3

「……疲れた……こんなに上手くいかないなんて」

 時は下って放課後。冬の空は夕に暮れ始め、アカネの顔を暗く照らしている。教室には、机に突っ伏す彼女以外に人影は無い。既に放課後に成り、随分と時間が経っていた。

 アカネは家に帰りもせず、アオとの『交渉』がうまくいかなかった事で困っていた。

 といっても、話をしたが拒否された訳ではないし、既にアオが話を広めてしまった訳でもない。単純に2人きりで話をする機会を作れなかったのである。

「一日無駄に潰した。アオって、あんなに誰かとくっついてる感じだっけ?」

 いや、もっとドライな人付き合いをしている筈だ。アオはどちらかと言えば、厭世的なきらいがある。

「今日に限って運が悪いよ。こういう時、バットラックと踊っちまったぜっていうんだね。映画で言ってた」

 一縷の望みを賭けて放課後に話をしようと思っていたが、アオはチャイムが鳴るとすぐに帰ってしまった。追い掛けようにも、アカネはアオに掃除当番を押し付けられてしまい、彼の背中に文句をぶつける事しか出来なかった。

「私は死んで欲しいだけなのに……これじゃ、食べないといけなくなっちゃう」

 アカネは冬の空気で乾く唇を、舌で舐めて湿らせた。

 平穏な人間生活を維持するために、アオは放っておけない。衝動や本能ではなく、義務としてアオの存在を許容することはできない。

「今夜、家に行って一回だけお願いしよう。それでダメだったら、食べよう」

 長い間アオの処遇について悩んでいたが、結局自分の生活を崩壊させ得るファクターを、放置する選択肢はない。決めてしまえば行動は迅速に。鞄を持って廊下に出た。

 部活に属していないモノは既に帰っている時刻で、部活は終了間近の追い込みの時間。内外に関心は無く、交わらぬざわめきは遠い。茜色の廊下は外界から切り離されているかのような錯覚を覚える程に、伽藍堂であった。

 アカネは無音の狂騒を窓の内に聞きながら、1階に降りる階段に差し掛かった。

「ああ。そこで止まって」

「っ!?」

「反射的に振り返らず、そのまま壁を見て話して」

 階段を下りようと踏み出した瞬間、首裏に鋭く冷たいモノを突き付けられた。

 ナイフだろうか?それともアイスピックか?

「……アオ?どうして?」

 振り返らずとも分かる声。凶行の犯人は、学校に居ない筈のアオだった。

「どうしてって?それは俺が君を脅している事への疑問?それとも、なんで学校に居るのかって思ってる?」

「トキオと帰ったんじゃないの?」

「その反応は驚いた。本当に俺が学校に居ない筈だって知ってたのか。つまり、今日一日俺を着け狙っていたのは、俺の勘違いじゃなかったって事だね」

「付け狙うなんて失礼ね。2人きりになろうと思ったの」

「その台詞は、何日か前に聞きたかったよ。それなら逃げなかったのに」

 アオの声に感情は薄く、下手な役者が台本を読んでいる様だった。

「なんで逃げるの?」

「思春期の男子は、女子の視線に敏感なんだ。君の熱視線は興奮に値したけど、受け入れる勇気はなかったんだよ」

「私、そんな発情したネコみたいな目は送ってない!」

「分かってるよ、怒鳴るなよ、うるさいな。君は本当に、冗談が通じない」

「酷い!」

「冗談を解釈する機能が無いのかな。とにかく君は欠落している」

「し、失礼ね!どこがよ」

「その物欲しそうな声、自分が欠落していると分かり切ってるって声色だ」

 アカネが感情らしきものを見せると、アオの声に僅かに火が付いた。

「人間に擬態するために、欠落を埋める答えが欲しいかい?」

「なんてことを言うのよ!私は人間なの!」

「っ!動かないでよ!だから、欠落してるって言ってるのさ!自分の首に刃物が当てられてるのが何を意味するのか、理解してないでしょ」

「う……」

 アオに怒鳴られて、アカネは動きを止めた。しかし、首筋の刃に恐怖したからではない。ましてや、刺された痛みを想像して動けなくなったからでもない。

 人間として、刺されたくないと思うべきだと考えたからに他ならない。

「一つ質問がある。アカネは、昨日何してた?」

「昨日って?」

「昨日の晩、路地裏で。君は何をしてたんだって聞いてるのさ」

「そ、それを私の口から言わせるの?」

「なんで、ちょっと恥ずかしがってるのさ」

「だ、だって!人に見られたことないから…」

「……だから、君はおかしいんだよ」

 アオは、うんざりしたように吐き出した。

「どうせ昨日の事を見られたのだって、『好きな男の子の名前を知られた』とか『着替えを見られた』とか程度にしか思ってないでしょ」

「むむ……」

「普通の人間が、あんな場面見られたら、どれだけ必死になって隠すか分かる?警察に捕まるとか、社会的な地位を失うとかそういう恐怖じゃない。外面の自分が偽りだって認めなければならなくなる、本能に根差した恐怖だ。分からないだろうね。本当に欠落している。阿呆みたいに危機感だとか現実感だとかが抜け落ちてるんじゃなくて。サイコパスみたいに道徳とか痛みが失われてる訳でもない。君の特異性は、予め定められた異質だよ」

