血の赤、星の黒。

二都

Nightmarish Cybernetic Fantasy

Overture

Gravitational Singularity–01–

 濡れそぼち黒い鏡となった石畳に、夜の光が映りこんでいる。

 

 それは、青ざめた街灯の光、冷えきったネオンサインの光、憂いを帯びたホログラフの光。


 重たい雨粒が道を打つたび、灰色の雑踏が路を踏みしめるたび、水面はきらめく泡沫となって宙に散り、また地に落ちていく。


 雨水は、やがて小さな川となって緩やかに流れ、交わり、滑り、そして道脇の排水溝へと消えていく。最後まで、暗い光を湛えたまま。


 そんな暗喩じみていて――実際は何の意味も持たない光景を、少女はじっと見つめていた。時の流れに蝕まれ、ゆるやかに腐食していくネオ・ヴィクトリアン様式のビル街の軒下で、雨が過ぎ去るのを待ちながら。或いは親切な誰かが、無邪気な手を差し伸べてくれるのを――或いは下卑た思いを隠した誰かが、薄汚れた手を差し伸べてくれるのを待ちながら。


 電光に彩られた路地を往来する、影のような住人たち。誰もが黒い傘を広げ、鉄仮面じみた防疫ぼうえきマスクで顔を隠している。その下に生身の顔があるという事実が、少女にはとても非現実的に思える。この街に住まう幾億という人間のなかで、ほんとうに生きているのは自分だけ――そんな無意味な妄想が沸きあがる。つまるところ、雨宿りには飽いている。


 うんざりするくらい、飽いている。この街に――世界最後の都市に、雨が降らない日なんてなかった。


 少女は前髪を手で掻くと、鉛みたいに重くなった思考力をようやく働かせた。そろそろ、誰かに声をかけてもいい。脳髄ウェットが擦り切れるくらい、老い疲れたビジネスマンがいい。欲望の捌け口と束の間の癒しを求めて、ジャケットの内ポケットとか帽子の裏側に隠したクレジットチップをうっかりばら撒いてしまうような。その手の人種は、この湾港地帯ハーバー・エントランスにありふれている。


 お願い――


 少女が甘い声で呼びかける。路地の右手側から重そうに足を運んでいた男は立ち止まり、フルフェイスの防疫マスクに隠された顔を向けた。上等なソフトハットとトレンチコートを身に着けていたけれど、それらは濡れて乾いた紙みたいに、よれて皺まみれだった。少女は白い手を軒下から伸ばし、コートの袖を抓んだ。男の傘の上で弾けた雨粒が、少女のシャツの袖を濡らしていく。


 泊まる場所が欲しい。一晩だけでいい――


 哀れっぽく、弱々しく、ねだるように。


 生きるために身に着けた声音と仕草。けれどそれは、隠された諸刃の剣。こうするたび、少女の心は深々と抉られて、忘れえない痛みを残した。一体いつまで、この痛みに耐えればいいのだろう。


 男は少女の手を乱暴に払った。コートのポケットに手を突っ込んで引き抜いた時、指の間に黒い札が挟まっていた。男は少女に差し出した。ノーペアブタのカードを捨てるみたいにぞんざいに、二枚のクレジットチップを。


棺箱宿コフィンにでも泊まりな。ここは子供がいるような場所じゃないし、今は子供が起きてるような時間でもない」


 男は唖然としている少女の足元に、カードを投げつけた。あとはもう、興味が失せた様子で歩き去り、雑踏に紛れ、都市の無秩序な喧騒のなかへと消えていった。少女は男の背を見ていなかった。ただ、泥にまみれた二枚のカードを見つめていた。


 屈みこんでカードを拾い上げる。指先が汚れた。立ち上がってカードを握りしめる。手のひらが痛んだ。


 暗い感情が、湧きあがった。恥辱と、もっとドロドロとしたものがシェイクされ、黒いカクテルとなった。狂おしいほどに苦くて、灼けるように甘い、この一杯。けれど、これは薬。病が命に到るのを、とどめるための薬。飲み干さなければ、瞬く間に蝕まれてしまう。この街を――世界を冒す、酷薄な現実に。 


 少女は防疫マスクの奥で微かなため息を吐くと、ビルのショーウィンドウに視線を移した。錆びついたブラインドが垂れ下がったガラスの向こうには、自分を見つめる自分がいた。まるで他人を眺めるように、少女はその姿をなぞった。


