Gravitational Singularity–02–

 枯れた空気のなかに、濃密なダチュラの香りが漂っている。


 そこは窓のない四角い小部屋で、天井から吊るされたランタンの燈火が、朧に闇を照らしている。壁には覗き窓のついた扉があり、ぎっしりと書籍を詰め込んだ本棚があり、色とりどりの薬瓶が並ぶキャビネットがあった。紙片や電子新聞の薄っぺらい端末が散乱する床は、お片付けが嫌いな子供の部屋みたいだった。


 部屋の真ん中に置かれた鋳鉄のテーブルの上で、なにを考えていたのかを、少女はもう覚えていない。ただ思い出せるのは、これが一番古い記憶であるということ。血が染みた病衣を着せられ、両腕は布の抑制帯で拘束され、下着が剥きだしになった下半身には皮膚のない機械化義足があった。その義足も、頭に埋め込まれた電脳ドライとの同期を切断され、役立たずの鉄屑でしかない。けれど、あるはずのない脚が疼くのを感じる。記憶にはなくとも永遠に残る、脚切りの疼痛を。


 ――まただ、またこの夢。


 もう何十回と繰り返してきた、過去の追想。いつだって影みたいに付きまとって離れない、忘れたくても忘れられないもの。


 次に起こることを、少女は知っている。白いコートを羽織り、白いズボンを穿き、白いペスト医師型の防疫マスクで顔を隠した白ずくめの三人が、扉を抜けて部屋へと入ってくる。それぞれが別の方向から少女を囲み、身振り手振りで短く会話を交わす。


 右手側に立つ者が、ダレスバッグから黒革の包みを取り出しテーブルの上で広げると、ランタンの明かりをぬらりと反射する鈍い光沢がそこにあった。針金みたいに細身のハサミや、大小さまざまなダマスカス模様のメスや、電動式の骨切り鋸――医者と生物学者のお供たる解剖用具の数々。左手側に立つ者は、黄金色に発光する溶液を注射器に詰め終えている。冷たい針先を指で弾くと、チューブラーベルの短鐘みたいな音が響いた。


 頭の側に立つ者だけは、身じろぎせず、手を後ろで組んだまま、じっと少女を見下ろしている。他のふたりと違い、ペスト医師型のマスクにはフォークロア風の紋様が刻まれて、まるで古代の呪い師みたいだった。


 埃さえ立たないような沈黙が過ぎると、右手側の男がメスを握った。美しい波紋が刻まれた切っ先が、静かな、ただ静かな光を帯びて、ゆっくりと少女の目に吸い込まれていく。


 黄金色の麻酔の作用によって、すべてが無感覚となった――痛みも、気が触れそうになる恐怖も、脳髄ウェットを弄り回される感触も。


 過ぎるはずの時間は永遠となり、溶けかけたまま凍った少女の意識はダチュラの夢を求めて彷徨った。ただ眠りに身を預けることが、願いのすべてだった。


 ――ほんとうに?


 §


 黴た空気のなかに、アブサンの匂いが満ちている。


 そこは――大抵は安宿の狭い部屋で、時には街を見下ろす高層ホテルのスイートだった。どちらにせよ、テーブルにはサービスドリンクのボトルがあり、ふたつのグラスには透き通る緑のリキュールがあり、電子新聞の薄っぺらい端末がある。古びたラジオからだろうと、高級オーディオシステムのコンポからだろうと、聴こえてくるのは大抵、サティかドビュッシーだった。世界が終わる前に存在していた無限とも言える音楽のなかで、完璧な形で再現された、数少ないスコア。


 ニガヨモギの芳香とアルコールがもたらす酩酊に沈みながらベッドに横たわった少女は、楽し気なパターンを描いて昇っていく阿片アヘンの煙を、ファンがくるくるかき乱すのを眺めていた。ベストを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、裸同然になっても長いソックスだけは身に着けたまま。そうすることで、安い人工皮膚の縫合部を隠すことができた。