「分かんない!そんな事無い!」

「止めてよ、そんな顔」

「顔、見えないじゃない」

「見えないけど、分かるよ。これでも、孤独な君の唯一の友達のつもりだからさ」

 アカネの肩は震え、声が揺れていた。

 自分はどこか、病気と診断される行動を取っているのではないか?

 自分はなにか、異常と判断される行為を行っているのではないか?

 答えの出ない自問自否が轟音を上げて渦を巻く。

 問うては否定。問うては否定。答えなど出ない永遠迷宮。

「ねえ……アオ、聞いて良い?」

 だから、他人に問う。

 指摘された事実は何一つ理解できないけど。

 伝えられた音階はたった一符も心に響かないけど。

 震える声を絞り出して、相手を間違えたまま尋ねた。

「ふ……普通の人間ならさ。こういう時、どういう行動に出るの?」

「どういう時?」

「秘密を知られた時」

「……そうだね。漫画とかだと、たまたま秘密を知った人間の事を好きになるらしい。それで、最終回で告白して結ばれる」

「そ、そういうモノなの?」

「そういうモノ。とにかく、君は馬鹿なんだから、考え無しに動かない方が良い。『目撃者はどうにかしなきゃならない』なんて真理は無い。君が何もしない限り、俺は何もしない。でも、何かあったら、俺は遺書でもネットでも使って、君の秘密をバラすから」

「秘密をバラすのはダメ!」

「だから、『君が何かしたら』って言ってるでしょ?大人しくしててよ。そして、こっちを振り向かないで」

「うぅ……意地悪」

 アカネの様相に精神的な連続性を認められず、アオは疲れた声になる。

「意地悪って……本当に欠落してるね。この世界を舐めてる」

「欠落欠落って、人の頭が足りないみたいな言い方しないでよ」

「正確に俺の言いたい事を理解してるじゃないか。賢いね」

「えへへ」

「………頭が痛くなる。反射と反応だけで動く機械みたいだ」

 アオはおぞましいモノを見る様に、冷たい視線をアカネのうなじに注いだ。

「取り合えず、鞄の中身をばら撒いて」

「なんで?」

「何度も言わせないで、中身をばら撒いて。ここはそういうもんだから」

「そうなの?分かった」

 アカネは鞄のジッパーを開け、言われた通りに中身を床にバラ撒いた。教科書や財布、スマホやポーチなどが散乱し、何かの缶バッチが階段を転がり落ちていった。

「中身をばら撒いたけど……って、速!?」

 鞄の中身が散らばり終わった時、既にアオの姿は無くなっていた。アカネはアオを探そうとしたが、床に持ち物が散らばったままでは、ここを立ち去れない。

「……私は死んで欲しかっただけなのに、よく分からない事ばっかり言って……」

 自身の罪など何ら感じさせない空気を吐き出して、アカネは階段の淵にしゃがみ込んだ。

 アオに与えられた情報が処理できず、動く気力が湧いてこない。ぶちまけたカバンの中身を拾い集めるでもなく、床で広がった国語の教科書を指で摘まみ上げ、表紙に描かれたキャラクターと睨めっこしていた。

「あ、お弁当箱しまわないと」

 ふと、階段の下に弁当箱が転がっているのが目に入った。気密性の高いボトル型の弁当箱で、アカネの非常食が入っている。

 あれだけは人に見られる訳にはいかない。

「え?」

 立ち上がって拾いに行こうとした瞬間、不安定になった背中を誰かに蹴り飛ばされた。

 頭の中に疑問符が舞うより早く、天地が入れ替わる。階段の角が眼前に迫り、口腔に鉄の味が広がる。鈍い音が体内に響き、意識が揺れる。随分遠い天井が、眼下に落ちていった。

「うう…」

 アカネは、肉やら骨やらが堅いコンクリートに叩き付けられる音を聞きながら、踊り場まで跳ね落ちていった。

 無防備に落ちたアカネの損傷は酷く、しばらく蹲る。なんとか顔だけを上げるが、体の中をまだ衝撃が回っている様で、血管がぐらぐらと波打つ。ドロリとした血に狭められた視界は奇妙に揺れ、どこにも焦点が合わなかった。

「……誰が、こんな事を……?」

 踊り場にべっとりと付いた血を右手で拭う。

 ふら付く視野で階段を探るが、誰の姿もそこには無かった。

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