第29話 五万

「おっちゃん、つっかけとってきたばい。」

「…う、おお。」


 友人の漁師が持ってきたのは犬が百回は噛みたくってしゃぶりつくしたようななんともいえないビーチサンダルであった。おっちゃんはうつむいていた頭を上げるとビーチサンダルをつっかけ今度は比較的スムーズに動きだした。雨はまだしとしと降っている。歩き出してふと前方を見るとおっちゃんの靴のような何かを咥えた茶色の犬が遠くの波止場辺りをはしりまわってあそんでいた。


「…う、う。」


 おっちゃんがうめく。これではどちらが犬なのかわからない。犬はこちらをちらっと見たあと私達と反対の方向へ走っていった。おっちゃんは犬を追いかけもせず「まあ、夕方になったらもどってくやろ。」とつぶやいている。


「おっちゃん、船はどこね?」

「…う。あの、奥の船溜まりにおいとうよ。」


 私たちは霧雨の中を船溜まりまで歩いた。


「…う。う。これや。もうだいぶ長い間動かしとらんけん。エンジンかかるかいな。」


 おっちゃんがいった船は本当にぼろぼろの和船で15フィートぐらいだろうか。5馬力の2ストの船外機がのっているがほとんど動かしたことがないようだ。友人はぴょんとその船に飛び乗ってエンジンのスターターロープを二度三度ひっぱった。すると割合元気な音をたてエンジンが目を覚ました。おっちゃんが驚いたように言う。


「…う。かかったねえ。」

「おっちゃん。エンジンはかかるごとあるね。なんか、この船に問題はあるんかいな?」

「…う。う。真ん中のデッキがくさっとる。ぶわぶわするやろ?」

「ああ。ここんとこかいな?」

「…う。そこ。そこはなおさないかんやろな。」

「で、おっちゃん、この船なんぼでいいんかいな?」

「…う。う。5万でいいよ。」


 5万。私は二人のやり取りを聞きながら正直たまげていた。くさりそうな、いやデッキの真ん中が実際に腐っている船が5万。たしかに安い。安いがこれを買って私は釣りにでることができるのだろうか?出たはいいがはたして無事に帰還できるのであろうか。それどころか沖にでたらそのまま沈没したりしないのだろうか。第一、GPSなどはどうやって付ければいいのだろうか。山立もできないし、出港した後自分の位置も把握できない。地形さえよくわからない。地形どころか水深もわからない。胸を張って言えるが私はずぶの素人なのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る