 裁断された記憶を縫い合わせながら、追想の夢は続いていく。


 あの狂った小部屋からどうやって逃れたのか――その記憶は欠落し、失われている。白ずくめの三人が誰だったのか、自分が何をされたのか、なにも、なにひとつ、知れない。気づけば巨大な街をひとりで惑い、ひとりで生きてくしかなかった。誰もが倦み疲れた救いのない夜のなかでよすがとなるものは、自分の声と、顔と、身体だけだった。


 いつからか、ベッドの傍らに誰かが立っている。それは、殆どは疲れ果てた壮年男で、稀にまだ疲れを知らない若い男で、ごく稀に溌剌とした女だった。なんであれ、それは重要なことじゃなかった。重要なのは、その者たちの懐から零れるクレジットと、偽善の結果だった。


 その誰かに、少女はひとつだけ約束させた。防疫マスクを決して脱ぐな、と。無機質な仮面の下にある人間のつらを、見たくなかった――信じたくなかった。せめて自分の身体を貪るのが顔のない獣だと思えば、心を保つことができた。ほんの小さな、慰めに過ぎないとしても。やがてすべてが終われば、少女はグラスに満たしたアブサンに阿片丁幾ローダナムを垂らしたカクテルを呷り、首に浮かぶ赤い手形をさすった。


 緑の妖精のまぼろしに今日と痛みの記憶を預け、少女は明日を思い煩う必要もないまどろみの訪れを待った。ただ眠りに身を預けることが、願いのすべてだった。


 ――ほんとうに、これが?


 §

 

「なぜ必死になって走るの、レディ?」

「休むことだって許されているのに、レディ?」


 あらゆる場所に咲き乱れた唇が、解すことのできない言葉を投げる。少女は耳を塞ぎ、走り続けた。


 青ざめた街灯の光を過ぎ、朽ちた彫像の袂を越え、氷雨のさいなみにただ耐えて――狂気に蚕食された街の夜を、速く、ただ速く。


 街が蕩けていく。世界が切り離されていく。悪夢が、迫りつつある。けれど少女にはなにもできない――なにをすべきなのかも、わからない。


 足元で開いた残忍な唇が、真っ白なエナメルの歯で喰らいつき、噛み千切り、咀嚼する。義足を失った少女は倒れ伏し、絶望し、暗い感情を募らせる。凍えつき、指を震わせながら、地面に散ったクレジットチップに手を伸ばす。


「とても残念だ、レディ」


 形を取り戻した現実を背に、ロイヤルブルーの傘を差した美貌の青年が嘆息する。青年は屈み込み、少女の顎をつかみ、シアンの瞳を輝かせる。銀のナイフが、収穫者の役割を果たす瞬間を待ち望み、雨粒のよだれを流している。


「もう、壊すしかなくなってしまった」


 そして――描かれた銀の軌跡は赤い放物線へと変り、世界は夜の暗さと冬の寒さのなかへ、閉ざされていく。雨が喝采を叫びながら、終幕が下りていく。新たな夢が沸きあがり、少女を優しく包んでいく。ダチュラよりも甘くて、アブサンよりも優しい終末の夢が。


 もう、苦しい呼吸をする必要はなかった。ただ眠りに身を預けることが、願いのすべてだった。


 その筈、だった。


 ――ほんとうに、これが、わたしの願い?


 眠れば楽になるだろう。目覚めなければ苦しむこともないだろう。それは確かに少女の願いで、ただそれを手にすることだけが、生きる意味で死ぬ意味だった。もう決して、悪夢を見ることもない。


 ――違う。


 けれど、少女は気づいていた。残忍な現実に傷つけられるたび、理不尽な世界の重さに圧し潰されそうになるたび、脳髄ウェットに湧きあがっていたものに。暗い、暗い感情に。


 ――どうして眠らなければならない? 壊れて、狂って、腐り果てて、なにかを奪うばかりのゴミみたいな世界から逃げる必要が?


