、お気に入りの画家を他の誰かに盗られるのが嫌なだけ?

「……アンジェリーナ、君はまだとても誤解しているような気がするのだけど……私は、君が絵を描けなくなってしまったとしても、きっと君を愛していると思う」

 きっと。それは確信がないから? それともいつか再び描けるようになることを期待するっていう意味?

「あたし、生まれてから一度も描けないなんてことを経験したことがないからよくわからないわ。だって、いつだって気が向いたようにしか描かないもの。だから、誰かの肖像画を描いたりとかは少し苦手。依頼されて描くのってなんだか自分の作品じゃないみたいだもの」

 あたしの作品はいつだってあたしの心を映す鏡。そう思っている。

「もどかしいな。どうしたら君に気持ちを伝えられるだろう。私は。あまり人に気持ちを伝えるのが得意ではないから……」

 目を伏せる【旦那様】は不思議な色気がある。これはきっと同性も魅了してしまうに違いない。前世のあのさえない男は決して同性愛者ではなかったはずなのに。

「近頃、とても君に触れたいと思ってしまう。その、君が嫌でなければ……もっと触れたい」

 少しだけ、恥ずかしそうに口にした【旦那様】はいつもより幼い印象に見える。なんというか可愛らしい。

「いっぱい触れて。あたし、旦那様にたくさん可愛がって欲しい。撫でられるの好きよ。それにぎゅーってされると嬉しい。お膝のお誘いは断らないの知っているでしょう?」

 そう答えるとふふふと笑う【旦那様】はいつもの穏やかな様子だ。

「ありがとう、アンジェリーナ。凄く嬉しいよ。このまま添い寝をして欲しいなんて言ったら君を困らせてしまうかい?」

 本当にずるい人。そんなのあたしが断らないって知ってるくせに。

「あたしも、旦那様の凄テクが恋しくなった頃よ。旦那様ったら寝かしつける天才なんだもの。旦那様がいないと気絶するまで動くしか眠る方法を思い出せなくなっちゃうわ」

 視線が合うと思わず笑ってしまう。

 ねぇ、今、あたし達、とってもいちゃらぶな感じじゃない?

 変なの。

 あたし、今、欲しいもの全部手に入れちゃった感じ。

「アンジェリーナ?」

 心配そうに覗き込まれる。

「ねぇ、旦那様。あたしね……今、すっごく幸せで……幸せ過ぎて……」

 あれ? どうしてだろう。

 涙が溢れてる。

「旦那様が……大好きで……」

 おかしい。涙が止まってくれない。

 ああ、そうだ。あたし、まだ【旦那様】に隠し事をしているんだわ。

 後ろめたさが、苦しい。大好きだからなにもかも曝け出したいのに。

 大きな手が涙を拭ってくれる。

「大丈夫だよ。アンジェリーナ。君は少し疲れているだけだ。休めばよくなるよ」

 優しい手が、背を撫でてくれる。いつもの、寝かしつける優しい手だ。

 怖いことなんてなにもないよと言ってくれる優しい手が、すぐに深い眠りに導いてくれた。






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