9 ドレスとあたしと旦那様



 ドレス作りに張り切りすぎてまた【旦那様】を放置してしまったが自分でも見惚れる程の出来には満足している。

 それに、今朝はなんと朝食に誘ってもらえた。あの【旦那様】に。

 正直食事のメニューすら覚えていないけれど、穏やかな【旦那様】は本当に綺麗だった。アーノルドが横から新聞を出したり仕事の話を振らなければもっと楽しかったのにと少しだけ恨めしく思ってしまうけれど、お仕事の邪魔をしたら嫌われてしまうと思って我慢する。

 アンジェリーナ・ハニーはいつだって自分中心で生きているのだから誰かに好かれることだけ考えるようなつまらない生き方はしない女。ずっとそうやって生きてきたのに、どうも【旦那様】のことになると話は変わってしまうらしい。彼に嫌われたくない。そんなことばかり考えてしまうようになった。

「アンジェリーナ、目の下に隈が出来ている。少し休んだ方がいいよ」

 去り際に頬に触れて心配そうに言った【旦那様】の手の温もりが忘れられない。

「……眠れなさそう……」

 言われたとおり寝室で仮眠を取ろうと思ったのに【旦那様】の視線と声と温もりが忘れられずに悶えてしまう。

「アンジェリーナ様……本当に旦那様がお好きなんですね」

 アナは面白そうに笑う。

「べーつーにー! 折角夫婦になったからいちゃらぶ生活を送りたいだけよ。あたしみたいな変人に求婚してくれる物好きなんて旦那様くらいしかいないんだから……それに、すごく優しいし……温かいし……名前を呼んでくれるし……」

 彼に名前を呼ばれるだけですごく幸せな気分になる。変なの。名前なんてみんな呼んでくれるし、呼ぶためにあるのに。【旦那様】に呼ばれると少し特別な感じがする。

「それにしても二日でドレスを仕上げるなんて本職も驚きますよ」

 ドナはドレスを眺めながら言う。

「そう? 自分の体型だし、型紙あるからすぐよ」

 元々縫うのがかなり速い方ではあるけれど、今回はペイントの方に時間が掛かったから少し作業が遅れてしまったわ。

「ターンをするとちゃんと旦那様のお顔になるのよ」

「……肖像画を着ているみたいになってしまいますね」

「肖像画を着るのよ。髪型とメイクどうしようかな。スカートの方に注目を集めたいから頭は少し地味でもいいかな」

 立っているときは変わった柄にしか見えないけれどターンをすると【旦那様】のお顔になるドレス。先にスカートのパーツに絵を描いてからの縫製だったからペイントが崩れないようにするのが一番の難所だったわ。

「旦那様に気に入ってもらえるといいけど……」

 でも、こないだの肖像はお気に召さなかったみたいだし……もしかしたら肖像を描かれるのが嫌なお方なのかしら?

 勝手にドレスに肖像を描いてしまったから嫌われる? え? あたし嫌われちゃう?

「アナ……あたし、旦那様に嫌われちゃう?」

 不安になって思わず訊ねてします。あたしらしくない。

「大丈夫ですよ。アンジェリーナ様の素晴らしいドレスならきっと気に入って頂けます。以前のアンジェリーナ様なら間違いなくご自分のお顔を書いていましたがそれより更に一歩愛が進んだのです」

「そうね。あたしは世界で一番あたしが好きだからあたしの顔でドレスを作ったこともあるけど……自分を愛しているからこそ他人を愛せるのよ。あたしはあたしが一番好きだから旦那様にもあたしを好きになってほしい」

