閂にて
海溝 浅薄
1
暗闇に居を構える男がいた。彼はサトウと名乗り、聞いてもいないのに語り始めた。特に用事もなかったので耳を傾けてみようかと近づいてみると、どうやら彼の両目は使い物にならなくなっているらしかった。
「お医者様に診てもらったんだ。いいだろう」
よくよく目を凝らして見てみれば、悪臭を放つボロ布を身に巻き付けた大男の両目があるべき場所にはやや灰色に曇ったガラス玉がはめられていた。医者――それは本当に医者なのだろうか――を名乗る人物が彼の目を抉る直前に代替品になると見せた義眼は向こう側が見えるほどに透き通っていたそうだが、塵と埃だらけの現在の場所で過ごすうちに汚れてしまったという。
どうせもう見えないから構わないがとサトウはかすれた声で力なさげに笑い、そして、君の目をくれよと言った。
「通行料だよ。ここを通る人間からは何かしら貰ってるんだ。大半は飲食物や金だがね。どうせ君も表から逃げてきたクチだろう。なあに、誰にも言いやしないさ」
「それじゃあ、金を出そう」
駄目だ、とサトウは拒否した。駄目だ駄目だと何度も何度も繰り返し、君は私のことを馬鹿にしている、見えないが分かるんだ、だから目を寄越せと唾を飛ばしながら喚き立てた。
否定の言葉が出てこなかった。事実、僕は彼のことを狭い道のど真ん中に突っ立っていて邪魔な存在だとしか思っていなかった。
「ほら、どうする?」
「ほら、どうする?」
耳元で反復された台詞にサトウが息を呑んだ。彼は目が見えない。だからこそ、見えるべきものが見えなかった。
「通行料を差し上げますね。少し痛いかもですが我慢してくださいね」
暗闇に溶けているかのごとく黒いセーラー服とスカートを着用した青白い顔の少女が音もなくサトウに近づき、二対の汚いガラス玉に手を伸ばす。見えないということが今だけは幸福であったことだろう。
「何をした?」
「この方は運が良いです。ちょうど五つほど新鮮な目玉が余っていたので、今回は特別に全て差し上げました。これでまた素晴らしい世界を見て回れることでしょう!」
「彼は何もかもを見たくないからここに隠れるようにして住んでいたんだろうし、目を自ら差し出したんじゃないか?」
「そうなんですか? まあ、いいじゃないですか。私が善い行いをしたことに変わりはないのですから」
巨躯を折り曲げ気絶している汚れた大男を跨ぎ、暗がりを先に進んでいく。しばらく進むと後方からサトウのものと思われる叫び声が聞こえてきた。彼の目には何が映ったのだろうか。今となってはもう、知る由もない。
「おや? 何か問題でもあったのでしょうか」
僕の前をふわりふわりと軽やかに進む少女――ササが驚いたように振り返る。彼女はもと来た道を引き返そうとしていたが、一定の距離が離れたところで眼前に瞬間移動するかのように戻ってきた。
「ミトカワさん。戻りましょうよ。先ほどの方が困っているようです」
「嫌だよ。原因はキミだろう。僕には関係がない」
「聞き捨てなりませんね。私は無視したほうが良いと警告しましたよ」
ササに初めて出会った時にもそう言われた覚えがある。どうにも僕は学習能力が欠けているらしい。彼女の言う通り、興味を持たなければ良かったのだ。こちらが少しでも受け入れようとしなければ『人でないもの』は寄って来たりはしないのに。
いつの日からか僕に取り憑いた死者の少女。彼女は悪霊である。〈了〉
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