5.8.辛木杏
2101年5月14日午前7時21分 "辛木杏" -001-
城北の端。
小高い丘にある公園から、遠くに見える空港の滑走路をジーっと見つめ続けて早30分弱。
私は丘に設けられた展望台の上から、早朝の明るい日差しが差し込む城北の街並みを見下ろしてふーっと溜息を一つ付いた。
何となく眠れなくて、家を抜け出して、散歩途中でふと思い立ったのがこの場所。
遠くに見えた空港には、ズラリと並んだ飛行機が見え…更には、つい数日前に新聞の一面を飾った巨大な爆撃機の姿も見えた。
私は何も考えず、唯々景色を眺めてじっとしている。
何か考えず、動くこともせず、展望台の一部に"溶け込んで"いた。
思えば、つい1月前から随分と環境が様変わりしたものだ。
1月以上前の私は"イレギュラー"の症状を発現して、名前も知らない同級生数名を半殺しにしたおかげで一躍危険人物になった。
それから、城壁政府の管理下に置かれて…そこから"本物"の"イレギュラー"だった、とある中年男と逃亡して…逃避行を続けたある日の夕方、偶々ショッピングモールを訪れた所で墜落事故に巻き込まれた。
ショッピングモールは崩壊し、その時にただの"イレギュラー"でしかなかった男は死んだ。
私はそれでも、彼を日の当たる場所に引っ張り出して最期を看取った。
周囲に目を向けると、そこは凄惨な事故現場の様相を呈していたが…そこにあった死体は、私と居た男だけ。
周囲の人々は皆"銀色の瞳"を輝かせて立ち上がり、各々が顔を見合わせていた。
そんな不思議な光景に取り残された私を見つけたのは、フランチェスカさんだった。
だが、"リインカーネーション"となった彼女に、最早私を捕まえる理由は無くなっていた。
事故の衝撃でカラーコンタクトを失った私の顔を見た彼女は、ほんの少し戸惑いを見せていた。
あの墜落事故以降、お尋ね者になった2人の男女のことは一気に忘却の彼方に忘れ去れて行き、私は何事もなかったかのように家に帰ることが出来た。
家族は銀色の瞳で私を迎えてくれて、ほんの少しだけ泣いていたのを思い出す。
あの墜落事故以降、元の生活に戻ったはずの私は学校にも通わなくなり、フランチェスカさんと共に行動するようになった。
フランチェスカさんと行動を共にして、そこで色々な人と出会い…
この島の住民や、リインカーネーションの事を知って…
私は一つだけ、とある決心がついた。
そして今、私はここに居る。
展望台の一部から体を抜き出して、セーラー服に身を包んだ学生時代の格好をした少女に戻った私は、最早隠す必要もない腕もしっかりと再生させて、動きを確かめるように両手を組んで上に伸ばした。
それから、組んだ手を離して体の左右に腕を伸ばし…ゆっくりと腕を下に向けていく。
深く息を吐き出しながら、そっと両腕を腰の位置に戻した私は、もう一度だけ遠くに見える空港の景色を眺めると、公園を後にした。
丘を下っていき、同じビルが狭い間隔で何棟も建っている城北の街並みに溶け込んでいく。
朝早くとは言えもう7時半過ぎ。
街は徐々に起き出して、通りには人の姿が幾つか見えてきた。
私はそっと体を景色の一部に溶かしていき、他人からは見えない姿になる。
そのまま誰にも悟られずに、城北の街中にある一棟のビルの中に溶け込んでいった。
ビルの壁に溶け込んだ私は、そのまま目的地の階層まで上がっていき…そこの廊下の上で体を再構成させる。
再び体を取り戻した私は、周囲に誰も居ないことを確認したのち、ゆっくりと廊下を歩き始めた。
やって来たのは、最上階の1035号室。
私はその部屋の扉の前に立つと、そっと右腕を扉に溶け込ませた。
そのまま足を踏み出して、扉を"通り抜ける"。
通り抜けた先。
そこは生活感あふれる…というよりも片付いているようで片付いていないワンルームだ。
私は玄関口で靴を脱ぐと、迷うことなくリビングから繋がる引き戸を通り抜けて行く。
その先は、リビングよりも更に散らかった寝室。
その部屋にあるベッドで、毛布を蹴飛ばして…片膝を立てて、腕はベッドからはみ出てダラリと下がった姿で寝息を立てて眠っているのは、普段の姿からは想像もつかないほどの人物だった。
「起きて…フランチェスカ。今日は5月14日の朝7時50分…」
私はベッドの横に立って声をかけた。
声量の大きくない私の声でも、彼女は直ぐに目を開けてくれる。
元々の職業柄なのか、彼女は直ぐに目を開けて体を起こすと、私の顔をじっと見つめて小さく笑って見せた。
「おはよう」
「おはよう。あと1日とちょっとだね」
私は体を起こしてベッドに腰かけた彼女の横に腰を下ろす。
