5
二月の夜は深遠で、空を見上げれば沈み込んでいきそうになる。
深く、遠く、逆しまに。
本当に足が地から離れ、天覆う殻に飲まれてしまっても不思議はない。
そこはきっと天国ではなく、宇宙でもなく。空という呼称が似合う虚だろう。
地獄に鬼。天には神。彼岸には仏。この世には人。
悪魔の居所など何処にもなく、きっと隅っこで震えながら毎日を潰すしかないのだろう。
「私はそんな風にはなりたくない。だから、アオに生きててもらう訳にはいかない」
老人が寝静まった深夜近く。アカネは黒いジャージ姿で三色町の住宅街に繰り出していた。彼女の視線の先に有るのは、2階建の一軒家。クラスメイトである黒鉄葵の家である。
アカネは周囲に人がいない事を確認しながら、家の周りを一周する。学校で漏れ聞いた情報を鑑みると、2階でベランダの無い部屋がアオの自室らしい。東向きのあの部屋でないかと目途を付ける。
塀のせいで確認できないが、部屋の下に室外機があれば容易に侵入できる高さだ。室外機がなかったとしても、雨どいを手掛かりにベランダのある部屋まで登り、屋根伝いにアオの部屋まで行く事は可能だろう。後は、硝子を切って侵入すればいい。
「う~ん……どうしよう?」
侵入経路の目処は着いたのに、アカネは難しい顔をしていた。
アオの部屋に電気が点いているのだ。まだ起きているのか電気を付けたまま寝る習性があるのか判別は付かないが、手早くアオだけを殺すには眠っていてくれるのが好ましい。
万が一騒がれて家族に見付かれば面倒だ。殺すべき人以外を巻き込むのは、非人道的であると漫画で言っていた。
因みに『死んでくれ』というお願いは先程メールで断られたので、強硬手段に移行する事自体は問題が無かった。
「何時間も、この辺回って様子見してる訳に行かないし……アオが寝入りそうな時間まで離れようかな?」
具体的には午前二時くらい。それでも電気が点いているなら、強行突破するしかないだろう。発見されて自分の生活が壊れる恐れは増すが、アオに明日を迎えさせるよりはリスクは低い。
「私の人間生活は、誰にも邪魔させない。不穏因子は取り除かないといけないって、映画で言ってた」
アカネは白い息を吐き、一旦アオの家から離れる事にした。
―――
―――
―――――
「きゃあああああああ!!」
闇夜を裂く悲鳴を聞いた。アカネの耳は正確に悲鳴の方向を捕らえる。
声の先に見付けたのは、女の子だった。女の子は髪を振り乱し、一心不乱に何かから逃げている様子だった。
「どうしたの?」
「た、助けて!」
「わぷ!」
アカネが声を掛けると、女の子はアカネの胸に飛び込んできた。アカネは女の子を抱き止めながら、女の子の後方を確認する。女の子の後ろに怪しい人影は認められず、アカネは周囲を警戒しながら女の子の様子を診る。
女の子は口から血を流していた。唇が切れており、内蔵の疾患ではなく口の中の外傷による流血と見られた。硬いモノに前歯をぶつけた感じ。掌と腕にも擦り傷とみみず腫れが生じており、右足首には万力で締め付けられたような痣が生まれていた。
ぶつかったと言うよりは、引き摺られた傷である。少なくとも自分で転んで出来た怪我とは思えない。誰かに襲われたのかと思われるが、先述の通り辺りに悲鳴の原因と思われる人間はいなかった。
「どうしたの?」
「は……はい……う、後ろから誰かに襲われて……」
「大丈夫?」
「わ、分からないです。さっき、そこで突然……私、怖くて、後ろとか全然見てなくて」
少女は自分が走ってきた方向を指さした。
20メートル程真っすぐな道が続いており、突き当りはコンクリートの塀になっている。T字路の構造になっており、犯人が逃走したなら追跡は困難だ。
「襲われたなら、後ろを見ずに逃げるのが正解だって映画で言ってた。後ろ見ながらだと速く走れないんだって。犯人分かる?」
「それはちょっと……でも、凄い力だったので、男の人だと思います」
「夜道で女の子に怪我させた男の人が、この辺に居るって事?」
