第20話 ファントムペイン②ー王城旋の人生ー

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『海都』内 中央通ちゅうおうどおり公園 第八区画––––フレアがいる区画から二ブロック先


 フレア・サザーランドから聞かされた事実を受け止め切れず、疲労した心を休ませるため木陰にうずくまっていた王城旋おうじょうぜんだったが、その脳裏には思考の濁流が自分の意思とは無関係に否応なく押し寄せていた。


「母さんが死んで生活は変わったが、お前がそこまで責任を持つ必要はないんだぞ。父さんも出張の多い今の部署から異動できるようにお願いしてるところだ。それが叶えば時間が作れる」

 父は言う。

––––でもお金がないと生活は大変になるし父さんは今の仕事が好きだろ? それなら時間の作りやすい俺が家のことをするから父さんはうんと稼いできてよ。


「お母さんのことは残念だったな。しかし部活を辞めることはないんじゃないか? 小学生の頃からずっとやってきたんだろ?」

 野球部顧問は言う。

––––弟はまだ自立できる歳じゃないですし、父の仕事も忙しいので。未練がないと言えば嘘になります。けど自分で決めたことなので後悔しません。


「本当に就職で良いのか? 親御さんと相談して決めたことなんだな? お前の家庭環境はわかっているが、お前はお前の望む人生を送るべきだと思うが」

 担任教師は言う。

––––これは自分が望んだことですし、父も納得しています。


 母の死がきっかけで旋の生活は一変し、物事の考え方も変わっていった。

 何かを決断する時、旋は状況に応じた『最良の選択』をするようになった。その選択によって自分が損をしようと不利になろうと状況が良くなる方を優先的に選ぶようになっていったのだ。

 周囲が、彼の選択が彼のためになっていないと主張しても意思を曲げることはなかった。自分の選択は正しいと信じていたからだ。

 そうやって築き上げてきたこれまでの人生。

 それが昨夜崩れ去った。

 だからこそ今までの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡ったのだ。

 そんな中、気に掛かるのは弟のあおいのことだった。

 中学半ばから面倒を見る機会も少なくなり、自分のための時間はできたが、それでも母の分まで葵を守ることに変わりはない。

 しかし人間でなくなった自分にはもうそれが叶わない。

 今朝のこともあり、今まで通り人間社会で生活できるとは到底思えなかった。

 何かの拍子に人間を襲ってしまうかもしれない。

 大切な人を傷付けてしまうかもしれない。

 それが心底怖かった。


   □


「見つけた」

 頭上から声が聞こえた。伏せていた顔を上げると灰色髪をした優しそうな男が立っていた。男が白人であるのに気づいた瞬間、フレアの仲間だと直感した。

「君が王城旋くん?」

 そう訊ねられたが警戒心が働いて何も答えなかった。すると男は「私はスティーブン・ウィンター。スティーブでいいよ」と自己紹介してきた。

「王城旋くんで間違いないのかな?」

 スティーブと名乗る男からはフレアのような敵意を感じなかった。旋は警戒心を緩めて「はい」と短く答えた。

 するとスティーブは急に頭を下げた。

「申し訳なかった!」

 突然のことに旋は驚き、後ずさるように立ち上がった。

「話はすべてフレアから聞いた。私があの時、戦場から逃げていなければ君を巻き込まずに済んでいたかもしれない。本当に申し訳なかった」

 スティーブが昨夜の浜辺で起きたことを言っているのだとすぐにわかった。

「……あなたの責任ではないです」

「直接的でなくとも責任はある」

「いえ、悪いのはフレアという男で……」

「いやいや、私にも責任が……」

 それから責任の所在についての押し問答が始まった。言い合うことに疲れた二人は木にもたれて並んで座った。

 呼吸を整える束の間の沈黙の後、スティーブが口を開いた。

「吸血鬼になったなんて悪夢を見ているようだろう? 私もそうだった」

 それからスティーブは自分についての話を始めた。

「それでも私の場合は割と早い段階で吸血鬼になったことを受け入れた覚えがある。おそらくそれは家庭環境が最悪だったせいだろう。父親には毎日殴られるし、母親は家を出たきり帰ってこない。家が貧乏だったからまともな生活もできなかった。学校にすら行けなかった。それでも正気を保っていられたのは隣に住んでいた年上の友人がいたからだ。私は彼をお兄ちゃんと呼んでいた。お兄ちゃんには勉強や礼儀を教わったよ」

 スティーブの表情がすこし曇った。

「私が吸血鬼になった時、初めて襲った人間がお兄ちゃんだった。君もそうだっただろうけれど、我を忘れるほどの空腹に襲われて、気がついたら目の前で彼が死んでいた……。吸血鬼の吸血行為は自分では止められない。血を全て吸い尽くすまで……。私は絶望した。自分を呪ったよ。そしてこんな体にしたフレアを憎んだ。責め立てて罵声を浴びせた。そうしたらフレアが言ったんだ。『起きたことはしょうがない』って。ふざけてるだろ? どれだけ悲観的な言葉を吐いても『しょうがない』と一言言って終わるんだ」

 『起きたことはしょうがない』。その言葉を聞いて、旋は自分も似たようなことを言われたと思い出した。

「初めはうるさい相手を黙らせる常套句だと思っていたんだけど、彼と付き合っていくうちにその言葉が自分に言い聞かせているように思えてきてね。過去の自分に『しょうがない』と言い聞かせて今を生きているようだって。フレアも元は人間だ。それに彼には主人がいなかった。フレアは過去を話したがらないから憶測でしかないけれど、どうにもならない状況を嫌と言うほど味わってきた結果の言葉なのかもしれない。そう思っていたらいつしか自分の変化を受け入れていた」

 スティーブは一息つくと「話が長くなってしまった」と謝罪した。

「スティーブさん、あなたは良い人だ。……でもあなたの話を聞いても、やっぱり俺は納得できないです」

 旋はスティーブに向けていた視線を地面に落とした。

「受け入れる自信すらありません。仲間を助けるためとはいえ、あの男は俺の人生を壊した。家族や友達、職場の仲間だっている……そう易々と手放せる人生じゃなかった」

 頭の中で転がしていた思いを口にすると、それははっきりとした輪郭を持った現実に変わっていき、鋭い矢となって胸を貫いていく。

「どこまでいっても俺とあいつは被害者と加害者なんだ。それは一生変わらない」

 そして目には見えない確かな痛みに涙が溢れる。

 突如として終わった人間としての生涯。そして同時に始まった吸血鬼としての生涯。

 人間ではなくなった。

 人間として死んだのに、生きている。

 この世に存在している。

 この不可解極まりない状況を誰が想像できただろうか。

 できるわけがない。

 吸血鬼がこの世にいるなんて。

 自分が吸血鬼になるなんて。

 それでも吸血鬼になってしまった。

 すでになってしまっている。

 自分の目で、痛みで思い知った。

 現実を受け入れたくない自分と受け入れるしかないと理解する自分に両腕を引っ張られる状態は筆舌に尽くし難い辛さだった。

「俺はどうしたら良いんだ……」

 だから旋はそう言うしかなかった。

 今はまだ答えを出すことができないのだから––––

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