 褪せた鳶色のベスト、つぎはぎした鳶色のショートパンツ、ほつれた鳶色のハンチング。長いソックスに包まれた脚の先には、傷だらけの革靴。黒髪と、グロテスクなチューブが張り付いた金属製のマスクの間から、病んだ薔薇色の瞳が覗いている。磨かれるのを待つまま、忘れ去られた宝石みたいな瞳が。

 

 ――優しい紳士が恵んでくれたのよ。なんの見返りも求めず、物乞いにするみたいにね。嬉しいでしょう、笑いなさいよ。


 自分に向かい呟いて、微笑んでみた。表情はマスクに隠れて、確かに笑ったのか判らなかった。


「ウサギの穴に迷い込んでしまったのかい、レディ?」


 不意に、声が聞こえた。


 少女が振り返ると、若い男が立っていた。いつからそこに? ショーウィンドウのガラスに、そんな姿は映っていなかったはずなのに。


「なんにせよ、ここは余り居心地のいい場所じゃない。誰もが必死に走り続けて、現実にすがりついている。そして息を切らし、疲れ果てている。立ち止まって、休むことだって許されているのにね、レディ?」


 青ざめた街灯を背に受けて、青年の輪郭が淡い光に縁どられている。白いスリーピーススーツ、黒いポークパイハット、ロイヤルブルーの傘。髪と瞳は息を飲むほどクリアなシアンで、夜闇のなかでもきらめくように明るい。陶器じみた白い美貌に防疫マスクはなく、滑らかな唇を汚染された大気に晒している。


 ――人間じゃないの?


 少女がその問いを口にするよりも早く、青年は首を横に振った。


「生きるためには呼吸が必要で、食事が必要で、怪我をすれば血だって流れるだろう。実際のところ、この街の空気はそんなに美味しくはない。ただ好きじゃないだけだ、顔を隠すということが」


 青年は傘を広げたまま、軒下に入り込んできた。少女の視線はシアンの瞳に釘付けになり、痺れたように身動きが取れなくなった。直感が告げる――なにかがおかしい。


「顔を見せて」


 青年は優しく囁いて、滑らかな右手を伸ばした。ほっそりした指先が、マスクに覆われた少女の頬を撫ぜ、手繰り、長い黒髪を梳いていく。だのに、抵抗することができない。目を逸らすことすら、叶わない。明晰夢を見ている時に、似た感覚。


 周囲の景色が、蕩けていくのが見える。建物が炙られた角砂糖みたいに溶けていく。人々が黒い塵となって風に巻きあげられていく。夜闇のなかに灯火が溶け込み、光とも影ともつかない色彩が広がっていく――コーヒーに落としたミルクみたいに。ほんとうに、夢を視ているのだろうか? ふわふわと、不思議な浮遊感がある。ここではない、どこか高い場所にいるみたいな。


 カチリ――と、耳のすぐそばで音が鳴る。セーフティロックが解除され、青年はマスクをそっと剥ぎ取り、互いの呼吸が感じられるほど近くまで身を寄せた。露わになった少女の唇は、ほんの微かに震えていた。


 あなたは、誰――


 と、それだけの言葉を、少女はやっと絞り出すことができた。青年は、一瞬だけ時間の流れに取り残されたかのように動きを止め、だがすぐに身を引いて視線を横に逸らした。短い沈黙――雨の音が聞こえる。崩れていた街の景色が、形を取り戻している。


 少女は身体が自由になっていることに気づいた。夢を見ているような感覚は、もうどこかに去っていた。汚染された大気の匂いが、確かな現実としてここにある。


 シアンの双眸が、再び少女に向けられた。その顔には、作り物みたいに無機質で、ぞっとするほど冷たい微笑みが浮かんでいる。見るものすべてを、凍てつかせるような。


「ああ、やはり君がそうなんだね」


 その右手からマスクが滑り落ち、石畳のうえに転がって、鈍い金属音が響いた。ロイヤルブルーの雨傘を右手に持ち替え、逆の手を――左手を差し伸べた。どこまでも青白く、汚れひとつない手を。ルージュを塗りたくったみたいな、真っ赤な唇が生えた掌を。


