悪魔の囁き

@JustBeh59

悪魔の囁き

 ある男が仕事終わりにバーに向かう。職場から一駅ほど離れており、同僚たちに出くわすことはない上に平日なら混むこともない。故にその店に行くのはほぼ日課になっていた。バーに向かう時に男は何も考えていない、本能のようにただまっすぐ歩く。頭を真っ白にできることが快楽なのである。店に着いたらまっすぐ進むだけのカウンター席に座り、バーテンダーと目を合わせ軽く手をあげるだけで酒が出てくる。そしていつものように真っ白な時間を堪能する、聴くわけでもないジャズの音色に包まれて。

 後ろから扉のベルの音が鳴るが彼は動じない、誰が来ようと興味がないのだ。しかし今日の客は特別だった。その男を含めても三人しかいないバーの席はガラガラであるが、彼もまっすぐとカウンターに向かってき左隣の席で荷物を整え始めたのだ。それを不快に思った男は少し右にかたより横目でそいつを確認する。見たことのない客。長髪の黒髪をオールバック、着ているシンプルな真っ黒のスーツと派手な真っ赤なネクタイの為に生まれてきたようである。彼も同様、軽く手をあげウイスキーを二つ頼む。

 「お一人ですか?」

 座った後に奴が問いかけてくる、丁寧に喋っているようだがどこか生意気な声で。男は目も合わせず「はい」とだけ答え左腕をカウンターテーブルの上に乗せた。その時バーテンダーが奴の頼んだウイスキーを持ってきてた。そいつは片手に一つずつ持ち、右手のグラスを男の左腕に押し付けてる。こっちをまっすぐと見つめてくる奴の顔と押し付けられるグラスを交互に見ながらいりませんと答えるが奴は首の角度を変えてより強く押し付けてくるだけであった。止むを得ずグラスを手にとり礼を言うとまた彼は話し出し始めた。

 「一人で飲んでいても面白くないでしょう」

企みを隠そうともしない彼は楽しそうに、流れるように話し始める。

 「前からこの店に来てみようと思っていたんですけど、最近忙しくて。よくここには来られるのですか?」

 「嫌、別に・・」

 「大胆な方なんですね」

 「はい??」

 「初めてのバーでカウンターのど真ん中に座るなんて」

 「・・たまに来るんです。」

 「あー、なるほど・・お仕事は何を?」

 「普通のサラリーマンです。」

 「普通って、また謎の多い方ですね。ご結婚は?」

 「・・・してません・・・・あ、あなたは?」

奴は左手の甲をこちらに向け指を波のように動かす。小指につけている金の指輪以外は何もつけていないことからノーということだろう。

 二人は少しの沈黙の間にグラスから一口飲む。どちらも体を同じ方を向いていることからお店に入って来た新しい客はこの二人が会話をしているだなんて思わないだろう。奴は入って来た男女をちらりと見て小声になる。

 「あの二人の正体を探って見ましょうか」

 「はい?」

 「あの女性きっと旦那がいますよ、しかも最近浮気を始めたようですね」

 「なんでそんなことが・・」

 「よく見てくださいよ、指!薬指だけ跡があるでしょ?」

 「はー・・」

 「それに・・ほら!さっきからずっとドレスを直してる、オシャレな服を普段着慣れていないんですよ」

 「確かにそうとも考えられますかね・・」

 「じゃーあなたはどう思うんですか??」

 「まー別に夫婦で久しぶりに出かけているから着慣れていないだけで・・」

 「じゃー指輪は?」

 「洗い物の時外してつけ忘れたとか?」

 「ふふ、あなたは・・優しい方なんですね」

 「何も、悪い方に捉えなかっただけですよ」

 「でもあなたは間違っていますよ」

 「なんで?」

 「男のスーツ、見てくださいよ。あれは良い質のオーダーメイドですよ、きっと。それに比べて女性のドレス、あれは絶対安物です。夫婦なら服の価値も近いもんですよ」

 男はくだらない遊びに付き合わされて嫌気がさしていた。普段なんとも思わないであろう男女にもいらだちを覚える。普段沈黙を楽しむためにこの店に来ているのにこの男のせいで沈黙を気まずく思わなければならない。言うことを思いつかない男はまたグラスから一口を。奴はまた通常の声で波を起こし始める。

 「人生の意味ってなんだと思います?」

 「はい?」

 「人生の意味ですよ」

 「また急になんですか・・」

 「別に深い解答を求めてるわけじゃあありませんよ」

奴はにたついた後爽やかでありながら嫌味のように続ける。

 「あなたにとってはどのようなものかって聞いてるだけです」

 「人生・・まー仕事を頑張って、稼いだお金で大切な人らを幸せにすることですかね・・」

そう男が言うと奴はカウンターに置いてある男の薬指をちらりと見る。男は隠すように拳を握る。太い声で男は奴に返す。

 「じゃああんたは人生の意味はなんだと思うんですか」

 「そんなものありませんよ」

 「はい?」

 「意味なんてありませんよ」

 「・・何を言いたいのか」

席をたとうとも思ったが、清々しく自分を困らせる男に負け惜しみに彼は動かずもう一口飲む、そしてお酒を奢ってもらったからという言い訳も成立させる。奴がまたすぐに沈黙を切り裂く。

 「聖書のヨブ記ってご存知ですか?」

 「いや、知りませんけども・・」

 「まー神と悪魔が賭け事のようなことをするお話なんですけどね、ヨブという名の男がいて彼の牧場は豊かで、家族とも円満に暮らしていたんですよ。そして毎日神に感謝の祈りを捧げていたんです・・それを神は誇らしげに思い自慢していたんです、自分を讃える人間のことを。そこで悪魔が問いかけるんです。『ヨブが毎日あなたに祈るのはあなたがヨブに良いものしか与えないから』だと『もし悪いことが起これば彼は祈らない』と。神はその挑発に乗って証明しようとするんです、どんなことが起きようとヨブは自分に祈り続けると。最初は・・確か狼を送って牧場の動物を全滅させて・・次に腰を痛めさせて働けなくして・・そして家族が彼を置いて何処かに行ってしまって・・とりあえず神はヨブからどんどん何もかも奪って行くんです。それでもヨブは毎日神に祈り続けたことから神が賭けに勝ったっていうお話です」

 「はぁ・・何が言いたいんです?」

 「なんでヨブは祈り続けたんだと思います?」

 「そりゃ今までたくさんのものをもらったからとか、また見守ってもらえるように祈ったとか・・」

 「まーそうとも考えられますかね」

 「じゃあ・・なんで祈り続けたんですか?」

 「怖かったからです」

 「はい?」

 「普通なら自分から全てを奪っていく神なんて祈りません、むしろ神の存在を疑うのが普通だと思いませんか?」

 「いや、それは・・」

 「けどヨブは怖かったから祈り続けた。なんせ今まで信じきっていた神という存在を否定してしまえば彼の世界は変わってしまうからです、わかります?」

 「いや、よくわかりません・・」

 「もし平らな地球が球体であったのならば、一つの真実が嘘であったならば全てを疑わなければならない、全てが嘘になりゆるのです。全てのものが意味を失うんです。」

 男は握りしめていた左手をほどき眺める。

 「おっと、もうこんな時間。私はこれで失礼します。お元気で」

奴はスッと立ち上がり、少し多めに料金をカウンターに置いてそのまま去った。男は奴を見送らず、ずっと手を見つめていた。少し経つと彼もバーを出て、一駅先の小さなアパートに向かう。男の頭の中はようやく真っ白になれた、影一つ無い白。

 六日後その男はアパートにて発見された。遺書なんてものはもちろん無い。

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