 抑えがたく胎動をはじめた暗い感情を苗床として、一輪の花が育っていく。光を捕えるほどに冥い、真黒の葉。それは瞬く間に大きくなり、少女の身体に蔦を張りめぐらせ、蕾を膨らませていく。硬い殻に覆われた、星のように丸い蕾を。


 ――許さない。なにも与えないならば、いつも通りに夜が過ぎて、明日が続いていくならば。


 呪詛の言葉は剣となり、憎むべき者たちの影へと切っ先を伸ばしていく。少女を壊した三人の医療者へ、少女を穢した仮面の獣たちへ、そして少女を殺した青い瞳の男へと。憎悪が、恥辱が、絶望が――花の肥やしとして注がれていく。


 ――そんな世界ならば、もう、壊すしかなくなってしまった。


 蕾が砕けて、花が咲いた。闇を染めあげる、血のように真っ赤な花が。


 少女は、自らの悪夢へと手を伸ばした。


「またひとつ、新たな悪夢が生まれました、我が主マイ・ロード


 §


 雨の音が聞こえる。


 夜の終わりを告げる鐘の音が聞こえる。世界を閉ざす灰色の雲が晴れることはなく、空には永く光がない。けれど地上には光がある。青ざめた街灯の光、冷えきったネオンサインの光、憂いを帯びたホログラフの光――失われた星空を、取り戻そうとするかのような瞬きが。


「……機械化義肢リム、取り外した。潰れてる、鉄屑でしかない」


 雨の音が聞こえる。


 街が蠢きだす音が聞こえる。あらゆる腐敗が流れ着き、常軌を逸したテクノロジーとこの世ならざる怪異があふれ、黒檀の摩天楼と白亜の神殿が建ち並ぶ、世界最後の都市――ターミナル。幾億という人々は汚れた大気を呼吸し、電子と阿片アヘンの夢に耽り、老い疲れては終わっていく。


脳髄ウェットの一部が切り取られている。電脳ドライ記憶野ストレージが抜き取られている」

「……肉と内臓だけ。クレジット、稼ぎ、少ない。……手、なにか持ってる」


 雨の音が聞こえる。


 知らない誰かの声が聞こえる。かつて壮麗だった家屋、数え切れない眠りを守る墓石、幻視者が夢見た魔物の彫像。饐えた潮の香りが漂い、すべてが朽ちかけ、汚物が散乱するこの場所で、いままで失われた命の数は? 答えはきっと〝たくさん〟で、ひとつひとつの死の名前を覚えているものは、誰もいない。だから今日、ここで誰かが息絶えたとして、その死は、別の誰かに消費される以上の意味はない。昨日までは、そうだった。


「……チップ。未使用、一千クレジット、二枚。儲けた」

「もうバラすぞ。この長雨なら解体できる死体には事欠かない」

「……おかしい、今――」


 雨の音が聞こえる。


 雨が滴る音が聞こえる。真っ赤に濁った水たまりに、少女の死体が浮かんでいる。肌は無残に青ざめて、髪はふやけた藻のようで、身体は硬く冷たい氷像のようで。それでも雨に慈悲はなく、永遠の責め苦みたいに、ただひたすら降り続いている。しとしと、しとしと――冷たい雨が。


 けれど――もう寒くない、と少女は思った。


「――今、動いた」


 男の頭蓋が砕け、湯気立つような血と脳漿が飛び散った。なにが起こったのかを理解する間もないまま、命を手放し、汚水のなかに己を溶かした。悪夢を目撃できなかったことは、幸いだったのかもしれないけれど。


 死んだ少女は、殺した男を貪った。


 仰向けに倒れた男の身体にハグをして、その背に深々と爪を食い込ませた。防疫マスクごと無惨にひしゃげ、白とピンクの混合物をあふれさせる頭蓋の下――未だ脈打つような首筋を噛み千切り、赤々と流れ落ちる血を啜った。うら若い少女が――腐り落ちるのを待つばかりだったはずの死体が。


「……運、悪い」


 死体漁りの解体業者は、同僚の肉体が涸れていくのを呆然と直視していた。完全に機械化したガスマスク型の顔に表情はなくとも、発声装置が呟いた電子音声の震えが、隠しえぬ恐怖を露わにしている。震える手が奪ったクレジットチップを手放し、二枚のカードがぬめる石畳に落下する。夜の終わりを前に、闇と雨が強まっていく。