 唇は笑い、言う。青年は笑い、そして言う。


「あなたの赤が見たいの、レディ」「君の悪夢が見たいんだ、レディ」


 降りしきる雨の下へ、少女は飛び込んだ。


 振り返ることもなく、跳ねる泥水に構うこともなく、雑踏を掻き分けながら通りを走った。本能が喚きたてる警鐘と、得体の知れない恐怖に突き動かされて。


 冷え切った雨が、慈悲なく体温を奪っていく。道の両端に建ち並ぶ伽藍がらんじみた高層ビルの巨影が、夜闇のなかで凋落していく雨粒にホログラフの電光が交わって生まれる幻影が、距離と方向を狂わせる。それでも、走り続けることしかできない。あれは、出会ってはいけないものだった。


 少女は激しくむせこんで、街灯にもたれかかった。穢れた空気を、いまや身体が拒絶していた。頬を伝う雨粒に、熱いものが入り混じった。灯火の薄明かりの下で、胸の奥底にまた暗い感情が満ちていった。


 永く苦しい数十秒が過ぎ、少しだけ呼吸が落ち着いた。少女は静かに背後を振り向き、浅く息を吐いた。白いスリーピーススーツの姿はなかった。


 ――寒い。


 微かな安堵とともに、それを自覚する。鳶色でそろえた服も、丁寧に梳いた黒髪も、無残にしとど濡れている。暖かい場所に、行きたと思った。


 あたりを見回す。ここはもう、見知ったビル街ではなかった。不潔にぬめる石畳、妖精の銅像が掲げるぼんやりとした街灯、海が近いのか潮の匂いが漂っている。迷路みたいに複雑にくねった小路に沿って、ジョージアン様式のテラスハウスが並んでいる。それは殆ど朽ちかけていて、無数の窓には疎らにしか明かりが見えない。道の一方には腐敗臭のする共同墓地があり、その入り口には怪奇幻想風の怪物を象った彫像がある。


 ここは高層建築街の間隙を埋める裏路地だった。都市から零れた汚物が堆積する区画。それはゴミの詰まったずだ袋だったり、直視できない犯罪だったり、ありうべからざる怪異だったり。来るべき理由のない者が、決して訪うべきではない場所。電光の届かない暗闇のなかに、揺れる影があり、仄かに光る眼が見えた。獣か、人か――どちらにしても、好ましいものじゃない。


 雨空の彼方に、灰色の雲を貫く摩天楼の群れがそびえている。幻想譚ファンタジーの天空街を想起させる、この巨大都市の中枢。どこにいたとしても、あれを見失うことはない。


 少女にはもう、深く考えを巡らす余裕はなかった。早く雨から逃れたい、熱いシャワーを浴びて清潔なベッドに潜りこみたい、阿片アヘンを呷って今日の記憶を夢にしたい。新しい防疫マスクだって必要だった。あれがなければ、外気を吸うたび命がすり減っていく。


 少女の手には、まだ二枚のカードがあった。未使用の一千クレジットチップ。これだけあれば、まともなホテルに泊まることができる。ひとりだけで眠ることができる。新しいマスクを買うこともできるかも。なくしてしまわないように、奪われてしまわないようにカードを強く握りしめ、少女は遥かな摩天楼を目指して歩きだした――歩きだそうと、した。


「二ペンス硬貨、二ペンス硬貨、描かれたるは純潔の女王。信心深き白の女王。けれどあなたはそれよりも、真っ赤なジャムがお好きでしょう。ねえ、レディ?」


 優しげで、艶っぽくて、なによりもおぞましい、声。


 たった今までもたれかかっていた街灯のポールから、その声が聞こえていた。錆びついた金属の表面にあるものは、妖しいまでに真っ赤な唇――真っ白な歯をむき出して笑う、人の顔ほどに大きな唇。見る間にふたつめの唇が、隣の街灯に生え、また笑う。すぐにみっつめの唇が、妖精の銅像に生え、やはり笑う。道に佇む構造物のすべてが、無数の唇に覆い尽くされていく。まるでフジツボの群生みたいに。すべての唇が声をそろえ、フォルティシモでコーラスする。


嗚呼ああ、忘れ難きあの甘味! まこと馥郁ふくいくたるルビーのジャム! 今は貧苦の世なれど、食卓の珠玉は欠くべからず! 小さなレディ、可愛かわいやレディ! あなたのジャムを頂戴な!」