ふーっと息を吐き出すと、彼女は何も言わずに、ベッドサイドテーブルに置かれていた疑似煙草の箱を取った。
「もう1日しかないって、思っちゃうけれど」
彼女はそう言って疑似煙草を咥えると、ライターで火を付けて煙を吐き出す。
ほんの少し開いたブラインド越しに入ってくる光が煙に巻かれた。
「準備は良いの?」
「何時でも行ける。私に準備は必要ないからね」
「確かに」
「それでね?暫く会えないだろうからここに来たの」
私はそう言うと、コテンとベッドに背を預けた。
「そう言うこと。私も今日はオフだし、どうしようと思ってた。けどもさ、何処かに出かける場所ってあったっけ?」
「どうだろう?」
私はそう言って、彼女の顔を見上げる。
疑似煙草を咥えて私を見降ろした彼女は小さく微笑んで見せた。
「だったら、行こう思ってた場所があるの…ちょっと待っててくれる?」
彼女はそう言って、小さく頷いた私の顔を見てから立ち上がる。
私も立ち上がった彼女の後について行って、リビングに置かれたソファに腰かけた。
フランチェスカがボサボサの金髪を整えて、私服で出てくるまでおよそ10分。
華美に着飾らない、シンプルな私服に身を包んだ彼女の後について部屋を出る。
何時もなら、彼女の"影"になるように姿を隠すのだが…今日はそうしなかった。
「あら?今日は外にいるの?」
「気分」
ビルの狭い廊下を歩き、エレベーターに乗って1階に降りていく。
私は滅多に外の人混みの中に自分を置かないのだが…今日は別。
フランチェスカの後に続いて、城北の目を覚ました街の喧騒の中に溶け込んでいった。
「こっち」
彼女は私にそう言うと、迷う素振りも見せずに城北の街並みを歩いていく。
私は彼女が何処へ行くのかも知らなかったが、ただただ後をついていった。
そしてやって来たのは、ビルとビルの合間に立つ小さなビル。
何軒も同じようなビルが並ぶ城北にしては珍しい、一風変わった背の小さなビルだった。
「ここは…?」
「ちょっとしたセーフハウスって所ね」
回転ドアを抜けて、彼女は私の問いにそう答えた。
ビルの中は、他のコピーペーストビルとは違い、どこか近未来的な…本来、今頃はこんな様式のビルが普通であったのだろうと思えるほどの印象を受ける。
私達は金属色が輝くエレベーターに乗って、最上階へと上がっていった。
「こんなビルがあっただなんてね」
エレベーターの中でそう呟くと、直ぐにエレベーターが止まって扉が開く。
「ピンクスターチス同盟の…というよりは、モトイシの趣味で作ったフリースペースでね、自由に使えるのよ」
「知らなかった…フランチェスカとずっと居たはずなのに」
「そう言えば、その話をしてる時には別の場所に居たっけか…ホラ、この前日本に放った大尉の一件の時よ。手持ち無沙汰になった時にモトイシが教えてくれたの」
「ああ、そういうこと」
私は合点しながら、重たそうな扉を開けたフランチェスカの後に続いて"フリースペース"とやらに足を踏み入れた。
中はキュッと音のするチェッカー柄の床板が敷き詰められ、奥には洒落たバーが見える。
広いワンフロアには、ビリヤード台やダーツ…レトロなゲーム機などがセンス良く並べられていた。
「ナルホド…暇つぶしが出来て、お酒が飲める場所ってことね」
「アンはまだ14歳だから、お酒は出さないけどね」
一先ず奥のバーに腰かけた私に、フランチェスカはそう言ってカウンターの奥に入っていった。
「家にいても何もないし、ここに居れば誰か来るだろうから。暇をつぶすのに持って来い」
「確かに。飲み物は何がある?コーラとか?」
「ある」
「じゃぁ、それで…あと、疑似煙草も」
私がそう言った直後、私がついたテーブルの横からバニラ味の疑似煙草が入った箱が滑り込んでくる。
私とフランチェスカは少しだけ驚いて、疑似煙草の箱が滑って来た先に首を振った。
「僕達ので良ければ、吸っていいけど」
バーの隅の席に居た2人組の男女と目が合う。
全く気が付かなかった上に、出会った人達に凄く驚いた。
「ああ、驚いた?僕達は仕事上がりでね、僕の家にいてもツマラナイからここに来たんだ」
そう言って、何時もの人当たりのいい笑みを浮かべたのは、人類史上初めての"リインカーネーション"となった人だった。
「居たんですか。気づきませんでした…何か飲みます?コップが空ですよ?」
「ありがたいね。僕達もコーラでいい。お酒は苦手でさ」
そう言って、2人は座っていた椅子から立ち上がり…私の二つ隣の椅子に腰かける。
咥えていた疑似煙草から漂うバニラの香りがこちら側にも漂ってきて、甘い香りに包まれた。
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