 少女は、濡れた地面に手をついた。脚のない身体で、泳ぐように地面を這った。虚ろに宙を彷徨う瞳はいまや薔薇色の光に満ち、青白い電光よりも苛烈に影を照らしている。血にまみれた口元から露になった犬歯は獣の牙みたいに鋭く尖り、頭蓋を潰した両手の爪はまるで十本の剣だった。


 解体業者は回転式拳銃リボルバーを抜き、引き金を絞った。電脳制御による正確無比な射撃が、輝く右目とその周辺を吹き飛ばす。血煙が舞い、動く死体はうつ伏せに倒れた。


 けれど、もう、死ぬことはなかった。もう、死んでいるのだから。繰り人形みたいにぎこちなく身体を反らせ、欠けた顔面を手で押さえた。長い爪の間から覗く薔薇色の左目が、今度は真っすぐに解体業者を見据えた。そしてゆっくりと、邪悪に笑った。


 狂気が世界を這いまわった。


 少女の顔面に開いた穴から、切断された両脚から、無数の触手が萌芽して、のたうった。それは互いに絡み合い、織り上げられ、形を成し、やがて骨となり、肉となり、皮へと変わる。生命を冒涜するような数秒を経て、失われたものがあるべき場所に取り戻された。輝きをいや増していく薔薇色の右目と、艶やかな裸足の脚が。


 少女はゆっくりと立ちあがった。汚れた水と粘つく血で濡れた黒髪が褪せてゆき、百年の時を経たみたいに真白に染まった。雪と、時がもたらす死の色に。


 少女は、自らの悪夢へと手を伸ばした。現実の向こうの領域を手繰り寄せ、心に眠る凶器を抽出する。そして、掴み、引きぬいた。見るもおぞましい瀉血しゃけつの魔具――氷煙をふりまく、赤い、赤い凍てついた剣を。


 少女が一歩を踏み出す。獲物が一歩を下がる。少女が一歩を踏み出す。なにかが踏み砕かれる。


「……命なき者ライフレス、か」


 解体業者は、怪物に与えられた名前を口にした。


 続けざまに、五発の銃声が空気を震わせた。放たれた鋼鉄の弾丸は怪物の心臓を目がけて飛び、けれど達することはなく、空気だけを貫いた。そこには最初から、なにもなかったように。降りしきる雨、永すぎる夜、明滅する街灯――変わらない陰鬱な街並だけが、哀れな獲物が目にした最期の景色だったろう。


 少女は、獲物の背後に立っていた。影のように沈黙し、ただそっと、くびに剣を這わせながら。命を握りしめる感触を、確かめながら。


 赤い軌跡が閃いて、赤い雨が降った。温く、暖かい、通り雨が。それを最後に、雨は止んだ。灰色の雲がかすかな群青を帯びていく。


 永い夜が明けていく。新たな〝夕暮れ〟が始まっていく。けれど、あまりに暗い闇のなかで、あまりに冷たい雨のなかで、どれくらいのものが零れ、失われたのだろう。どれくらいのものが水底へと沈み、また澱んでいくのだろう。灰色の雲に閉ざされた世界に光が射すことはなく、また夜が来れば、酷薄な現実と狂おしい怪異があふれ出し、命あるものたちを飲み込んでいく。――けれど、死にながらに生きるものは? 悪夢を住処とするものならば? 生まれたばかりの命なき者ライフレスは、その答えをまだ知らない。


 雨の音は、もう聞こえない。


 ふたつの死が横たわっている。ひとつの死が佇んでいる。夕霧が立ち込めて、地を染める汚穢を隠していく。妖精の銅像が掲げる灯火が、踏み砕かれたクレジットチップを照らしている。その破片を眺める薔薇色の瞳は、もうそれを求めていない。


 少女は、両手が真っ赤なもので濡れていることに気が付いた。かつて誰かのなかに在り、いままた自分のなかに流れるもの。芳しい香りを漂わせる、ルビーのジャム。いま、ほんとうに求めるもの。少女はそれを、青い舌でゆっくりねぶった。


「……甘い」




 Gravitational Singularity–重力特異点– 終わり、


 Red Shift–赤方偏移– へ 続く。

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