「そ、そうですね。怖いです……」
「それは許せない事態ね。漫画でよくあるヤツだ」
アカネの顔が真剣なモノになっていく。仕事モードとでも言おうか。
「家は近所?」
「は、はい。すぐ近くです」
「なら一旦、家に行こう。そこで話聞かせてくれる?」
「あ…はい……ありがとうございます」
アカネはテキパキと状況整理をしていく。
アカネは白崎探偵事務所に居候の身で、しばしば仕事を手伝うことが有った。普通の女の子に比べると、荒事に慣れているのである。
「この家?」
「はい」
「家族の人いる?」
「多分いると思います」
女の子が示した家は小さな一戸建てで、女の子を保護した場所の近くだった。インターホンを押して受け答えをすると、玄関の扉が開いて家族の人が出てきた。
その相手を見て、アカネは目を丸くする。
「トキオくんだ!」
「あ?白崎、どうしたん?」
女の子の家族とは、同級生の馬場園トキオだった。トキオは突っ掛けで外に出てきて、家の前の簡易的な門を開けた。そこまで近付いて、アカネに肩を抱えられている女の子の様子に気が付いたらしい。
「虹子?どうした!怪我したのか!?」
「お兄ちゃん…お兄ちゃ~ん!」
ニジコと呼ばれた少女はアカネの腕から離れ、トキオに飛びついた。今まで我慢していたのか、兄の腕の中で盛大に泣きじゃくった。
「転んだのか?痛くないか?」
トキオが妹に問いかけるが、ニジコは涙を流して首を振るばかり。兄に会えて、緊張の糸が解けたのだろう。
「私が説明するから、妹さんは中に入れてあげて。被害者は、落ち着かせるものだって、映画で言ってた」
「被害者?何かあったのか、白崎!」
「分かんない!それを知るためにニジコちゃんの話を聞くんじゃない」
「お、おう。そうだな。白崎も入れよ」
「お邪魔します。ニジコちゃん、大丈夫?」
「うん……家帰ったら、少し落ち着いてきました」
「そっか、良かった」
アカネは映画の主人公の様に微笑むと、ニジコの背中をさすりながらトキオの家の中に入った。
ごく普通の2階建ての一軒家だが、あまり掃除が行き届いていない様子。人の気配も薄く、2階に続く階段には電気が点っていなかった。
「両親は?」
「今家にいねーんだ。2人共海外出張」
「そうなんだ。分かった、警察への連絡とかは私に任せて」
「警察!転んで怪我したとかじゃないのか!そういえば被害者だかなんだか言ってたな」
「私も詳しい事は分からないけど、誰かに追われてたみたい」
「誰かって、誰だよ!」
「分からない!だから、警察に捜査してもらうんじゃない」
「そ、そうか。俺、警察とかよく分かんねーんだけど、頼んでいいか?」
「うん。トキオはニジコちゃんに着いてて上げてよ」
「分かった。大事な妹だからな。ニジコを襲った誰かって奴、絶対にぶちのめしてやる!」
トキオは粗暴な印象を更に強くして、ニジコとリビングに入っていった。
アカネは廊下に残って携帯を取り出し、警察に連絡しようとした。しかし、重要な事に気が付いて手を止めた。
「…これ、連絡しちゃったら、アオを食べれなくなるんじゃ……」
ここから警察が来て聴取が始まると、今夜中にアオの家に行くのは難しくなる。それどころか、下手をすれば近辺の見回りが強化される可能性すらあった。
「でも、悪い奴は捕まえないといけないって、母親が言ってたし」
自身の人間的な生活は守らねばならないが、人間として生きるのならば、せねばならぬことをせねばならない。リビングから聞こえるニジコのすすり泣きを耳にしてしまうと、一刻も早い事態の解決を望まなくてはいけない場面だと思えるのだ。
「……サカキ兄に相談してみよ」
アカネは一旦警察に連絡へは取り止め、知り合いの警察関係者に連絡する。
そこで人間ならばどうするものかというレクチャーを一通り受けた後に、警察に連絡を取ったのだった。
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