 少女は、走った。行く先も定めず、ただ恐怖が追いつくよりも速く。


 狂気が、花開きつつある。見たものを思い出すたび、聞いた声を思い起こすたび、世界の形が歪んでいく。


 ――まただ、またこの感覚。

 

 明晰夢に似た感覚。夢を見ていることに、気づいているみたいな。


 周囲の景色が蕩けていく。建物は自らの影に溺れ、道は砕けて虚空に墜落し、夜と電光が交わり光と闇の境が曖昧になっていく。彼方の摩天楼も、灰色の空も、すべてが融けあい世界から失われていく。音を立てて崩れる現実のなかを、少女はただ駆けている。


「なぜ必死になって走るの、レディ?」

「休むことだって許されているのに、レディ?」


 あらゆる場所に咲き乱れた唇が、解すことのできない言葉を投げる。少女は耳を塞ぎ、走り続けた。


 ――厭だ、厭だ、厭だ。


 これは夢? それとも麻薬がもたらす幻? けれど身を刺すあまりの寒さが、体を苛む穢れた空気が、否定しがたい苦痛として少女を蝕んでいく。理不尽な恐怖が、逃げるしかない無力が、暗い感情を膨らませていく――どうして、どうして?


 刹那、時間が鈍化するのを感じた。あらゆる重さが失われ、身体が宙に浮かぶのを感じた。視線を落とし、足元を見る。そこにはもう、道はなかった。真っ赤な唇が残忍に開き、底なしの隧道トンネルを露わにしていた。


 悲鳴を叫ぶ間もなかった。


 真っ白な歯が閉ざされた時、少女の身体は宙に投げだされた。混乱する思考と混濁する意識を抱えながら重力に従って落下し、濡れた石畳へと打ちつけられ、跳ねて、転がり、倒れ伏す。おぞましく喚きたてる声が消え、絶えることなく降りしきる雨の音だけが、少女に聞こえるすべてだった。痛くて、みじめで――それでも恐怖に突き動かされて立ち上がろうとしたけれど、もうそれも叶わない。絶望が、背筋を這いあがるのを感じた。


 両脚が、なかった。失われた太腿の下からは、黒い人工筋肉と神経ファイバーが剥きだしになり、金属のインプラントはショートして火花を散らし、黒いカラメルみたいに甘く香る疑似血液が流れだしている。あるはずのない痛みは、かつて失われた生身の脚を取り戻そうとするかのような幻肢痛だった。


 少女は、水たまりに落ちこんだ二枚のクレジットチップに手を伸ばし、それを胸に引き寄せて握りしめた。雨に曇る視界に映るのは、元どおりの世界だった。朽ちかけたテラスハウスも、ぼんやりと暗い街灯も、遥かそびえる摩天楼も、確かに世界に存在している。悪夢の唇は、名残りさえなく消え去っていた。


 夢だったんだ、と信じたかった。けれど、惨たらしい残骸となった義足が、痺れるほどに冷たい身体が、酷薄な現実を突きつける――いつからか眼前で見下ろしている、ロイヤルブルーの傘を差す美貌の青年も。


「とても残念だ、レディ。君の悪夢を見たいのに、僕の手は閾地いきちにすら届かない。その心の錠前は、あまりにも硬くて重い。それは君が特異点だからなのか、或いは君が君だからなのか」


 青年は傘を肩にかけて屈みこみ、少女の顎をつかんで顔を上向かせた。この世ならざる色彩を湛えたシアンの瞳が――永遠に晴れない雲の向こうにあるという星空みたいな瞳が、触れるほどに迫っている。


「もう、壊すしかなくなってしまった」


 青年の自由な手には、銀の鎌型ナイフカランビットが握られている。青ざめた街灯に照らされて輝くそれは、雨粒の涎を垂らしていた。息を飲むほど、冷たい美しさを湛えながら――


 閃きが、夜を切り裂いた。


 少女は、あれほどに焦がれた暖かさを感じた。首元から広がっていく、赤い、赤い暖かさを。自分のなかに、ずっと在ったものを。


 もう、苦しい呼吸をする必要はなかった。ただ眠りに身を預けることが、願いのすべてだった。


 ついに少女は、冥いまどろみに墜落していった。悪夢を見ることも、ないはずの場所へと。

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