 もう自分を愛せなかったあのさえない男じゃない。あたしはアンジェリーナ・ハニー。世界で一番あたしを愛している女。

「旦那様にはアンジェリーナ・ハニーを受け止めて欲しいわ」

「……アンジェリーナ様、あのぅ、申し上げにくいのですが、既にご結婚されているのでハニー姓のままでは旦那様が大変悲しまれます」

 ドナが遠慮がちに言う。

「あ、そうだったわ。あたし今ジェリー姓だった。名前がすごく気に入ってたからこのままブランド名にしようと思っていたのに」

 王都に自分のブランドの店舗を構えるのが密かな夢ではあったけど、いくら放任主義の【旦那様】とは言えそこまで許してくれるだろうか。

「その時はアンジェリーナ・ハニー・ジェリーにすればよろしいのでは?」

「流石アナ! その通りよ。かわいい名前がそのまま残るわ」

 その発想はできなかった。だって、ずっとブランド名は自分の名前だと思っていたもの。

 しばらくメイド達と楽しくお喋りをしていると控えめなノックが響く。

「どなた?」

 訊ねればひょっこりと【旦那様】が顔を出す。

「アンジェリーナ、眠らなくて大丈夫かい?」

 心配そうに訊ねられる。

「興奮しすぎて眠れないの」

 正直に答える。折角だから自慢のドレスを見てもらおうかしら。

「いけないよ。ちゃんと眠らないと。体を壊してしまう」

 心配そうな彼が、優しく触れる。

 この人を困らせてしまっている。

 でも、この人は本当の【旦那様】じゃない。

「ねぇ、旦那様。どうして……酔っているときかお薬が効いている時しかあたしとお話してくれないの?」

 そんな風に、無理をしないと会話が出来ない相手なのだろうか。そうだとしたら、それはとても悲しい。

「それは……」

 視線を逸らされてしまう。やはり彼はあたしが怖いのだろうか。

「アンジェリーナ、君はなにも悪くない。問題があるのは私の方だ」

 とても悲しそうな目で見られて居心地が悪い。

「……やっぱりちょっと寝るわ」

 寝不足のせいよ。きっと。だからこんなに悲しくなるんだ。

 泣くつもりなんてなかったのに、気がつけばぼろぼろと涙が流れる。

「泣かないで。アンジェリーナ……私は、君を泣かせてしまってばかりだね」

 優しい腕に抱きしめられる。

「もう少しだけ待って欲しい。私が……君を直視できるまで……」

 心底申し訳なさそうな声の彼の言葉の意味が理解できない。

 けれども優しく背を叩かれ、すぐに深い眠りに落ちた。




 目が覚めたのは翌朝だった。【旦那様】にとてもかっこ悪いところを見られてしまった気がする。目が覚めたときには既に彼の姿はなく、ドナがせわしなく化粧品や装飾を用意しているところだった。

「奥様、今日は夜会ですよ。早めに髪型やお化粧を決めないと」

「自分でやるから大丈夫よ。あたしすごく上手いから」

 メイクはプロ級よ。だって画家だもの。自分の顔に絵を描いたら美女になったさえない男が生まれ変わったのよ。すごくメイクが上手いに決まってるじゃない。

 ふんふんと得意気に言うとドナはがっかりしたような顔を見せる。

「奥様のお化粧、任されたかったのに……」

「だめよ。メイクは儀式なの。あたしがあたしで居るための。人に任せられないわ。まぁ、髪はちょっと手伝ってもらうこともあるけど」

 こればかりは仕方がない。自分でやらないと思い通りの仕上がりにならないかもしれないもの。

「アンジェリーナ様はとても拘りが強いので、ドナ、諦めて下さい」

 アナが諭すように言う。

「はぁい」

 それでもドナはまだ未練がましい表情であたしを見る。

「……夜会じゃない日なら付き合ってあげてもいいけど……」

 でも【旦那様】の前では完璧なあたしでいたい。

 それにしても、眠る前のあの言葉……どういう意味なのだろう。

 あたしを直視って。色眼鏡を掛けているわけでもないのに。それともあれ? 太陽みたいに直視したら目が焼けるとか本気で思われてる? どんな怪物よ。

 もやもやしながら食事を取り、入浴を済ませ化粧を始める。着替えは一番最後。だって折角の【旦那様】の肖像にアイシャドウなんて溢しちゃったら一大事だもの。

 ベティに髪を結ってもらう。今日はわりと大人しめに。それでも髪飾りはとてもきらきらした美しいものだ。

「この石本物? こんなに大きいの?」

「はい。旦那様が奥様の為にと、結婚前からたくさん用意して下さっているのですよ。衣装部屋にまだたくさんありますからご覧になりませんか?」

 ドナは楽しそうに言う。

「うーん、あんまりきらきらは興味がなかったけど……旦那様の趣味の把握にはよさそうね」

 正直、用意してもらったドレスやなんかはあまり見ていない。自分のドレスは自分で作るし、化粧品だって自分で持ってきた。装飾品も基本的には自分で作るから宝石を身につけることは少ない。むしろイミテーションを砕いた方が輝きが増すからそう言った物を使うことが多い。

