第六話――労働刑

「遅いですよお~、デカトリースさあん」

 デカトリースと呼ばれたは、シーの体に突き刺さった社会人精神注入棒をゆっくり引き抜くと、白い歯を見せ――しかし眼は笑っていない営業用スマイルを浮かべた。

「うげぇ……」

 口と腹から赤い滝が流れ落ち、シーは地面に崩れ落ち、びくびくと痙攣けいれんした後に物言わぬ屍と化す。

 その周囲には赤黒い血が一気に拡がり、血の海を形成していく……


「しかし……ですなあ」


 天使デカトリースがそう言うと、堕天男ルシファーの透明度が上がっていき、やがて完全に消滅フェードアウトした。

「本物のヤツらは、今ごろ〈第一世界〉へ逃亡している頃でしょうね」

「う~ん。してやられちゃいましたねえ~。隊長に怒られるのやだなあ~。はあ」

 サーマががっくりと項垂うなだれてそう言った。


 * * *


「おい。どこなんだ、ここは」

 動揺を悟られまいと、不自然に居丈高いたけだかな態度で、堕天男は黒の女に問う。

 彼らが〈偽物〉と入れ替わったのは、女が魔法でサーマを吹き飛ばした直後だった。

 天使たちの、人間としての仮の姿が消滅し、本体である〈霊体〉が顕現するまでの数秒間に幻惑魔法をかけ、姿をくらましたのである。

「一体お前は何者なんだ。人間ではないのか」

 女が現れた時、天使サーマが一瞬彼女を〈魔族〉と呼んだのを、堕天男は聞き逃さなかった。

 それでなくとも眼の前で繰り広げられたファンタジー映画さながらの光景を見せつけられ、その人間離れした美貌も相まって、堕天男には彼女が人間であるようには到底見えなかった。

「自己紹介が遅れました。私、魔界公爵デズモンド家が長女シーマリア・デズモンドと申します。お気軽にシーとお呼びください」

 シーと名乗った黒い女は、長い漆黒のフレアスカートの裾を軽く持ちあげ、お辞儀をした。

 その頭の上で輝く銀色の蓮の装飾品アクセサリーが、その存在を主張していた。

「魔界公爵だと」

 シーの正体を聞き、堕天男は一瞬眼を丸くしたが、すぐに平静を装い、質問を重ねる。

「ここはどこだ。なぜ天使たちは俺たちを追わなかった。いったいさっきのウネウネした変な空間は。さっきまで空中に開いてた変な穴は、何なんだ」

 そう。幻惑魔法で天使たちを欺き逃げ延びたという事実を、堕天男は知る由もない。

 そしてその後森の中に逃げこみ、おそらくはシーがここに来る際に使ったであろう奇妙な空間の裂け目の、その奥。

 ――ここに来る際に通過した紫色のウネウネした無重力の奇妙な空間のことなど、尚さらわかるはずもない。

「あの。質問を重ねる前に、まずお名前を名乗っていただけないでしょうか」

 シーの顔から先ほどまで浮かんでいた微笑が消え、唐突に堕天男を糾弾する。

 魔族と呼ばれた正体不明の女に対する恐怖心が内心にあった堕天男は、急変したシーの態度に動揺しつつも、それを表に出すまいと取り繕うことで必死だった。

「俺の名前は、黒野堕天男くろのルシファーだ。二十三歳、家電量販店ビックリカメラで働いてる」

「なるほど。それがあなたに与えられた〈罰〉だったわけですね」

 堕天男の自己紹介を受け、シーはひとり納得する。

「おい。〈罰〉って何だ。名乗ったんだから質問に答えろ」

 小心者ほどそれを隠すまいと尊大な態度に出るものであり、今の堕天男は虚勢を張るチンピラのようだった。

「ふむ。良いでしょう。どのみち私の〈住居〉から少し離れているので、歩きながら話しましょうか。ついて来てください」

 シーはそう言ってきびすを返し、歩き出した。


 今、堕天男たちは、真夜中の荒野のど真ん中にいた。

 周囲に灯りはなく、人が通る気配もない。

 サボテンや刺の生えた攻撃的な植物が点々と生え、さらにその奥には真っ黒な岩山がそびえ立つ。

 車か何かが通ったようなわだちが重なって一直線に、茫漠な荒野の地平線の彼方へと消えている。

「どこへ行くんだ。お前はこんな荒野に住んでいるのか」

「まさか。ここから百キロほど歩いたところに〈我々〉のアジトがちゃんとありますよ」

「百キロだと⁉︎」

 堕天男は思わず叫んだが、周囲は相変わらず不気味なほど静まり返っていた。

「もちろん途中から飛行魔法を使いますよ。少しだけ、お話でもしながら夜の散歩を愉しみましょう。ここは我々以外周囲数百キロに誰も住んでいない無人地帯。人眼を気にする必要はありません」

 そう述べてふたたび微笑みながら鼻唄まじりに歩き出したシーを、堕天男は変なやつ、と、思いつつも追う。

「さて。あなたの質問に対する答えですが――」

 シーは何から話すべきか、と一拍置き。


「単刀直入に言いましょう。


「何……?」

 シーの言った意味がわからず、堕天男の思考が停止フリーズする。

「おそらく十年前の異教徒狩りで〈教団〉に捕まり、異世界――すなわちあなたが今までいた〈第三世界〉に送られ、天使の監視付きで労働刑を受けていたのでしょう」

「労働刑だと? ちょっと待ってくれ。日本には職業選択の自由がある。俺がビックリカメラで働いていたのは、俺の意思――いや、本当は働きたくなんかなかったんだが、生きるためには金を稼がなきゃいけないから、んだ」

「――と、思うでしょう。しかし、そもそも人間は働く必要などないのですよ」

「何だと?」

「あなたがいた第三世界は、別名労働地獄と呼ばれています。あの世界では人間たちが労働して生きるのが当たり前のように思われていますが、とんでもありません」

 勤労こそ美徳と幼い頃から刷りこまれ、ブラック労働によって骨の髄まで資本主義を叩きこまれていた堕天男には、シーの言葉が理解できなかった。

「人間はもともと労働などしなくても生きていけるのです。この世界――〈第一世界〉の民は、自然が育むありとあらゆる恵みを享受し、各々が労働などせず、病に侵されることもなく、寿命で死ぬまでやりたいことをやって生きています。労働して大地を耕し作物を生産したり、他に生活に必要なものを労苦して手に入れなければならなかったり、理不尽な病に苦しめられるのは、罰を与えられた人間のみ――」

 自らの価値観を根底から覆され、あまりのショックに開いた口が塞がらぬ堕天男に構わず、シーは眼を細め、続ける。


「つまりなのです」

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