 衣装部屋の宝石を見せてもらうとこれまた見事な物が多い。大きな石を使った、少し派手な物から淡い色合いで主張の少ない物まで両手で抱えられないほどの量がある。

「……これ、あたしの趣味がわからなくてとりあえず数だけ集めました感がすごいんだけど……」

「たぶんその通りだと思います」

 ドナは頷く。一応ドレス類にも目を通すけれど、あたしの趣味じゃない大人しいデザインが多い。それに白っぽい物が多い。

「好きな色に染めろって意味かしら?」

 一番最初に気に入らなかったら壁を塗り替えてもいいって言ってきた人だし、そういう部分はあるかもしれない。

 なんだろう。友好的に接すれば噛みつかれないとかそういう判断なのかしら? あたしは異教の神かなにかかしら? 邪神? そんな扱い?

 もやもやとしていると【旦那様】に呼ばれる。

「アンジェリーナ、そろそろ出られるかい?」

 あの穏やかな、偽物イミテーションの【旦那様】の声。でも、たぶんあたしに求婚してくれたのはこっちの【旦那様】だと思う。ううん、酔ってる方かも。

「今行きます」

 返事をして、靴を履き忘れていたことに気がつく。

「靴! アナ、五番の靴取って」

「アンジェリーナ様、一日中浮いているから履き忘れるのですよ」

 呆れた声。仕方ない。浮いた方が楽なんだし。

「夜会では、踊るときはきちんと地に足をつけて下さいね」

「はぁい」

 小言を貰って部屋を出れば、白に銀糸の美しい礼服を身に纏った【旦那様】がいつも以上に煌めきを増して立っていた。

「お待たせしました」

「……あ、いや……君のことならいくらでも待つよ。その……すごく、綺麗だ」

 驚きを見せ、それから少し硬直した彼はようやく口を開き僅かに視線を逸らす。

 どうして、視線を逸らすの? あたしのこと嫌い?

 また、泣きそうになってしまう。するとそれに気がついたのか【旦那様】は慌てたようにあたしを抱き寄せた。

「ごめんね。君があまりにも綺麗で……直視できなかった」

 優しく、髪に口づけられる。今日はとがってない髪型にしてよかった。

「あたしのこと、嫌ってない?」

「まさか、君を嫌うはずなんてないよ」

 優しく背を撫でられると安心する。けど、眠ってしまわないように気をつけないと。

「だって、いっつもすぐ寝かしつけるから」

「あれは……君が積極的すぎるから……少し対応に困っていて……その……まだ、お互いをよく知らないだろう?」

 順番がおかしい。よく知らない人間を嫁にした人に言われたくない。

「旦那様って、おかしな人。でも、旦那様くらいおかしくないときっとあたしに求婚なんてしようとも思わないわね」

 正直な感想を口にすれば、【旦那様】はまた硬直してしまう。

 あら? 不味いことを言ったかしら? 復活が遅い。今日はお薬を飲んでいるのだと思ったけれど復活が遅い。

「旦那様?」

 声を掛けるとはっとした様子で動き出す。

「ごめんね。さぁ、行こうか」

 完璧なエスコートの姿勢に戸惑う。ユージーン以外にこんなことをされるのは初めてだから、少し緊張するわ。

「浮いていても構わないよ」

 あたしが遅かったからだろうか。【旦那様】が優しく微笑んで言う。

 確かに、浮いていたら【旦那様】に引っ張ってもらえて楽かもしれない。

「あんまり楽ばっかりしたら美味しいシャーベットでぶくぶく太っちゃうわ」

 今日は歩くと言うと、彼は本当に楽しそうに笑った。





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